存在と無
星野廉
2021/06/11 08:09
目次
『存在と無』の英訳
「ん」の不思議
ナンセンス・ノンセンス・無意味・反意味・非意味
aum(n)・あうむ(ん)
まああむ
ママは乳房である
『存在と無』の英訳
サルトルの『存在と無』の英訳を初めて見た時には拍子抜けしました。そのタイトルにです。Being and Nothingness なのです。東京、神田古本屋街にある洋書専門店で見つけて、唖然、そして呆然となりました。
Being and Nothingness ですよ。軽すぎです。
サルトルさまの『存在と無』さまに、そんな日本の中学生でも知っているような単語のタイトルを当てるとは何事だ。そうは思いませんでしたが、あまりにも意外で、その本をこぢんまりとした店の床に落としそうになったのを覚えています。
Being and Nothingness - Wikipedia
en.wikipedia.org
せめて、Existance and Non-exisitance くらい存在感のある単語を並べてほしい、なんて、今でもめちゃくちゃを言いたくなります。
あれは、私が高校生で、夏休みに東京に出かけた時のことでした。
原題は L'Être et le néant - Essai d'ontologie phénoménologique だと薄々知っていましたが、フランス語はラジオとテレビの講座で勉強しているくらいで、自分の中では哲学とは結びついていませんでした。
その L'Être et le néant ですけど、軽い。発音も軽いし、字面に存在感がないのです。これも拍子抜けっぽいと言わざるを得ません。
*
ちなみにドイツ語訳では、Das Sein und das Nichts - Versuch einer phänomenologischen Ontologie であり、スペイン語訳では、El ser y la nada - Ensayo De Ontología Fenomenológica だそうです。
うーむ。
ドイツ語訳もあっさりしていますが、Das Sein und das Nichts と発音すると厳めしさが増します。ドイツ語を音読する際にはついつい力んでしまうのです。
スペイン語の El ser y la nada はさらさらしています。なだいなださんを思い出さずにはいられません。うろ覚えなので検索してみると、ウィキペディアの解説に次のように書かれています。
「なだいなだ」はペンネームで、スペイン語の "nada y nada"(何もなくて、何もない)に由来する。
なだいなだ - Wikipedia
ja.wikipedia.org
*
ウィキペディアで、なだいなださんの経歴を見ていて、ラガーシュさんのご主人だったのを思い出しました。
夫人は、1970年代にNHKラジオのフランス語入門でゲストを務めたルネ・ラガーシュである。
ラジオのフランス語講座を聞いていた私は、ラガーシュさんにはラジオを通してお世話になっていたのです。懐かしくてたまりません。当時は男性のゲストが、演出家で俳優でもあったニコラ・バタイユさん(1926-2008)だった記憶があります。ハスキーというか、ちょっとしわがれた声が特徴でした。
いつだったか、テレビの講座で渡邊守章先生が「フランス人は(動詞の活用を?)間違えないんですか?」とバタイユさんに話を振ったところ、「Jamais.(絶対にそんなことはない)」とバタイユさんが強く否定し、守章先生が「まさか」という表情で苦笑なさっていたのを思い出しました。
パリのノクタンビュール座にてウジェーヌ・イヨネスコの不条理劇「禿の女歌手」の初演を演出、自らも出演。
ウィキペディアは便利ですね。ちゃんとこうしたデータが載っています。
ニコラ・バタイユ - Wikipedia
ja.wikipedia.org
*
フランス語は軽快で、小回りがきいて、おしゃれで(※「駄洒落」の「しゃれ」も含みます)、明快(※言い古されたイメージです)なところが、いいです。一方、ドイツ語は、重厚で、力強く、生真面目(※「ドン臭い」も含みます)で、魂にぐっぐっとくるところが、いいです。フランス語は滑ります。ドイツ語は停滞します。
フランス語が「下痢」(※失礼!)なら、ドイツ語は「便秘」か「胃もたれ」です。フランス語が「軽いめまい」なら、ドイツ語は「昏倒(こんとう)」か「失神」です(※フランス語、そしてドイツ語を母語とする方々、ごめんなさい)。
で、存在と無ですが、『存在と無』を書いた、あの小柄なフランス人は、確か血筋的にも、また思考のプロセスを踏むうえでも、ドイツ人に近いDNA(※比喩です)の持ち主でした。だから、あの人の著作はフランス語で書いてあるのですが、胃にもたれます。
(拙文「ふーこー・どぅるーず・でりだ(その2)」より引用)
*
『存在と無』 がちがち
L'Être et le néant ほわーん
Being and Nothingness で?
Das Sein und das Nichts ごちごち
El ser y la nada さらさら
*
そ「ん」ざいと「む」
存在と無
今回の記事では、『存在と無』ではなく、存在と無、ある・ない、有無について書いてみたいと思います。
*
néant、Nothingness、Nichts、nada
ん
「ん」の不思議
*ノウ、ノン、ナイン、ニェット、ノ、ノ
*英、仏、独、露、西、伊
ほかにも、あるらしいのですが、専門家でないので知りません。勉強嫌いなうえに、無精者なので、図書館まで出かけて調べるとか、グーグルで数時間かけて検索しまくるとか、そんな元気がありません。
とりあえず、今、知っていることだけを頼りに書きます。
何しろ、英と仏は海峡で隔たれているだけ、仏を中心に独と西と伊は陸続きだし、英仏独西伊と露との間には、露や伊の親戚がいくつもある。みんな、親類同士か、兄弟姉妹の関係にある。それに、昔々には羅や希があった。
*
ちょっと暴走し始めたので、注を付けさせてください。
※西=スペイン(語)、伊=イタリア(語)、羅=ラテン語(※ローマ帝国の言語)、希=古代ギリシア(語)
で、ヨーロッパの言語が「みなきょうだい」であることを考えると、不思議ではないわけです。
ただし、フィンランド語やハンガリー語やバスク語はきょうだいではないそうですけど、詳しいことは知りません。
とにかく、ヨーロッパの諸言語は大雑把に言うなら方言みたいなものですから、似たところや共通点があっても全然不思議じゃない、ということです。
*
*印欧祖語、インドヨーロッパ語族、サンスクリット語、比較言語学
言葉だけですが、何となく覚えています。でも、その内容や、からくりや、手法については分かりません。
*ソシュール、バンヴェニスト
学生時代によく聞いた名前です。読もうと思いましたが、難しそうなんで、途中でやめました。
一般言語学の諸問題
現代言語学の雄、エミール・バンヴェニストの代表的論文21篇を収めたものである。最近の言語理論に関する簡潔な展望からソシュー
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第I巻 ソシュールの思想 - 岩波書店
聴講ノートや自筆草稿に基づいて日本の読者に初めて真の「ソシュールの思想」を示した古典的名著.(解題=前田英樹)
www.iwanami.co.jp
*
ソシュールと言えば、丸山圭三郎を思い出します。ソシュールは自ら著作を出版しなかったため、講義録や弟子や研究者の解釈を読むしかないわけですが、個人的には丸山圭三郎の解説がいちばんおもしろいです。
講談社現代新書に入っていて今は講談社学術文庫で読める『言葉・狂気・エロス――無意識の深みにうごめくもの』は読みやすくお薦めしたい一冊です。
丸山のすごさは「似ているもの」をつむぐ才能だと思います。高山宏先生が「つなぐ名人だ」とすると、丸山は「似ているものをつむぐ名人」だと言いたくなります。
「似ている」は「同じ・同一」と異なり印象です。たとえばラカンとソシュールは似ているなあと感じると、それに似ていることが『言葉・狂気・エロス――無意識の深みにうごめくもの』に書いてあるのです。とても便利です。考えの整理ができるからです。
そうした個人的な理由から、あの本が好きです。現代思想でややこしそうなところは、たいていあの本の中で扱ってあります。さまざまな固有名詞が出てきますが、丸山氏は自分の問題として記述しているところに共感を覚えます。自分なりに解釈して説明しているので読みやすいという意味です。
あとレトリックも大変お上手です。これは大切なことだと思います。特にああいうややこしいことを扱う場合には。
この本を読んで、あるいは読みながら、フーコー、ドゥルーズ、デリダ、ジョルジュ・バタイユ、マラルメ、ベケット、ウィトゲンシュタインを読むと、「似ている」ところを感じて、つまり既視感を覚えて、分かったような気分になります。あくまでも個人の意見および感想ですが、不思議な本です。元気も出ます。
そう言えば、丸山圭三郎はNHKテレビのフランス語講座でお世話になりました。優しい口調の気遣いあふれる感じの先生でした。でも、あの本の著者という印象がありません。あの本に書いてあることは、とにかく過激なのです。
講談社現代新書 言葉・狂気・エロス—無意識の深みにうごめくもの
人間存在の最深部でみたされぬ生のエネルギーが奔出する。広大に無意識の言語風景の中で、狂気とエロティシズムの発生を精緻に、鮮
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言葉・狂気・エロス 無意識の深みにうごめくもの
言葉の音と意味の綴じ目が緩んだとき現れる狂気、固定した意味から逃れ生の力をそのまま汲み取ろうとする芸術、本能が壊れたあとに
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丸山圭三郎 - Wikipedia
ja.wikipedia.org
高山宏 - Wikipedia
ja.wikipedia.org
*
話を戻します。要するに、
*親戚だから、似ていて当然
ということでしたよね。そこだけは、思い出しました。うっすらと、分かりかけました。
ところで、上で、中と韓(※朝、ハ)が出て来ないことは、まことに恥ずかしい、と感じております。この国に陸上の国境はないにしても(※ここでクレームをつけないでください、国際政治の話は苦手なんです)、とにかく隣国なんですから。
*
で、自分が不思議だと思うのは、上に書いた 「いいえ」に相当する各国の言葉たちの共通項である「 n = N = ん = ン 」のことだけでは、ないのです。
*う「ん」にゃ ―― ん(※大和言葉系)
*所得税を払ってい「な」い ―― n (※大和言葉系)
*職が「無」い ―― n (※大和言葉系)
*裕福であるか「否」かを問わず ―― n (※大和言葉系)
*ネット社会、「否」、世間一般においても ―― n (※大和言葉系)
*「有」「無」 を言わせず、彼女の手を取り ―― う = u (※漢語系)、む = m (※漢語系)
*政治には「無」関心 ―― む = m (※漢語系)
*存在と「無」 ―― む = m (※漢語系)
*古今未曾「有」の珍事 ―― う = u (※漢語系)
*希「有」な愚行 ―― う = u (※漢語系)
【※こう並べてみると、何だかどれもこれもネガティブですね。ないない尽くし、なしくずしの死、ああ南無三宝、という感じです。とりあえず、「う = u 」 を別にして。とりあえず、の話ですけど。】
*
たった今、上で挙げた、各語句に続く「――」の右に記した、
*「 ん 」「 n 」「 む 」「 m 」「 う 」「 u 」
ですけど、
不思議で仕方ないのは、それなんです。
もちろん、「う「ん」= yes 」(= 肯定) とか、「「ん」 だ「ん」だ = yes 」(= 肯定)などの、例外があるのは承知しています。
「ん」「 n 」はまだしも、「む」「 m 」(= 否定)と「う」「 u 」」(= 肯定) を、同列に扱う無神経さと無教養さとずさんさ、についても、重々承知しております。
でも、「無」の反対が「有=存在」とは、自分にとっては、とうてい思えないのです。
*
「大問題であることが確実らしい日本語」にかかわる準備運動として、最も自分にとって身近な外国語である英語について、昔、お勉強したことのおさらいをしてみます。
*no / no one / nobody / nothing / nowhere / none / nay / not / nor / neither / never / null / naught / negation / negative
これ以上あることは、確実ですが、きょうはやめておきます。これで十分だと思います。やっぱり、 negative で落ち着いたみたいです。全部、「ネガティブ」、「否定的」ということです。
*n が、否定的な意味の印(しるし)だ、素(もと)だ、
ということは、英、仏、独、露、西、伊だけでなく、その周辺から、はるか遠くにあるイラン、インドにまで達する「現象」らしい。さらに言うなら、
*n × 2 = m
*m も、否定的な意味の印だ、素だ(※たぶんですけど)
という駄洒落か嘘みたいな話も、全面的に否定するわけにはいかないらしい。
では、
*n × (-1) = (上下ひっくり返して) u
*u も、否定的な意味の印だ、素だ
ということが、あったとしても不思議ではないかもしれない。あくまで、「かも」「たぶん」ですが。
*
中学生のころに聞いた話です。国語か社会の授業中に、教師が話してくれました。この国のどこかは忘れましたが、とにかく、日本のある地方を訪れたイスラエルの人が、その地方の方言で歌われている民謡を聞いて、ヘブライ語の詩として意味がとれることに、たいそう驚いた、とか。本当なら不思議です。
次は、高校生のころに聞いた話です。上でも触れたサンスクリット語のことです。この辺の知識があいまいなので、不正確な話になるのを承知のうえで、あえて書きます。サンスクリット語は、仏教のお寺などで見かける梵字で表記されることから分かるように、仏教と大いに関係があるらしい。日本の仏教用語で「アカ」というのは「水」のこと。それが、サンスクリット語から来ている、とか。
考えてもみてください。サンスクリット語が使われていた土地、つまり古代インドを経由して、日本語の「アカ」が、はるかかなたの島国の言語である、英語の「アクア( aqua )= 水に関係する語」とつながるというのです。不思議です。
もう一つ、思い出しました。墓地に立ち並ぶ卒塔婆(そとうば)。その、「そとうば」の「とう = 塔」は、英語の「 tower = タワー = 塔」につながり、その語頭にある tow は、「とう」 と読めないこともない。大学生になって、エッフェル塔を仏語(※フランス語です、仏教語ではありません、念のため)で「 la tour Eiffel = ラ・トゥー・エッフェル 」 だと知った時にも、高校時代のあの授業を思い出しました。不思議です。
「う」ー「ん」。今、思い出しても、唸らずにはいられません。
ヘブライ語については、未だ不明。サンスクリット語については、謎は実証済みらしいので、 「そうか、別に不思議ではないのか」と納得できるような気がします。そうはいうものの、今もなお、素直に言って、
*不思議です。
*
上で書いた、「 ん 」「 n 」「 む 」「 m 」「 う 」「 u 」ですけど。
「な」「ん」で、こ「う」「な」る「の」、でしょうか?
根拠など、「な」い。実証も、でき「な」い。
単なる「 accident = 偶然 = アクシデント = 事故 」だ。
果たして、そうなのか? それとも、何らかの学術的な説や法則があるのか? あったとして、それは既に定説なのか?
それで思いしましたが、日本語とタミル語。タミル語って、インド南部、スリランカの言語ですよ! 隣の国とは違うのですよ。その二つの言語の驚くべき類似性を示し、あとは実証するだけのところで、世を去った学者がいました。学生時代に、その学者の授業を受けたことがあるので、記憶違いではないはずです。 Oh, no. オー・ノー(※ごめんなさい、大野晋先生)。次に、「すすむ」ことにします。
タミル語でも、「 ん 」「 n 」「 む 」「 m 」「 う 」「 u 」 についての類似性があったのかは、全然知りません。
ただ、言葉って不思議。おもしろい。そう、思います。
*
「ん = n 」 と口にしてみてください。声らしきものが出ないかもしれませんが、口の中の状態は、感知できると思います。舌と前方の口蓋(こうがい)がぴったりくっつきますよね。両唇は、離したままで、「ん = n 」。唇を閉じると 「 m 」 になるので、注意してください。
ナボコフの書いた 『ロリータ』 の冒頭を思い出します。何だか、すごくエロいことをしているような気分です(※実際、そうなのかもしれない)。
Lolita, light of my life, fire in my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta: the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap, at three, on the teeth. Lo . Lee. Ta.
「ん = n 」は、ご承知のように子音と呼ばれています。だから、五十音図では仲間外れ扱いにされているのですね。子音だけで、母音がないから、はみっ子。
次に、
「む = m 」です。「 mu 」と母音を添えないでください。子音だけ。それが、音の素(もと)なんですから。意味の素(もと)なんですから。味の素(もと)なんですから。上で説明したように、口を閉じて、上と下の両唇がしっかりと、むすばれた状態になりますよね。次に、
「う = u 」。思いきり、口をとがらせましょう。では、ご一緒に、
*ん・む・う
このさい、この行為の意味、つまり、今、なぜ、自分がこんなことをしているのか、なんて考えるのは、やめましょう。
*ん・む・う
「 無 」 から 「 有 = 意味 = 言葉 」 が生じる瞬間。 m から u が生じる瞬間。
m と u は反意語ではなく、表裏一体の関係にある。
つまり、
自分が「尻尾の無いサル」から、「狂ったサル」 = 「ヒト」 になっていくさまを、模倣し、演じているような気がします。
戯れ言はさておき、気になります。
そ「ん」ざいと「む」、そして/あるいは、存在と無
そんざい「と」む、そして/あるいは、存在「と」無
「と」・あいだ・あわい・間
*
いずれにせよ、
*不思議
だけが残ります。
ん。
【この章の文章は、拙文「「ん」の不思議」に加筆したものです。】
「ん」の不思議
げんすけ 2020/07/16 08:21 以前から不思議だと思っていることがあります。それについてきょうは書きたいので
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ナンセンス・ノンセンス・無意味・反意味・非意味
「いないいないばあ」という、赤ちゃんを対象にした遊びがあります。ヨーロッパにも、あるらしく、フロイトも、fort/da というドイツ語の、この遊びに注目しました。
fort (あっち=あれぇ!?=去って=いない)/da (ここに=ほら!=いる=ばあ)、という感じでしょうか。
本で読んだ覚えはありますが、フロイトがどういうふうに考えていたのかは、忘れました。個人的には、フロイトが、あの遊びに注目したということを、知っただけで十分でした。
パリ・フロイト派だの、フロイトの大義派だのという「言葉=レッテル」がまつわりついている、ジャック・ラカンが考えていたらしきことには、とても興味がありますが、ラカンは、ジャック・デリダ同様に「ダジャレ」=「比喩の多用」=レトリックの名人=迷人ですから、フランス語から日本語に翻訳するのは無理でしょう。
ラカンの翻訳なんて読んでも大儀なだけです。翻訳なんて欲深いことをするのではなく、大義とか大意で我慢しましょう。
とはいえ、
「いないないばあ」は、「いないない/ばあ」と分けることができそうです。すると、
*「いないない/ばあ」=「□/■」=「0/1」=「無意味/有意味」=「偶然性/必然性」=「不条理/条理」=「無/有」=「ノンセンス(ナンセンス)/センス」=「志向or指向/無方向」……
といった二項対立を連想してしまいます。
二項対立は、すっきりしすぎていて=きれいすぎて=話ができすぎていて、実に、あやしい=いかがわしい=うたがわしい=うさんくさい感じがします。えっ? 「うさんくさいのは、おまえだろう」ですか? 確かにそうだと思います。返す言葉がありませんので、話を変えます。
*
みなさんは、俳句を詠む場合、まずどうなさいますか? 今まで俳句を詠んだことのない人が、俳句を詠もうとするとき、5・7・5という規則だけをあたまに入れて、いきなり、森羅万象に目を向けるなんてことをするでしょうか? そのまえに、既存の俳句を読むだろうと思います。
*俳句は、いきなり詠むのではなく、まず読む。
のです。
*
和歌であっても、漢詩であっても、ヨーロッパの言語の定型詩でも、状況は同じだと思います。さらに言うなら、韻文だけでなく散文でも同じことが言えるような気がします。たとえば、基本的に何を書いてもいい、
*小説は、小説を読んでから書ける(=掛ける=賭ける)。
のです。
話を一気に飛躍させますが、ヒトの赤ちゃんは、いきなり言葉をしゃべりません。
*赤ん坊は、話し言葉を聞いてから話すようになる。
のです。
言葉は外からやって来るみたいだけど、内に受け皿がないと学習できないのではないか。ということは、内なる言葉とか、内なる線路みたいなものがあるはずだ。
無から有は生じないということでしょうか。それとも生じるということなのでしょうか。分かりません。分かるわけがない気がします。
*
ところで吉田戦車という漫画家の作品をご覧になったことがありますか? 個人的には、ちょっとだけ好きです。数ページ読むだけで、もう十分だと言えば、ファンの方々に叱られそうですが、そんな感じです。
昔、不条理演劇というお芝居が流行りました。サミュエル・ベケットのほかには、ウジェーヌ・イヨネスコ(上で出たニコラ・バタイユさんの演出したお芝居がこの人のものです)やハロルド・ピンターという固有名詞が頭に浮かびます。
正直な感想を申しますと、「わけのわかんない」お芝居です。というか、それが売りなのです。で、その不条理演劇ですが、そうですね、五分から十分見て途中で帰るだけで、自分には十分です。
無粋な自分には、松鶴家千とせ(しょかくや・ちとせ)師匠の「わっかるかなー、わかんねえだろうな、イエーイ」のほうが合っていて、昔、テレビで食い入るように見ていました。
以上挙げたような漫画やお芝居や漫談を、よく「シュール」だとか言いますね。シュールレアリズム(非現実的でわけがわからない)の略らしいです。同じような趣の作品や芸を、「不条理」「ナンセンス=ノンセンス」とも言う人がいます。
個人的に注目したいのが、
*ナンセンス=ノンセンス= nonsense
です。このナンセンス=ノンセンス関連の本として、かつて、高山宏先生から、高橋康也氏の『エクスタシーの系譜』と『サミュエル・ベケット』、そして、種村季弘氏の『ナンセンス詩人の肖像』を名著だから、と言って薦められて買い求めました。でも、残念ながら、ピンときませんでした。
筑摩書房 ナンセンス詩人の肖像 / 種村 季弘 著
筑摩書房のウェブサイト。新刊案内、書籍検索、各種の連載エッセイ、主催イベントや文学賞の案内。
www.chikumashobo.co.jp
白水Uブックス サミュエル・ベケット
いつの時代にも、新しい読者を獲得し読ける稀有な作家、サミュエル・ベケット。ゴドーとは何者なのか。ベケットの半生とその時代を
www.kinokuniya.co.jp
ただし、ナンセンス=ノンセンスとは、直接関係ありませんが、やはり高山宏氏経由で知った本で、種村季弘氏が矢川澄子氏と共訳した、グスタフ・ルネ・ホッケ著の『迷宮としての世界』は、すごく面白かったです。種村季弘氏が単独で訳した、ハンス・H・ホーフシュテッター著『象徴主義と世紀末芸術』と、グスタフ・ルネ・ホッケ著『文学におけるマニエリスム』も、刺激的でした。
平凡社ライブラリー 文学におけるマニエリスム—言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術
文学におけるマニエリスムの展開の諸相とその本体を、ヨーロッパ世界の厖大な作品のうちに追い求め、レトリックや文体論、神秘主義
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*
話を「ナンセンス=ノンセンス= nonsense 」に戻します。なぜ、ナンセンスだけでなくノンセンスと表記したのか言いますと、sense には「意味 vs. 無意味」というさいの「意味」のほかに、「正気」=「本気」=「常識」=「まとも」といった系列の語義があり、さらに「方向」=「方角」=「指向性」=「志向」という「向き」を表す一連の意味があるからなのです。
そのうちの最後に挙げた意味に注目したいのです。つまり、
*nonsense には、無意味=常軌を逸した=「ん?」=「わけがわかんない」=「変だ」=「たがが外れている」=「ほぼエラー・不具合・故障」に加えて、「無方向」=「行き場を失った」=「行き先がわからない」=「よるべない」=「千鳥足状態」=「ふらふら・ぶらぶら」=「宙ぶらりん」という「意味」(※無意味に意味があるという「ん?」)がある。
レトリックとしての「計算式」を立てるなら、
*無意味 - 意味 = 無 = m = n n =ん? ん?
ということです。繰り返しますが、あくまでもレトリックです。
河出文庫 意味の論理学〈上〉
ルイス・キャロルからストア派へ、パラドックスの考察にはじまり、意味と無意味、表面と深層、アイオーンとクロノス、そして「出来
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河出文庫 意味の論理学〈下〉
ドゥルーズの思考の核心をしめす名著、渇望の新訳。下巻では永遠回帰は純粋な出来事の理論であり、すべての存在はただひとつの声で
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終わりなき対話〈3〉書物の不在(中性的なもの、断片的なもの)
外へ、純粋なる外部へ—語ること、書くこと。始まりも終わりもなく、痕跡を残すこともなく、肯定でも否定でもなく、あらゆる負荷と
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*
俳句に話を戻します。俳句の魅力の一つは、このノンセンスだと思っています。たとえば、例の、
古池や蛙飛びこむ水の音
なんか、私にはシュールで、不条理で、ナンセンスで、ノンセンスに感じられます。もしも、松尾芭蕉の句だという学校で学ぶ国語的な知識がなかったら、「すごい」とか「すばらしい」とか「これは名句」だとか言う自信はありません。
実のところ、私は俳句が読めないし詠めないので、「すごい」とか「すばらしい」とか「これは名句」というのは、紋切り型を繰り返しているにすぎません。私にも体裁を繕うとか、世間体を考えるくらいの見栄があるということです。
見栄を張るのは、むなしい・空しいです。
*む・な・くう。
*mu・na・ku。
【この章の文章は、拙文「かく・かける(6)」に加筆したものです。】
かく・かける(6)
げんすけ 2020/09/07 08:08 「いないいないばあ」という、赤ちゃんを対象にした遊びがあります。ヨーロッパにも
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aum(n)・あうむ(ん)
「あうん・あーむ・おおん・おーむ・おうむ・aum・om」という、言葉とも音とも言えるような言えないような声の出し方があるそうです。インド哲学や仏教と関係がある「聖なる音」らしいのですが、詳しいことは知りません。
「阿吽・あうん」という言葉を見聞きするたびに、あいうえお表を連想します。「あ」から始まって「ん」で終わるという、単純な理由なのですが、その単純さゆえに、かえって深いものを感じてしまうのです。
ここで、みなさん、「あーん」と口にしてみてください。さあ、恥ずかしがらずに、ご一緒に、「あーん」。
「あ・a」は、大きく口を開けて息を吐き出す音ですね。
「ん・n」は、口をかすかに開いたまま、上の歯の裏から奥にかけて(※硬口蓋というそうです)、舌をぴったりとくっつけて、鼻から息を出しながら出す音です。でも、個人的には、「m」、つまり、両唇を合わせて閉じて、鼻から息を出す「む・mu」の「u」なしの構えで出す音で読んでいます。
そうすると、「あーむ」という感じになります。さきほど触れた、aumとかomとかいう、仏教かサンスクリットか知りませんが、そんな大そうな話とは関係なく、何となく、このほうがしっくりするので、そう読む癖がついているのです。
*
あいうえお表のうちの、「あ・a」と「ん・m」だけを、よく口にします。実は、二回に一回は、ただあくびをしているだけなのですけど、マジに「あーむ」と声に出すことがあります。
伸ばしぎみにゆっくりと発音しながら、何度も繰り返します。すると、「あ・a」と「ん・m」の二つはつながり、連続した音になります。目をつむって声に集中すると、口と鼻という名の穴を通る空気の流れと、鼻の奥の震えだけが感じられてきます。そのうち、眠くなります。
人間は口を開けて「a」と言ってうまれて、「m」または「n」の口をして息を吐いてなくなる。そんな思いにとらわれます。本当のところは知りません。他人様が生まれる場にも、死ぬ場にも立ち会った経験がないからです。
なにしろ、母の「呼吸がとまった」という知らせを受けて、施設に駆けつけた時には、母はもうなくなっていました。その日の午前中に面会できたのが、せめてもの幸いです。
そんなわけで、人間一般どころか、自分自身に関しても、どうなのかは知り得ません。なにしろ、生まれた時の記憶はありません。これから先、いつかは死ぬのでしょうが、その時に自分がどんな口をして死ぬのかは知るよしもありません。
それでいいのでしょう。誰もがそうなのでしょう。
あーむ。
今のはあくびなのですが、あくびは「生きて死ぬ・息して無くなる」という行為のレビュー(復習)であると同時に、リハーサル(予行)だという気がします。ワンちゃんも、にゃんこも、ネズミさんも、クマさんも、気持ちよさそうにあくびをしますね。興味深いです。嬉しい気もします。
【この章の文章は、拙文「言葉とうんちと人間(言葉編)」に加筆したものです。】
言葉とうんちと人間(言葉編)
げんすけ 2020/08/16 11:26 「ぐちゃぐちゃごちゃごちゃ」について書いてみようと思います。「ぐちゃぐちゃごち
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まああむ
「まぼろし」という言葉のなかでも、とりわけ気に入っている「ま・ma」という音を発して遊んでいたら、官能的とも言うべき体験を味わうことができました。
まず、口をしっかりと閉じます。両唇に力を入れるのがコツです。これが、「m」の発音の構えです。そのまま、声を出そうとしてみてください。鼻から空気が抜けてハミングする状態になりますね。鼻の奥から喉にかけて、わずかな隙間に残っている空気が震えるのを感じ取ってみましょう。
次に、上の口の構えから、一気に息を吐き出す要領で、大きく口を開けます。口の後部にある軟口蓋と呼ばれる皮膚の外壁と、鼻の奥が、そこを通る空気と共に振動します。これが「a」です。
以上の「m」から「a」への移行を、繰り返してみましょう。口の動きと状態に集中し、できれば、あたまを「から・空・殻」にして、何度か試してみてください。
〇
学生時代に、言語学や音声学をかじったことがあります。そうした分野では、「ma」という音、一つを取っても、それをさらに意味素、形態素、あるいは音素という言葉で「分ける」作業を行っていました。現在でも、あのような言葉が使われていて、あのような作業をしているのかどうかは知りません。
そうした作業に意味があるのかどうかは分かりませんが、話としておもしろかったことは確かです。そのこじつけの妙技と、荒唐無稽なところが、おもしろかったのです。うさんくさいとも言えます。
今になって思うのは、たとえば「ma」を分けることで、「何か」が「分かる」のかと言えば、それははなはだ疑問だということです。
「分ける」作業で、「何か」が「分かる」のではなく、「生じる」のだとすれば、「まぼろしをいだく」ことではないかという気がします。「ma」と発音してみることで「何かは分からない何か」を「感じ取る」ことのほうが、ずっと刺激的な体験ではないかと思っています。
〇
「ma」と発音しながら、その行為を「何か」に置き換える作業は、二つに「分けられる」気がします。
一つは、意味素、形態素、あるいは音素という具合に、その音の構成要素に「分ける」方法です。もう一つは、「ま・間・魔・真・麻・馬……」というふうに意味やイメージに「分ける」やり方です。
繰り返しになりますが、両者に共通するのは「置き換える」、つまり「すり替える」という動作が行われているらしいということです。これは、人にとって免れない行為のようです。
「ma」と発音する行為だけでなく、話を広げて話し言葉と書き言葉について考えてみても、事態は変わらないみたいです。言葉を発する、つまり話したり書いたりする、ヒトという種に特有の行動は「置き換える・すり替える」という仕組みを基本としていると言えそうです。
一見、遠いようですが、「置き換える・すり替える」と「まぼろし」とは、深くかかわり合っている。そんな気がします。ふだんは意識されないのですが、そうなっているのに気付くこともあるみたいです。「あれっ」とか「おやっ」とか「あらまあ」という感じでしょうか。
「あはっ」とか「なるほど」とは違います。「分かる」や「ひらめく」のではなく、あくまでも「気づく」のです。
「分かる」や「ひらめく」には、あらかじめシナリオが用意されている気がします。やらせや出来レースみたいです。だから、驚きはなさそうです。確認できた喜びならありそうです。知的な興奮とも言える気がします。
いずれにせよ、「まぼろし」には驚きが伴う場合が多いようです。喜びが伴うという保証はない感じがしますが、「思い込み」という「まぼろしのまぼろし」というか、「二重のまぼろし・ダブル・double(※この単語を大きめの英和辞典で引いてみてください。おもしろい意味がいろいろあります。)」にはあるみたいです。
一方で、「すり替わっている」のに気が付かないケースも、意外と多いみたいです。「まぼろし」は「化ける」のがうまいのでしょうか。人が迂闊(うかつ)なだけなのでしょうか。
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「ま・ma」という、音であり言葉であるものの持つ、イメージの喚起力と意味の生成力は、かなり強そうです。「ま・間・魔・真・麻・馬……」という意味の連鎖や、「マーボー豆腐のロシア風」転じて「ロシア風麻婆豆腐」といった荒唐無稽なイメージについての話とは別の考え方をしてみます。
とはいっても、基本的には似たような「置き換え・すり替え」作業をしているだけなのですが、たとえば、日本語以外の言語で使われている、母親を意味する「ママ・マー・マーマ・マーム・マンマ・ママン」、古い日本語で乳母を意味する「まま・めのと」、ご飯やお米を意味する日本語の「まんま、まま、めし」、日本語以外の言語で、乳や乳房と関係のある「mammal(英語で「哺乳類」)・ mammalian (近代ラテン語で「乳房の」)(※以上はジーニアス英和大辞典を参照しました)」という語に、目を向けて考えてみます。
「ma」という類似だけでなく、さらに細かく「m」と「a」に「分ける」ことも、言語学上は可能らしいです。その上で「m」に注目してみます。すると、「milk (英語で「乳・母乳・牛乳」)・ meolc および milc (古英語で「人間・動物の乳や乳汁」)(※以上はジーニアス英和大辞典を参照しました)」との類似にまで、話を「つなげる」ことができます。
以上の話を、単なる「こじつけ」とみなす人がたくさんいそうです。無理もないことだと思います。確かに、いかがわしくて、うさんくさい話ですよね。それとも、「なるほど」と納得なさいますか?
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「こじつけ」で「でまかせ」ですが、「ma」に言語とまぼろしの根源を見る思いがすることがあります。「リアル」だという、まぼろしの特徴を備えている点が、まさに「まぼろしっぽい」のです。
「ma」という音を出すさいには、「m」から「a」へと口の構えと呼吸を移行させていきますね。「m」とは言語学上は子音と呼ばれているのですが、日本語ではローマ字とは異なる制約があるために、「む・ム・無・无・武・牟・務・夢……」というふうにしか記述できません。
どうしても「mu」のように、母音の「u」が伴います。もっとも、実際にはあいまいに発音されるようです。「すきやき」や「キムチ」が「sukiyaki」や「kimuchi」ではなく、「skiyaki」とか「kimchi」と発音される場合が多いのとほぼ同じです。
「m・mu」というと、その音に相当するものが数多くあるにもかかわらず、個人的なイメージでは、「無」を特権化させてしまいます。「何もない」という意味の漢字ですね。好きな文字です。めったに目にしない漢字ですが、「む・无」も「何もない」という意味らしいです。
「a」については、「あ・ア・阿・吾・我・彼・亜・嗚……」のうち「阿」を優先させたい気持ちになります。「阿吽の呼吸」というフレーズのイメージが、強いからかもしれません。
「阿」を広辞苑で引くと、「阿字(=あじ)」・「阿字観(=あじかん)」・「阿字本不生(=あじほんぷしょう)」などいうフレーズにまで導いてくれて、その意味のうさんくささに驚き入ってしまいます。
ここでは、「どうだ!」・「梵語だよ。分かんないの?」・「密教だよ。大したもんだろう!」・「真理様の象徴だよ。いやだ、ご存じない?」という具合に、虎の威を借りる狐のような真似はしたくありませんので、ご興味のある方は、大きめの国語辞典で、上記の「阿」の付くフレーズをお調べになってください。
意味をお確かめになり、感動なされば、そんないいことはないと思います。
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「あうん・あーむ・おおん・おーむ・おうむ・aum・om」という、言葉とも音とも言えるような言えないような声の出し方があるそうです。インド哲学や仏教と関係ある「聖なる音」らしいのですが、詳しいことは知りません。そもそも、私は「聖」とは縁遠く、近寄りたいなどという高望みも欲も持ち合わせておりません。
「ま・まー」や「ma」が「m」から「a」への移行だとすれば、「あうん・あーむ」は「a」から「m」への移行だと言えそうです。
両者は逆だと考えられるみたいだし、連続して繰り返して唱えれば、「えん・円・縁・延」、つまり「わ・輪・環・和」を延々と描いているようにも思えます。わ、わ、わ……。
*
*maを逆にしてam、ひっくり返してwa
*MA・AM・WA
*Uはない、うはむ
こういうのは無意味なのでしょうか。意味が有るように見えるという意味で有意味なのでしょうか。
nonsense(無意味) の意味が辞書に書いてあるのと同じくレトリックの問題なのでしょうか。
分かりません。この辺の仕組みは分からないようにできている気がします。脳・no が脳・no を見ることができないように。It's a no-no, you know.
MAAMMAWA
A M
A M
M A
M W
A A
W M
AMMAWAMA
Uはない、うはむ
*
とはいえ、気になるので繰り返します。
――「ま・まー」や「ma」が「m」から「a」への移行だとすれば、「あうん・あーむ」は「a」から「m」への移行だと言えそうです。
――両者は逆だと考えられるみたいだし、連続して繰り返して唱えれば、「えん・円・縁・延」、つまり「わ・輪・環・和」を延々と描いているようにも思えます。
ヒトが口をぱくぱくさせながら「話している」さまを見ていると、そんな気がします。だから、「わ・話」なのでしょうか。「話す」は、両唇を「離す・放す・放つ」、あるいは、声つまり息を「発する・発す」なのでしょうか。
こういう、でまかせで、トリトメがなく、いかがわしい思いに耽るのが好きです。根拠がないというのは、個人的には、自由という状態を意味します。宙ぶらりんですが、心地よいです。
唐突ですが、ジャンガリアンハムスターを見ていると、「あーむ」という感じで背伸びをしながら、あくびみたいな仕草をしますね。かわいいです。
その様子を見ながら連想したのですけど、ヒトの赤ちゃんの泣き方は、あくびの逆で「むあー」とも聞こえなくもないです。一言発するのではなく、繰り返して「むあーむあーむあー…」と泣くのですから、逆ではなくて、やっぱり「わ・輪」なのでしょうか。
「むあー」と「あーむ」が、始原的な行為だという気がしてきます。なんだか、話が、宗教・カルト・スピリチュアリティ・オカルトめいてきました。一緒くたにくくってしまい、関係者の方には失礼かと思いますが、個人的には苦手な分野です。
こうしたたぐいの生業(なりわい)とは、これまで無縁で来ました。この先も無縁でいたいと思っています。
Uはない、うはむ。
【この章の文章は、拙文「「げん・幻 -5-」」に加筆したものです。】
げん・幻 -5-
げんすけ 2020/07/09 08:36 「まぼろし」という言葉のなかでも、とりわけ気に入っている「ま・ma」という音を
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※「げん・幻」(全10回)という連載に書いたことが、今の私にはいちばん親しく感じられます。
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ママは乳房である
ママ・まま・まんま、について、お話しさせていただきます。
生まれてまもない赤ちゃんにとって、自分という意識はあまりないとか、ほとんどないという説があります。まわりの世界と自分が未分化の状態にあるという考え方です。
これに従うと、赤ちゃんにその名前で呼びかけても「は?」という感じであり、それが自分を指す音である、まして言葉であるとは「まだ」感じられないということになります。
ただし、一つ確かなのは、お乳を与えてくれる存在と、その人を含むまわりの人びとの笑顔には反応することです。お乳をもらった代価として「ほほえみ」を返すわけです。ギブ・アンド・テイクとか、文化人類学的な意味での交換(贈与・交換・分配のうちの交換です)みたいなイメージで考えましょう。
贈与論 - Wikipedia
ja.wikipedia.org
贈与(文化人類学)とは - コトバンク
日本大百科全書(ニッポニカ) - 贈与(文化人類学)の用語解説 - 一般に、人に物品を無償で与えることを意味する。人に物品
kotobank.jp
さて、以下の「こんにちは赤ちゃん」の歌詞ではほとんどが大和言葉であるにもかかわらず、「ママ」が使われているのは注目していいと思います。ママとは「まんま」つまりご飯であり、赤ちゃんにとってはお乳なのです。ママが父になるなんて駄洒落は、たとえ言いたくても言いません。書きましたけど。
その代わりに駄洒落を続けると、ママとママル(哺乳類を意味する英語のmammal)は似てません? その mammal の語源は「乳房の」らしいのです。ママは乳房である、なんて強引にくっつけちゃいます。
♬ わたしがママよ
赤ちゃんにとっては「とりあえず」乳房がすべてなのです。おお、ママ。すごいじゃないですか、永六輔さんは大和言葉の扱いにおける天才じゃないかと常々思っているのですが、ここで確信しました。
この歌詞を読んでいると、赤ちゃんの笑顔や泣き声やつぶらな瞳と、ママのお乳とが交換される関係にあることが一目瞭然で分かります。
こんにちは赤ちゃん 梓みちよ 作詞・永六輔 作曲・中村八大
このほほえましい歌で記事を締めくくることができて、とても嬉しく思います。
長い記事にお付き合いいただき、ありがとうございました。
【この章の文章は、拙文「音の名前、文字の名前、捨てられた名前たち(言葉は魔法・第13回)」に少しだけ加筆したものです。】
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