「似ている」に導かれて考える
星野廉
2021/06/22 08:02
目次
漢字は感字
分別
言葉を使わないで「わかる」
「似ている」に導かれて考える
他の言語に翻訳不可能な文章を書く
漢字は感字
*わかる。分かる。判る。解る。別る。
こう書くと「わかる」がわかったような気分になります。すごく感覚的にわかっているからかもしれません。
*漢字は感字である。
とはうまく言ったものです。至言だと思います。
漢字が形であること、形でもって意味を表す仕組みであることを考えると、その仕組みの見事さに恐れいってしまいます。持論を言わせてもらうと、形とはいわば「顔」であり、人は形という顔に表情を読み取ってしまう。その表情は意味でもあるわけです。
世界は顔で満ち満ちている。世界にある、ありとあらゆる形象は顔貌でもあり、人に語りかけ人にさまざまな感情を起こさせる。
その意味で、漢字は「顔」なのであり、その表情は意味なのです。だから、私たちは瞬時にその表情を読み意味を取ります。もちろん、誤読は当たり前に起きます。
誤読は漢字だけに起こることではなく、そもそも読むことはノイズとバグとスキップだらけの行為なのです。読む行為のまだら(まばら)具合は、人の意識のそれに重なる気がします。
*
わかる。
これを感字=漢字とは違った仕組みにかえることで、「わかる」を「わかる」というか、「はかって」みましょう。
「はかる」とは「測る・量る・図る・計る・諮る・謀る」と「わける」ことができますが、ややこしいですね。簡単に考えましょう。
「わかる」とはちょっと違って「どれどれ、はからせてくれる?」なんて感じで、広げた指とか手なんかをもちいて、何かを「はかる」とか、相手の額に手をやって熱をはかる感じです。要するに、手や指とか皮膚とか、その辺をつかうのです。
頭だけで「わかる」のとは違いますね。
変なことを言って、ごめんなさい。このままお読みいただければうれしいです。
なお、「わかる」と「はかる」については、以下の記事に書きましたので、よろしければどうぞ。
分別
*わかる。分かる。判る。解る。別る。
この言葉の連なりを見ていたら、ある言葉を思いつきました。
*分別
です。分+別ですから、なんか怪しいですね。きわめて個人的な、つまりテキトーな印象で判断してしまいました。
「ふんべつ」とも「ぶんべつ」とも読めるところが、実に、あやしい。何か、ありそう。こういう気配を感じた時には、素直に直観(直感)を信じます。行き詰まれば、やり直せばいいのです。
これが「はかる」です。「わかる」のように正解や正答を求める性急さや欲深さとは無縁と言えます。
「分別(=ふんべつ)」とは英語で「 sense 」ですね。辞書で確かめてみます。すると、「 sense 」には「知覚」という意味でもある。嬉しいです。
まとめてみます。
*
◆「 sense 」:名詞、動詞。
(1)感じる、つまり、「あん、あ~ん、うっ、おっ、うっふん、びくっ、ぴくり、ピクピク」って感じ。感覚、五感、知覚。本当は遠くにあるのに、「近(ちか)く」にあるって錯覚が知覚(ちかく)。第六感を含む説あり。
(2)本気かよ、正気かよ、つまり、「あんた、ここ、大丈夫?」「気は確か?」「あやうくない?」「マジか?」「 マジすか?」「おい、おれの声、聞こえるか?」「自分の名前を言ってごらん」という感じ。また、「意識・無意識」の意識の異も含む。
(3)感じ、感触、つまり、「とにかく、○○って感じなのよー、わかる?」「こう、何て言ったらいいか、○○って気がするだけど、わかるか?」「この肌触りなのよ、これじゃなきゃ、いや」「これだなー!」という感じ。
(4)サトリ、勘、つまり「ピンときたのよ」「 わからんか? まだまだ修行が足りんのう」「なるほどね」「ユーレイカ(※幽霊か?じゃないです、念のため、ただし、ちょっと似てます、言う人によっては)」「あんた○○してきたわね、ピンと来た」という感じ。
(5)理解、つまり「勉強になりました」「○○ちゃん、きょうは、がっこうで何をおそわってきたのかな~? ママに教えて」「ばっちりです、あす、数学で100点取る自信あります」「キミ、この論文、なかなかよく書けているじゃないか。これでケインズは卒業だね。はっはっはー」という感じ。
(6)分別、思慮、良識、判断力、つまり「やっとで、オトナらしいあいさつができるようになったわね、ママ、嬉しい」「市長、今年の成人式は、無事に済みましたね。おめでとうございます」「いいセンスしてるね、キミ(※これは、そのものズバリですね)」「さすが、日本経済に関する予測が的中したじゃないですか、今は大不況ですよ、先生、講演料で稼げるうちに儲けましょうよ」という感じ。要するに、無鉄砲、無軌道、乱痴気騒ぎ、でたらめ、無責任、「わかっちゃいるけど、やめられない」の反対って感じ。ただし、運にも左右されることあり。ちなみに common sense というのは「社会共通の分別」→「常識」で、この辺りに含まれます。
(7)意味、意図、つまり「××? 知りません。そんなことは、○○ちゃんには、まだ早いの。さあさあ、おやつ食べて」「何だって? そんなことは、辞書で調べなさい、パパは忙しいんだから」「紙の辞書持参って言ったでしょう? 電子辞書は、この授業では使用禁止です。で、○○さん、このセンテンスに出て来る sense の意味は、何ですか?」という、状況で必死に調べるものという感じ。また、「それ、どういう意味なんだ、ええ?」という意味での意味という感じ。
(8)価値、意義、つまり「ナンセンス= nonsense =ノンセンス=無意味=無価値=無方向=無軌道=わけわかんない=くだらない」などから、ネガティブな要素を除いたものという感じ。言い換えると、真面目、まとも、おもしろくないもの。要するに、赤塚不二夫、ベケット、不条理、アホ、吉田戦車、マザーグース、オヤジギャグ、ダジャレ、ギャグ、ルイス・キャロル、シュールなどと無縁なものやこと。
(9)世論、大方の意見、つまり、「た、大変です。△対▽で、ひ、否決されました、ソーリ。まことに、アイムソーリでございます」「○○するのに賛成が★%という調査結果が、××新聞の朝刊に出るという連絡が、バン記者の□□君から内密にケータイで入りました」というシーンが好例。
(10)方向、志向、指向性、方角、(数学におけるベクトルの )向き。自分、数学、苦手です。ここは、だいたい、こんなもんでしょう。
*
何をやっていたのかと申しますと、「わかる」という日本語の言葉と、英語の sense という単語のイメージを、sense の語義を大きめの英和辞典を見ながら、日本語に翻訳するという作業を通じて比較してみたのです。
けっこう、疲れます、こういうのを読むってことは。こんなもの、書くほうも書くほうですけど。
で、自分なりに「わかった=はかった」ことは、
*sense と、「分かる(=わかる)」=「別る」=「解る」=「判る」は、かなり、かぶる、だぶる、重複する。
ということです。要するに、上に挙げた sense という語のイメージにおいては、「分」「別」「解」「判」という漢字(=感字)がかぶるのです。
こういう「かぶり=一致」には意味があるように見えて実はない。意味がないようで実はある。その意味でたぶん大した「意味」はない。あるとすれば、無意味=「ナンセンス= nonsense =ノンセンス=無方向=無軌道=〇田無道」があるだけ。
*
「わかる」について、英語の sense という単語のイメージを用いて見てきましたが、それだけでは心配です。いちおう、念のために、日本語でも、「わかる」のイメージを確認しておきましょう。
なお、以下のメモは読みにくいので、スクロールするだけでかまいません。それでも、わかるように努力します。
*
◆「分かる(=わかる)」=「別る」=「解る」=「判る」
*「 分 」⇒ わける、バラバラにする、わきまえる、おのれを知る、わけて配る、デリバリー、というイメージですね。「 分別(ふんべつ) 」「 分解 」「 分離 」「 分裂 」「 野分 」「 分水嶺 」「 分析 」「 微分 」「 通分 」「 分類 」「 分家 」「 部分 」「 五分五分 」「 春分 」「 秋分 」「 身分 」「 分際 」「 区分 」「 分割 」「 分配 」「 分譲 」「 分担 」……
*「 別 」⇒ わかれる、バイバイ、さよなら、ちょぴりさみしい、離れる、他とは違う、ゴーイング・マイウェイ、ああ何と薄情な、わける、というイメージですね。「 別離 」「 死別 」「 別居 」「 送別 」「 餞別 」「 特別 」「 格別 」「 別格 」「 区別 」「 分別(ぶんべつ) 」「 判別 」「 大別 」「 差別 」「 千差万別 」「 識別 」「 鑑別 」「 別荘 」「 別個 」「 別記 」「 個別 」……
*「 解 」⇒ とく、バラバラ、わける、帯なんかをほどく、よかったね、ゆるゆる、どろどろ、自由にしてやる、バイバイ、余計なものを取り除く、脱がしちゃう、説明する、謎をとく、なっとく、わかる、なるほど、やっぱり、そうだったのか、というイメージですね。「 解体 」「 分解 」「 解剖 」「 和解 」「 溶解 」「 融解 」「 解放 」「 解禁 」「 解散 」「 解雇 」「 解毒 」「 解熱 」「 解消 」「 解除 」「 解決 」「 理解 」「 誤解 」「 難解 」「 不可解 」「 氷解 」「 解明 」「 読解 」「 明解 」「 詳解 」「 図解 」「 解釈 」「 見解 」「 解説 」「 解析 」「 解答 」……
*「 判 」⇒ わかる、ガッテン、なるほど、われる、明らかになる、白黒をつける、暴露される、さばく、けちをつける、ポンと押す、印をつける、というイメージですね。「 判断 」「 判別 」「 判定 」「 判明 」「 判読 」「 判決 」「 裁判 」「 判事 」「 公判 」「 審判 」「 判例 」「 批判 」「 談判 」「 評判 」「 判子 」「 血判 」……
以上は、複数の漢和辞典や用字用語辞典をもとにして、「わかる」に当てはめることが「可能な」各漢字のイメージを調べて分類してみたものです。何ぶんにも素人のやっつけ仕事であることを、ご承知おき願います。
また、こうした分類は漢和辞典によっても、微妙に異なることも付け加えておきます。「とりあえず」、こんなふうにも「わけられる」、あるいは、このブログを書いている者の「個人の感想」くらいに受け止めてください。
「いやに、ごちゃごちゃしているなあ。すっきりいこうよ。『わかる』は『分かる』でわかるじゃないの。これで決まり」といったふうにお「感じ」になりましたか?
それとも、
「これで『わかる』の意味が整理できたような気がするけど、『分かる』だけじゃなくて、場合によっては『別る』や『解る』や『判る』もあっていいかな」
とお思いになりましたか?
個人的には、「わかる」に当てる漢字として「分」だけを採用して、「別」「解」「判」を捨てるなんて「もったいないなあ」という気持ちが強いです。
「わかる」に「分」や「別」や「解」や「判」を当てる作業は、「当て字」であり「感字」です。これも「はかる」だという気がします。目分量や額に手を当てるという意味での「はかる」です。
数値化を目的とする計器を使うのではなく、自分の体を使うのです。間違っているかどうかはとりあえずは問題になりません。だいたいを求めるのですから、間違ってもかまいませんし、自分にとっての「解」が見つかれば、それでいいのです。
学問とは無縁の作業です。楽問という感じ・感字が好きです。
話は飛びますが、夏目漱石の「当て字」と「感字」が大好きです。楽しいからです。
言葉を使わないで「わかる」
言葉を使ってわかろうとすると疲れます。たぶん、脳を使うからでしょう。脳を使うと、脳が疲れてストレスとなり、身体のいろいろなところにそのストレスがつたわるのかもしれませんね。
私の場合には、肩が凝るし、お腹の具合が悪くなります。
「身分け」「言=事分け」という言葉を思い出しました。
チャーミングな用語で、自分は大好きでした。丸山圭三郎(1933-1993)の造語です。丸山圭三郎がどんな人だったのか、をご紹介します。
実体とか真理とかいう、狂ったサル(ヒトのことです)がでっちあげたデタラメに、生真面目に義理を立てることなく、言の葉の表層で戯れた人でした。あの人は、ソシュールするだけでなく、デリダしていたなあ、ラカンしていたなあ、フロイトしていたなあ、マラルメしていたなあと、今になって思います。
興味のある方は、「丸山圭三郎」と「身分け」(※「見分け」ではありません)をダブルでキーワードにして、グーグルなりで検索されれば、適切なサイトにたどり着けるはずです。お勧めします。
丸山圭三郎とは - コトバンク
日本大百科全書(ニッポニカ) - 丸山圭三郎の用語解説 - 言語哲学者、フランス文学者。水戸市に生まれる。国文学者の父の下
kotobank.jp
縦軸の構造・・・「身分け」と「言分け」
生活学の視点から、新たなマーケティング戦略を考えます!
seikatu-mg.blogspot.com
で、「身分け」「言=事分け」という便利な言葉の「イメージ」を拝借しますと、次のように、言えるのではないでしょうか?
(1)ヒトは、言葉を使って考えることができる(※「言葉で考える」のではありません、「言葉の助けを借りて考える」という意味です、思考と言語との関係には、まだコンセンサスはないもようです)。これが「言=事分け」です。
(2)ヒトは、体(※当然のことですが、頭も、お腹も、膀胱も、胃も、五感も、手足も、皮膚も体内にある何もかもを含みます)を使って考えることもできる。これが「身分け」です。
で、今のヒトに欠けているのは、(2)ではないかと、自分は強く感じています。言い換えると、「わかっていいはずのこと」を、誰もが「わかろう」と努力していないのではないか、ということです。だから、体や心を病む。もちろん、自分を含めての話です。
「似ている」に導かれて考える
さきほどの「 sense 」 と「わかる」の比較に戻ります。まとめてみましょう。
*「 sense 」 : 中心となるイメージは、「気づく=感じる=あ~ん」。静的。控えめ。受動的。要するに「知覚する」こと。
*「わかる」 : 中心となるイメージは、「とく=ほどく=どれどれ見せてごらん」。動的。強引。能動的。要するに「解く」。
以上を、言い換えると、「 sense 」はじっと堪えて、「感じる」が来るのを待つ。感じたら、これまた堪えて、その「感じ」を維持しながら味わう。
一方、「わかる」は、帯なんかを解いて脱がす。挙句には、素っ裸にする。
これではぜんぜん比較したことにも、まとめたことにもなりそうにもありませんので、もう少し言葉を加えます。
「 sense 」と「わかる」とは、似ているところもあれば、似てないところもある。
つまり、ダブるところもあれば、ダブらないとこもある。ということが、わかりました。
英語である「sense」と日本語である「わかる」を比較して、これだけのことが「わかった」=「どや!」みたいな話を期待なさっていた方には、お詫び申し上げます。
ところで、「 sense 」と「わかる」とは、どれくらい似ていて、どれくらい似ていないのでしょう? 似たものを挙げてみます。
カレイとヒラメ、 区別できますか? タヌキとムジナは、どうですか(※私は区別できません)? カレーライスとライスカレー(※後者は、死語ですか、古い言い方ですか)はどうですか? アン・ルイスとアン・ライス(※この人たち、ご存知ですか?)は? オバマさんとノッチさんは? ブロッコリーとカリフラワー(※ちょっと、離れてきましたようで)は?
以上列挙したペアくらい、「 sense 」と「わかる」は似ているし、似ていない。かぶるし、かぶらない。
*
冗談はさておき、個人的な話ですが、私は考える時に「似ている」を大切にしています。たぶん論理的な思考が苦手だからでしょう。「わかる」と「はかる」について考える時にも、「似ている」に導かれている自分を感じます。
「似ている」は印象であり感想ではないでしょうか。そうであれば、正解とか真理に達する身振りとは遠い気がします。「わかる」よりも「はかる」、それも目分量みたいな感じで「はかる」のが、私のやっていることだと思います。
そんなわけで、「わかる」を「わかろう」と考えている方には、わかりにくいことをやっているだろうと想像します。
*
さきほど触れた丸山圭三郎は、「似ている」ものをつむぐ名人でした。このことについては、以下の記事で書きましたので、お読みいただければ嬉しいです。
丸山圭三郎の著作では、講談社現代新書に入っていて今は講談社学術文庫で読める『言葉・狂気・エロス――無意識の深みにうごめくもの』をお薦めします。
講談社現代新書 言葉・狂気・エロス—無意識の深みにうごめくもの
人間存在の最深部でみたされぬ生のエネルギーが奔出する。広大に無意識の言語風景の中で、狂気とエロティシズムの発生を精緻に、鮮
www.kinokuniya.co.jp
言葉・狂気・エロス 無意識の深みにうごめくもの
言葉の音と意味の綴じ目が緩んだとき現れる狂気、固定した意味から逃れ生の力をそのまま汲み取ろうとする芸術、本能が壊れたあとに
www.kinokuniya.co.jp
他の言語に翻訳不可能な文章を書く
今回は「sense」の語義を英和辞典で調べたり、「分・別・解・判」を漢和辞典や国語辞典や用字用語辞典で調べたりして、「似ている」に導かれながら、言葉に遊んでもらいました。
私は本を読むのが苦手です。お勉強も苦手です。ただ、言葉に遊んでもらうことは好きなので、いろいろな辞書をよく引きます。辞書を読んでいることもよくあります。楽しいからやっているのです。
意外に思われるかもしれませんが、こうした作業を通じて私は哲学をしているつもりなのです。フランスの現代思想を大学で勉強していた頃に、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダといった人たちの原著や翻訳を読んでいて、
*哲学とは言葉の問題ではないか
と思い当たりました。
今挙げた人たちの原著は、フランス語で書かれているのですが、翻訳不可能だと感じました。どんなことをやっているのかの見当はついても、言葉のレベルでわからないのです。
腑に落ちないと言ってもかまいせん。なにしろ、フランス語による比喩やレトリックや言葉遊び(駄洒落と言ってもかまいません)が頻出し、それがテーマに深くかかわっているのです。
そんなわけで、フランス語が母語ではない私たちが「わかろう」とするのなら、翻訳で読む(つまり、思想を読む)というより、むしろ
*原著を文学作品を読むのと同じく、たどたどしくてもいいから、辞書を引き引き、その原文のレトリックにこだわりながら、読解の記録(翻訳ではなく詳細な注釈)を読むしかないのではないか
と思うのです。
これも、「はかる」です。「わかる」のように唯一の解釈やまして真実など求めようとはしません。
そもそも上で挙げた固有名詞(人名)たちの残したテキストには解釈の自由さへあるいは複数性への指向はあっても、真実への指向も志向も思考も嗜好も試行もなかった気がします。この辺の解釈についても、人それぞれですけど。
今触れたことについては、以下の記事に簡単に触れた部分がありますので、興味のある方はお読みください。
で、学生の頃に思ったのは、フーコーやドゥルーズやデリダのやっていたことと、
*「似ている」こと(同じことではありません)を母語である日本語でやれば、それで「フーコーする」ことになり、「ドゥルーズする」ことになり、「デリダする」ことになるのではないか、
なのです。
蓮實重彦や豊崎光一の著作では、そういうことを日本語でやっている気がしました。あと、渡邊守章と高山宏の翻訳や注釈にも、それを感じます。上で紹介した丸山圭三郎の『言葉・狂気・エロス――無意識の深みにうごめくもの』の文章も、約物を駆使したアクロバティックでバロックのような文体であり、次から次へと「似ている」が出てくるさまは、饗宴=競演=協演=供宴=狂宴という感じがしてわくわくします。
私に言わせると、書き方が実に誠実なのです。
大きなテーマなので、この点については、また別の記事に書きます。
一つ言えることは、この記事でもそうですが、日本語で考える場合には、他の言語に翻訳不可能な文章を書くように心がけています。これはお遊びであり戦略なのです。
*わかる。分かる。判る。解る。別る。
こう書くと「わかる」がわかったような気分になります。すごく感覚的にわかっているからかもしれません。
*漢字は感字である。
とはうまく言ったものです。至言だと思います。
以上はこの記事の冒頭なのですが、これを英語に翻訳できますか? 英語で詳細な註を付ける必要があると思います(今、私は「注釈」や「注解」にとても興味があります、漢書や古文(和歌や俳句を含む)や外国語の翻訳における注釈や注解のことです)。
イメージを感じていただけたでしょうか? 「わかる」のではなく、はかっていただけたでしょうか?
日本語と取り組み、日本語で哲学をしようとすると、私の場合にはこうなるのです。ひとさまのことは知りません。もっと説明を要するややこしい話なのですが、これは本心です。
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