揺らぎ移ろう <動詞について・001>

星野廉

2020/11/18 16:19


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 揺らぎ移ろいやすい性格なので一貫したものがなかなか書けません。いまではそうした文章を書くのを諦めています。一貫したものとは、たとえば論文や小説です。論文はもともと書くつもりはありませんが、小説を書くのを断念したことが悔やまれます。断片的で揺らぎの多い文章と構成の小説も可能なのでしょうが、読みにくくなるのは必至です。小説を書いていて、これは読みにくいものになりそうだと感じると、そのたびに書き続けることができなくなり、ああまた駄目だとため息が出ます。読みやすい作品を書きたい気持ちが強いだけに、小説を書こうとして途中で収拾がつかなくなるのは悲しいものです。それを繰り返しているとなおさら悲しいです。


 小説の執筆を続けるには体力が要りますし大きなストレスがかかるので、病状と年齢を考慮し断念するに至りました。かつては小説と心中しようと考えたこともありましたが、もうそんな気力はありません。とはいえ、書くこと自体は好きなので、ジャンルにとらわれずに書きたいことを書いていく決意をしました。


 あくまでも個人的な意見なのですけど、小説を書くには覚悟が要ります。小説というジャンルの伝統を考えずにはいられないから、言い換えれば小説という形式を受け継ぎ、なおかつ破壊したいからにほかなりません。小説と呼ばれてきた先行する諸作品を読んではじめて小説は書けるものである(俳句あるいは短歌は先行する俳句あるいは短歌を読んでから詠むのと事情は同じ)。そう信じているからだとも言えます。


 ジャンルにこだわるのではなく、何を書いてもいいのが小説だと開き直ればいいのかもしれませんが、これまでに読んできた小説を意識して書くのが小説だという固定した観念からなかなか抜け出せません。また、読み物を書くつもりであればそこまで気張る必要もないのでしょうけど、融通がきかないのです。


 何を書いてもいいジャンルと言えば、個人的にはエッセイや随想と呼ばれる形式が頭に浮かびます。一貫性に乏しく脈絡のない文章を書きがちな者にはふさわしい形式だと言えそうです(いや高をくくっていると言うべきでしょう)。自由な形式という言葉を使いながらも相変わらずジャンルにこだわっていますね。矛盾です。ひとりで笑ってしまいました。


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 動詞に心引かれます。いくつかの動詞をタイトルにしてブログで連載記事を書いたことがありますが、書いていて楽しかったのを覚えています。動詞を題材にあれだけたくさんの記事を書いたのですから好きなのでしょうね。いま動詞と書きましたが、そもそも品詞を文法的にあるいは言語学的に調べたり考えることができません。文法や言語学にうとく、また体系的なものを体系的に学びたい気持ちがない、つまりお勉強が嫌いなのです。したがって専門用語は知りません。ここでは、勝手気ままに動詞についての思いをつづっていきますが、それが身の程をわきまえたやり方だと思います。


 上で動詞と書きましたが、いま思い浮かぶのは、「ゆらぐ・ゆる・ゆれる」、「うごく」、「はなす・はなつ」、「おもう・かんがえる」、「よむ」、「うたう・となえる」、「うつる・うつろう」といった言葉たちです。どれもが動詞と呼ばれる点で共通するわけですが、文法用語としての定義や文法という抽象はどうでもいいです。少しかじっただけですが、文法はおもしろいです。へえーっと感心する理屈や説明に出会うことがあります。とは言うものの、上に挙げた個々の言葉たちと触れ合っているほうがずっと刺激的です。こういう触れ合いが大好きなのでしょうね。


 上述の言葉たちについて、ああでもないこうでもないとか、ああだこうだと考えていると時が過ぎるのを忘れます。寝入り際にもよく考えているのですが、いい気持ちで眠りにつくことができます。死に際に考えていれば、安らいだ気持ちで死ねるでしょうか。どうなるかは分かりようがありませんね。死の間際とまではいかないまでも、死を身近なものとして感じる時に、自分にとって大切なものが立ち現れてくる、とは言えるような気がします。


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 今年の春先のことですが、病状がとくに思わしくなかった時に好きな作家たちが病床にあった時期に書いた作品ばかりを読んでいました。おそらくその人にとっていちばん気になるものが書かれているのだろうと思うとおろそかに読むわけにもいかず、ゆっくりと時間をかけて読んだのですが、同時に居ても立っても居られない心境にもなりました。そのいらいらした気持ちは、この自分にはいったい何があるだろうという焦りだった気がします。人生の終り近くになって自分の頭を占めるものは何だろう。自分にとってもっとも大切なものとは何か。無為徒食の身でこのまま生きていていいものだろうか。


 その後、六月から九月にかけて、約十年前に書いたブログ記事の大半をnoteで再投稿したことが(このアカウントは削除しました)、自分が何に関心があるのかを思い出させてくれました。再投稿をするまでには込み入った経緯があり、そのアカウントを削除するまでにもさまざまな感情と事情があったのですが、それはさておき、いままたこのnoteで新しく記事を投稿するのは、書きたいという強い思いがあるからにほかなりません。


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 以上の文章をお読みになった方はお気づきになられたでしょうが、私は論理的思考が苦手なので、思いつくままに言葉を連ねていく癖があります。とりわけいまは情緒が不安です。飛躍の多い文章はさぞかし読みにくいでしょうが、これから先もお付き合いいただければ幸いです。


 ここで投稿する記事は、いわば「つねに開かれた状態」にしているために、内容が頻繁に変わったり、記事そのものが削除される可能性があります。これは、いったん投稿した記事をいじる癖がもともとある上に、現在は自分で管理および抑制ができないほど気分が移ろいやすいからなのです。病に甘えた、この身勝手な言い訳をどうかお許し願います。



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