なぞる
星野廉
2021/06/25 14:30
誰かが手を挙げている。
それを見て、手が不自由な人は肩をすくめるかもしれない。同時に肩の位置が上がる。
手足の動かない人が、視線を上に向ける。目玉がくるりと上を向く。
それが何かの印だったりする。単なる退屈だという意味なのか、それとも何かを求めているのかは、見る人が決める。
見るは読む。見えるは読まないだけ。眺めるは考える。
身振りや仕草は伝わることもあるし伝わらないこともある。
思いもしない意味を誰かが受け取ってしまうこともある。
*
やーっと誰かが叫ぶ。
それを見ていた誰かが、ちゃーと叫ぶ。
しゃーと口にする人もいる。
みゃーとつぶやく人もいる。
どう聞こえたのかは、お互いにわからない。おそらく自分でもわからない。
どう聞こえたのかを誰かに伝えるためには、自分がその声をまねるしかない。
声は自分のものでありながら外から来たものでもある。自分の声は自分ではわからない。自分の声がどう聞こえるのかもわからない。
人の内はブラックボックス。本人にも中がどうなっているのかわからない。中に何があり、中から出てきたと思われるものが中でもそうであったのかもわからない。
出てきたものを見ても聞いてもわからない。その意味で、内は外だと言える。
*
誰かが顔をしかめる。
それを見ていた誰かが同じ顔をつくる。
二人を見ていた誰かには、最初の人が笑っている。二番目の人が怒っているように見えるかもしれない。
二人を見ていた別の誰かには、最初の人が泣いている。二番目の人も泣いているように見えて、もらい泣きをするかもしれない。
人の顔を読む。表情を読む。あるのは表情だけ。表情に内を読む。
目の前にいる人の表情を目にして、同じ表情をすることがある。
相手と同じ仕草をしている自分に気づくことがある。
あくびのように、うつるのだろうか。鏡のようにうつるのだろうか。こだまのように響くのだろうか。相手が自分にうつってきているのだろうか。
自分に相手を感じる。相手に自分を感じる。自分に誰かを感じる。誰かに自分を感じる。珍しいことではない。誰もが日々感じているはず。
*
空の雲の形をなぞる。
なぞる時には何かを見ている。雲ではない何かを。
なぞっているうちに、形が変わることがある。
雲の形も、なぞる形も移り変わる。
その推移を見守る。
うつりかわりをみまもる。
そのうち、くもがうすくなり、消えてしまう。
記憶だけが残る。その記憶も定かではない。今はないものを、どうやって再現するというのか。
再現はない。再演があるだけ。人は観客。演じているのが、誰なのか、何なのか、わからない。ただ眺めるだけ。
*
あなたは満月を見て、その模様が何に見えますか?
何かで読んだ話や、誰かに聞いた話ではなく、あなたが感じる何かが見えますか?
あなたのお気に入りの染みはありませんか? 模様はありませんか?
トイレの壁の染み、天井の板に浮かぶ模様、通学路で見かける山の形、通勤電車の車窓から見えるまだ正体の分からない「何か」、寝入り際に必ず瞼の裏あたりにあらわれる姿や景色。
あなただけの模様や姿や景色。誰かに説明しようにもできない個人的な「何か」。あなただけの物語。
*
母親の顔色ばかり気にする子どもがいた。
母親は耳がほとんど聞こえない。
母親は仕草や表情で子どもに気持ちをつたえる。
その子は必死で見る。
子どもは母親の仕草と表情をまねる。
母親と子どもがつながる。
今大人となったその子にはもう母親がいない。
その子は母親とのあいだで交わした仕草でひとり言を言う癖がある。
考える時や文章を書く時に、そうした身振りに助けられながら言葉をつむぐことがある。
母親の表情が自分に浮かんでいることに気づいて懐かしくなることがある、とその人は言う。
その人の目は鋭く賢い。
母親から受け継いだものだと私は思う。
*
まねる、真似る、まねぶ、学ぶ。
つながる、繫がる、つらなる、連なる、列なる、ならぶ、並ぶ、列ぶ、そろう、揃う。
つながる、つながり、きずな、絆、紲、縁、紐、線、流れ、枝、茎、根、葉、花。
*
なぞる、謎る、謎、なぞなぞ、名、字、己、汝、な、おのれ、おまえ、なんじ、なれ。
なぞる、なぞる、真似る、まねぶ、学ぶ、うつす、写す、映す、撮す、移す、遷す、ふえる、増える、殖える。
なぞる、たどる、そう、なでる、指、指す、示す、教える、伝える。
*
誰かがうなる、さけぶ、つぶやく、節をつける、うたう、歌う、謡う、唱う、謳う、詠う、詠む、読む。
まねる、つたわる、伝わり損ねる、違う、たがう、ちがう、異なる、ことなる、事成る、事馴る、乱れる、みだり、妄り、濫り、猥り、妄り。
*
誰かが語る、話す、放す。
それを誰かが聞く、見る、読む。
はなす、話す、放す、離す。
たがう、たがい、あらがう、いさかう、とがめる、せめる、いかる、おこる。
たたかう、たたく、いどむ、あらそう、きそう、はりあう、はる。
*
似ている。あなたとわたしは似ている。
似ている。これとあれは似ている。
似ている。同じ。異なる。違う。
異なるところが似ている。
違うところが同じ。
似ている。だからなぞる。
異なる。だからなぞる。
異なるも似ているも、一度心の中でなぞらないことには、わからない。
なぞって初めて似ているとわかる、異なるとわかる。
*
なぞるというなぞ。誰もがかかえているなぞ。
誰にも伝えることができないなぞ。
なぞる、なする、などる。
指で、目で、口で、耳で、心で、体で。
*
おぎゃーと生まれて、なぞる。
何かはしらないけど、なぞっている。
そのうち、何かに触れる。
唇が何かに触れる。
その名はわからないままに。
なぞる。なぞるも知らないままに。
できすぎた話。つくった話。でっちあげた話。
*
私は歌えない、詠えない。論理を疑っているから、論じることもできない。
語るだけ、騙るだけ。
言葉の遊びしかできない散文的な人間。
読むだけで、詠めない。かたるにおちるとは、このこと。
ほらね――。
でも、いつかうたいたいという気持ちがある。
だから、この文章を書いているのかもしれない。
こんなことを書いて、私は何をなぞっているのだろう? 何が書きたいのだろう?
それを知るためには書くしかない気がする。
空(くう)をなぞるだけではいけない。
たぶん、私はものを見ていない。聞いてもいない。
だから、うたえないのだ。
*
なぞるはなぞるでしかない。なぞる対象にはたどりつけない。とりとめのない行為。
とはいえ、なぞるしかない。嘆くことでも、むなしいことでもない。
死ぬまぎわでも、なぞるに決まっている。いつか見た雲の形、愛した人の顔、歩いた道で目にした風景。
今はもう無いのになぞる。その先にも、なぞるがあるのだろうか。それも、なぞるしかない。
わからないままに、なぞる。見えないままに、なぞる。聞こえないままに、なぞる。
なぞるだけがのこる。
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