人のつくるものは人に似ている
星野廉
2021/06/27 07:45
目次
なぞる
人のつくるものは人に似ている
枠がぼやける
冷蔵庫はお母さんに似ている
枠、タブロー、スクリーン
枠、テリトリー
世界は劇場/工場
人に似ているものに囲まれる
なぞる
なぞるは枠をつくること。
なぞるうちに枠が見えてくる。
見えてきた枠に縛られる。
枠が当然のものに見てくる。
枠は人を安心させる。
人は枠に嗜癖する。
枠なしでは人は生きられない。
人は枠を意識することがない。
*
たぶん枠は人の内にある。
誰も枠を見ることはできない。
枠をなぞる。
なぞるだけで見えているわけではない。
枠をつくる。
枠はつくるもの。
人のつくるものは人に似ている。
人のつくるものは人に似ている
よく聞く話。
人のつくるものは人に似ている。
確かに、人に似せてつくっているとしか思えないものがある。
器、スプーン、箸、椅子、寝台、座布団。
手袋、シャツ、ズボン、靴下、ストッキング、衣服。
丸みを帯びたやかんの注ぎ口を見ていて、どきりとすることがある。
ソファに体を沈めると懐かしさで涙ぐむことがある。
人の体に触れる。
人の体に当てる。人を包みこむ。
*
窓、煙突、家。
荷車、馬車、自動車、乗り物。
窓が人の顔に見えることがある。
車を正面から見ると、どうしてもそこに顔を見てしまう。
*
人形(ひとがた)、像、図、絵、絵本。
おもちゃ(玩具)。
動くもの。動かないもの。
動かすもの。動いていると想像するためのもの。
*
人面〇〇。枯れ尾花。
錯覚、錯視、幻聴。幻覚。幻想。妄想。空想。想像。
経済、ビジネス、宗教、音楽、文学、芸術、スポーツ、科学、哲学、数学、報道、宣伝。
言葉、お金、音、物語、フィクション、映像、ルール、法則、公式、概念、数字、イメージ。
人は存在しないもので動く。
人はないもので動く。
枠がぼやける
あなたは文字が人の顔に見えることがありませんか? ひらがなでも、カタカナでも、漢字でも、数字でもいいです。
フォントや大きさにもよると思います。また手書きの文字や書道なんかの文字だと、これまた印象ががらりと違ってきますね。
学校で書道の授業の時、筆をつかっているうちに、文字が文字ではなくなっていく感じがしたのを思い出します。何をなぞっているのか、自分が何をしているのか、わからなくなるのです。たまにペンで文字を書くと、そういう不思議な気持ちになることが今でもあります。
文字は意味があるのに、その意味が消えて形だけになるとか、他のことが頭に浮かんでしまうなんてことはざらにあります。書いている最中だけでなく、読んでいる時にもです。
なぞっているうちに、なぞっているものがぼやけてくるのです。枠がぼやけてくるのです。それがなぜか気持ちいい。気が遠くなるほど気持ちいい。不思議でなりません。
冷蔵庫はお母さんに似ている
人のつくるものは人体に似ている。
人体の構造と似ているものがある。
人と似た、またはそっくりな仕草をするものがある。
人の顔や姿や身体の一部を想起させるものがある。
楽器、食器、容器、道具、文房具、便器、浴槽、介護用品、医療器具。
時計、装置、電気器具、家具、農機具、機械。
気味が悪いほど似ているものがある。
見ていてほっとするものもある。
鏡、眼鏡、望遠鏡、映画、テレビ、パソコン、スマホ。
蓄音機、レコード、電話、電話機、ラジオ、マイク、イヤホン、テープレコーダー、テレビ。
*
冷蔵庫はお母さんに似ている。イメージしているのは、旧式のそんなに背も高くなく大きくもない白い冷蔵庫。
幼児にもどった気持ちになって、しゃがんだり身をかがめ、目線を下に構えて、そばに立ってみると、そんな気がする。どっしりとしていて、幼児でなくても、小学校の低学年くらいが抱きついて、ちょうどいい重量・体積・質感がある。
エプロンみたいに白くて、いろんなものが貼り付けてあって、よく耳を澄ますとぶーんというやさしい音がして、熱を発していて温かく、扉を開くと、どんな望みもかなえてくれそうで、こころがやすらぐ。
子どもたちが帰宅すると、すぐに飛んでいくところが台所。そして、真っ先に冷蔵庫を開ける――。そんな話をよく聞く。大人も、同じ。帰るなり、まっしぐら。ネコまで、ついてくる。
「衣食住」のうち、もっとも切実なものが「食」だという気がする。その人にとって基本的な欲求を、最初に満たしてくれた存在。お乳を与えてくれた存在。それがお母さん、あるいは、その代理を務めてくれた人。
その意味で、冷蔵庫はお母さんに似ていると思う。
*
冷蔵庫はお母さん。大文字で始まる Mother 、<マザー>。家にいる普通のお母さんも、<マザー>を「お母さん」と呼ぶ。冷蔵庫の中身を補充する時に、お母さんは<マザー>の腹心になる。
だから、冷蔵庫は、お母さんのお母さん、つまりおばあちゃんではなくて、大文字で始まる Mother 、<マザー>。
この<マザー>は家の中心にいる。家の中心とは台所。どんなアパートにも簡単なキッチンが付いている。共同の場合もあるだろうが、トイレと同様に必ずある。
冷蔵庫にはいろいろな紙が貼られてるのは、そこが情報の中心だから。子どもがいれば、学校関係のメモや学校からのお知らせや稽古事のスケジュール表なんかも貼ってあったりする。
貼りきれないと、そばの壁にあるボードとか壁にも貼ってあるが、大切なことは、ボードも壁も冷蔵庫の付属品だということ。あくまでも中心、つまり家の主は<マザー>である冷蔵庫。
夫とか旦那とか主人なんて目じゃない。
冷蔵庫のそばにはカレンダーもある。カレンダーもまた冷蔵庫の付属品。書き込みのできるカレンダーなんて、冷蔵庫の奴隷みたいなも。あ、奴隷は言いすぎ。家来としておこう。
威厳のある<マザー>だが、かぎりなく優しい。
冷蔵庫は家の情報の中心、つまりインフォメーション・センターなのである。家のセンターは、テレビでも仏壇でもパソコンでもスマホでもない。生きていくのに絶対に必要なものは、冷蔵庫の中にあり、外に貼られている。
食と情報を支配するものはすべてを配下におさめる。だから、支配しようとする者は必死で食糧と情報を収集する。歴史を振り返り、世界を見まわせばわかる。
偉大なる大文字で始まる Mother 、<マザー>。
冷蔵庫はお母さんに似ている。イメージしているのは、旧式のそんなに背も高くなく大きくもない白い冷蔵庫。
いわゆる鍵っ子だった子どものころの私は、帰宅すると冷蔵庫にお母さんを感じていた。夕方や夜遅くに帰ってきた母も、たぶんそうだったと思う。
旧式のそんなに背も高くなく大きくもない白い冷蔵庫。
枠、タブロー、スクリーン
人のつくるものは人に似ている。
人の意識をうつしているとしか思えないものがある。
書物、巻物、タブロー、銀幕、スクリーン、ディスプレー、モニター。
見えないものを真似ている。
聞こえないものを真似ている。
感知できないものを真似ている。
知らないものを真似ている。
なぞる。
何かはわからないままになぞる。
なぞっているという意識なしになぞる。
*
人のつくるものはどこか人に似ている。
なるべくして、そうなっているのかもしれない。
人のつくるものが人の内にある「何か」と似ていても不思議はないのではないか。
人はなぞる。
空(くう)をなぞるように見えて、枠をなぞっている。形をなぞっている。
形はなぞっているうちに形となる。
なぞった瞬間に形は謎となる。
*
枠、frame、フレーム、figure、フィギュア。
仏壇、位牌、写真、卒塔婆、墓、墓石。
棺桶、棺、火葬炉。
地獄絵、極楽絵図。
イコン、アイコン、アバター、分身。
figureの意味・使い方・読み方
figure 【名】 形、形状、形態、外観 図、図表、挿絵、図形、図式◆【略】fig.・A is shown [illus
eow.alc.co.jp
枠、テリトリー
枠を眺める。
枠に見入る。
枠は縛る。
縄張りも枠。
テリトリーも枠。
内、辺境、外。
ここからはうち、ここからはよそ。
あなたたちはみうち、あいつらはよそもの。
こっちとあっちしかない考え。
あっちにもこっちがあることに思いがおよばない。
*
境、境目、わかれめ、きわ、かぎり。
へり、辺、片、偏、変。
辺は蛮、辺は変。
はし、はしっこ、端、ふち、縁、淵。
辺境、フィロンティア、境界、線。
内は中心で光の源、外は魔の棲む闇。
世界は劇場/工場
世界は祭壇。
世界は窓。
スクリーン、銀幕、枠、モニター、ディスプレー、画面、フレーム。
劇場、芝居小屋、舞台、観客席、コンサート、ゲーム、観る、見上げる、見せ物、演じる、かぶく、うたう、舞う、プレイ、演じる、遊ぶ、競技をする。
世界は劇場。
グローバル座。
コロシアム、競技場、闘牛場、観客席、ドーム、ホール、アリーナ、公民館、市民会館、ライブハウス、寄席。
映写、写像、像、鏡像、映像、写本、筆写、印刷、インターネット、網、フィギュア、姿、形、フィルム、写真、映写機、写真機、スマホ、撮影、撮す、映す、写す、移す、反射、鏡、胸像、ポジとネガ、陰影、陰翳、印影、判子、印鑑、印象、スタンプ、御朱印、スタンプラリー。
*
世界は祭壇。
仰ぎ見る。
世界は劇場。
みんなが舞台を見つめている。
世界は映画館。
みんなが影に見入っている。
世界はホール。
みんながアーティストの姿を見つめ、声と演奏に聞き入る。
世界は競技場。
みんながプレイヤーの動きに目を見張る。
プレイヤーと観客。
主体と客体。主語と述語。subjectとobject。自と他。
あるじとしもべ。
枠、フレーム、舞台、観客席、桟敷、貴賓席、S席、一般席。
中心と辺境。
うちとそと。
疎外。排除。選別。支配と被支配。
かみとしも、上下。
階層、カースト、ピラミッド。
アイドル、偶像、スター、星。
祭壇、祝祭、供物、生け贄、スケープゴート、祭司、巫女、まつり、まつりごと、政治。
まつる、あおぐ、あおぎたてまつる、ささげる、ひれふす、みる、みられる、みいられる、みいる。
*
世界はゲーム。世界はゲームセンター。
プレイヤーはプレイするのか、させられるのか。
ルールって何?
シナリオって何?
ロール(役割)って何?
枠。縛り。
人は縛られるのが好き。
人は枠に収まると安心する。
人はきまぐれ。
枠や縛りも人に似てきまぐれ。
ルールは時とともに移り変わる。
ルールはところによって異なる。
人は自分のお気に入りのルールを通そうとする。
自分のルールと自分のスクリーンと自分の枠に固執する。
それが世界だから。それがすべてだから。
邪魔する者を消そうとする。
嗜癖している人の行動。
*
世界は無数のスクリーン。
世界中でみんながスクリーンを見ている。
やめられない、とまらない。
人はスクリーンに嗜癖している。
ひれ伏ししていることに気づいていない。
気づいても、忘れる、または信じない。
世界は網。
世界はネットワーク。
世界は蜘蛛の巣。
世界は巨大なウェブ。
蜘蛛のために何もかもがつながってしまった。
今世界は疫病でつながっている。
退治するためには、つながるしかない。
*
世界は網。
寝っ転がって見るスクリーン。
歩きながら見るスクリーン。
手のひらにのるスクリーン。
どんどんスクロールできて次々と切り替わるスクリーン。
スクリーンには枠がある。
スクリーンにはフレームがある。
でも、誰も気づかない。
気にもしない。
枠とは、気づかず、気にしないもの。
自分が嗜癖していることに気づいていない。
人がつくるものは人に似ている。
*
世界は工場。
世界は機械。
生産、自動生産・オートメーション、複製、大量生産。
誤差、失敗、故障、暴走、バグ、ノイズ、変異。
反復、くりかえす、かえす、かえる。
反復、うつす、うつる、ふえる。
似ているがどんどん繰りかえされる。
似ているがどんどんふえていく。
そっくりなところがそっくりなものたちがそっくりな身振りを繰りかえす。
うつるがうつる、うつすがうつす、ふえるがふえる。
とまらない運動。いつかはとまる運動。
人に似ているものに囲まれる
ホームセンターや電気製品の量販店などで、いろいろな商品を見ていて思うのは、「ヒトがつくるものは、ヒトに似ている」です。
お茶わん、湯飲み、箸、スプーン、フォークといった「食」に関係のある物たち。椅子、テーブル、机、布団、ベッド、枕などの広義の「住」関連の物たち。そして、シャツ、上着、ズボン、スカート、下着、手袋、帽子といった「衣」に関する物たち。こうした物たちを観察すると、ヒトに似ています。
なかでも、手袋なんて、手と激似です。湯飲みなんて、開いた口です。椅子やソファやベッドを見ていると、四つん這いになったヒトに見えます。こうやってこじつけているうちに既視感を覚えて、何だろうと思ったのですが、被害妄想にそっくりな心もちがします。
そう考えるとそういうふうに見えてくる、ところが似ているのです。
似ているは、比喩と同じで、似ているから出発するだけでなく、似ているという暗示から生まれることも大いにある気がします。「似ている」は知覚からだけではなく、想像からも生まれるとも言えるでしょう。
「似ている」は増える。エスカレートするのです。
*
器類は、水をすくう時の片手あるいは両手の形に似ています。口をつける湯飲みやグラスには、口があります。やかんや急須の注ぎ口と管の部分は、ヒトの食道の延長に見えてきます。
そもそもヒトの体は管だというレトリックを見聞きします。単純化すると、口から飲み食いした物が肛門や尿道から出て行くという消化器系を重視した比喩になりますね。食道、胃、腸という流れがあり、流れる場が管というイメージです。
循環器系だと液体が流れる血管やリンパ管があり、呼吸器系だと鼻から始まって気管と気管支という流れになるようです。気体が流れる管というイメージでしょうか。ストローやホースや笛みたい。
箸やフォークは指に似ています。椅子には背も足=脚もあります。ふっくらとした座布団の感触は、どこかお尻に似ています。衣類は、からだに当てるわけですから、とうぜん、その当てる部分にそっくりにつくられています。
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さらに、こじつけをするなら、自動車なんて正面から見ると、顔に見えてしかたがない方、いらっしゃいませんか? これこそまさに「人工の人面〇〇」です。人面魚や人面岩を見て、うわーっと驚くだけではなく、自分でつくった物を見て、うわーっとびっくりするわけですから滑稽な感じもします。
機関車や電車と言った乗り物も、そうですね。正面から見ると、表情をそなえた顔に見えます。あの不気味にも見えないこともないトーマス君なんて、とても分かりやすいイメージです。
テレビもそうですね。というか、そうでしたね。テレビ時代の初期には、受像機の上部にウサギちゃんのお耳みたいなアンテナが付いていたのをテレビで見たことがあります。
あと、こじつけると、銃なんて男性器に似てませんか? 水鉄砲はもちろんのこと。ロケットもそうかな。
その他に、ヒトやヒトの身体のある部分に似たものを挙げるなら、口を開けたポスト、長針と短針が表情を刻々と変えるアナログ時計、先端に毛のついた歯ブラシ、鉛筆やペン(どういうこっちゃ)、チューブ入りのケチャップやマヨネーズ(ぐにゅっと出てくるさまを思い浮かべてください)、ケータイ、ゲーム機のコントローラー、ガラス張りのパチンコ台……。こじつけが、だんだん苦しくなってきましたね。
被害妄想と同じで、あれもこれもと人や人の一部と似ているものを感じるのは、つらいものがあります。そうやって見なければならないような義務感を覚えるようになるのです。誰に頼まれたわけでもないのに、です。
まるで擬人化地獄。
このオブセッションを克服するには、人でなしになるか人外境に逃れるしかないのかもしれませんが、人という枠から外れることは凡人には無理なようです。
世界は顔に満ち満ちている。
人はいたるところに顔を見ます。一説によると、人面〇〇どころではなく、左右の目と口に当たる三点があると、もうそれで顔を認めるのに十分なのだそうです。こういう空想は子どものほうが得意だといわれています。
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というか、二点だけでも、私には十分です。目は口ほどにものを言う。
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どうでしょう? 見ていて気持ちがやすらぎませんか?
人形(ひとがた)や玩具の持つ力を軽んじるわけにはまいりません。また、ないものの力をないがしろにするのは、人として賢明な生き方ではないでしょう。
森羅万象に人や顔を感じなくなった時、その人はきわめてあやうい状態にある気もします。顔や表情は、言葉とか意味とかイメージとか、そういう人に備わった「枠」の芽だからです。
そんなわけで、胸は張らないまでも、地味にせっせと擬人化に励もうと考えています。
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