ここはどこ? <場所について・001>

星野廉

2020/11/19 08:01


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 場所について考えることも、身体について考えることも、とどのつまりは非日常について思考することにほかならない。人は場所と身体について普段は意識する必要はない。わざわざ場所と身体と名づけ、言葉による腑分けの世界に入る瞬間が非日常を意識する時である。非日常は瞬時のひらめきだ。その刹那に目を見開き見たものを言葉の世界に転写しなければならない。うまく行けば洞察になる。多くは単なる思いつきで終わる。非日常の輝きと怪しさをとらえてそれが言葉になっていれば写生になる。とらえ損なえば説明になる。写生の中で特に怪しい輝きを放っている文章におそらく洞察がある。


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「ここはどこ?」は、病院や施設にいる高齢者が発する言葉の最上位に来るという。現に母がそうだったし、同様の状況に置かれれば私もそう言うにちがいない。「どちら様ですか?」もよく発せられる問いだが、「私は誰?」は少ないようだ。そもそも自分が誰かという疑問は、ある程度心に余裕がなければ生じないのではないだろうか。それに比べ、自分がどこにいるのかはよるべのない気持ちや不安感とセットになった切羽詰まった根源的な疑問であり、それを声に出す行為は言葉の使用というよりも叫びや赤ん坊の泣き声に似ている。そんな声を発する人の中では、自分が誰なのかは保留されていて意識にのぼらない気がする。断っておくが、ここで問題にしている「私は誰?」は「自分とは何者か?」という哲学的な自問とは異なる。これこそ、よほど心に余裕がない限り発想さえされない贅沢な問いであろう。


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「ここはどこ?」は場所を尋ねているように聞こえるが、話はそう単純ではない。「ここはどこ?」が自分のいる場所や空間を知りたがっていると考えるなら、「今何時?」とか「今日は何月何日?」は時間を尋ねていることになるが、どこかに収容されているよるべない高齢者が後者の問いを自分から口にするとは考えにくい。もちろん、見当識を調べるために医師や介護に従事している人が対象者に「今日は何曜日?」とか「今日は何月?」と質問することはある。今はいつなのかは、自分は誰かと同様に、ここはどこかに比べると、切羽詰まった状況で発する根源的な問いではない。


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 ここはどこなのだろう。自分は誰なのか、私とは何なのか、人間とは何なのかといった問いは保留する。そもそも私の頭を占めてはいない。今考えているのは場所のことである。場所について考えることは体についてあれこれ思いをめぐらすことにつながる。体は器だとも言えるが、このごろは場所だとつくづく思う。

 自分というものが自明なわけではない。気にならないだけだ。そもそも自分が何なのかとか誰なのかと考えるには取っかかりがない。いかにも唐突であり取ってつけたような問いにしか思えない。その点、ここはどこかは自発的な疑問だという直感がある。この疑問には取っかかりがある。というか取っかかりだらけなのだ。生きていると、いろいろなものが目に入るし耳に入るという具合に、人は体全体で知覚するが、そうした知覚が取っかかりとなって思いは「ここはどこなのか」へと向かう。


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 書き手がよるべない状況に置かれて自分のいる世界を観察している作品が面白い。この場合の世界には自分も含まれる。あたりをきょろきょろ見回している自分を含めた目に見える、あるいは耳に聞こえる世界が書かれているという意味だ。

 たとえば、夏目漱石の『硝子戸の中』『思い出す事など』、古井由吉の『魂の日』『聖耳』、藤枝静男の『空気頭』『田紳有楽』『虚懐』『接吻』が面白い。これらの作品を私は心境小説と勝手に呼んでいる。人間関係が出てこないところがいい。他の人が出てきても、その人との関係は問題にならない。ただその人を眺めている。理想は他の人間が出てこない小説だ。心境小説というと志賀直哉の『城の崎にて』だろうが、私にはピンと来ない。私のイメージする究極の心境小説とは闘病記である。人の根源的なよるべなさが如実に現われるからである。


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「ここはどこ?」という問いは、それを耳にする人の解釈とは根本的にずれたところから発せられている場合が多いのではないか。もしその問いを耳にしている人が、その言葉を発した人が自分はどこにいるかを知りたがっていると受け取っているなら、それは違うだろう。

 言葉を発した人は、もはや自分が人という存在ではなく、目だけであったり感覚だけであったり、あるいは意識だけの存在のレベルで「ここはどこ?」と発言しているのではないか。とりあえずその存在を魂と呼んでみよう。魂にとって肉体は器であり、その入れ物が自分であるという意識は消えつつある。「ここはどこ?」の「ここ」とは入れ物が置かれている場所というより、その入れ物であるかもしれないが、さらには入れ物とそれが置かれた場所の区別さえ希薄になっている場合もあるだろう。そんな魂に対して「ここは〇〇病院よ」とか「ここは××よ」と的外れなつまりずれた言葉が向けられることは容易に想像できる。

「ここはどこ?」という言葉が、その発言者のいる場所を尋ねているのではなく、その魂がいる入れ物は何かと尋ねている場合を想定してみよう。この場合の「ここはどこ?」は「私はどんな入れ物の中にいるのか」言い換えれば「私は何なのか(誰なのかというよりも)?」に近く、「私は猫なのか?」「私はアジサイなのか?」「私はコップなのか?」と同じレベルの問いとして解釈することができる。

 ここで思い出すのが、藤枝静男の『田紳有楽』である。荒唐無稽だと言われることの多いこの作品は藤枝静男の私小説群にしっくり収まっている。魂が目だけになったり意識だけになったりしながら、その魂の器である身体がこれまで繰り返し彷徨してきた懐かしい藤枝的風土を漂っている。この作品において、魂は藤枝ワールドに出てきたさまざまな物や生き物や想像物という器を、ヤドカリのように次々と身に纏ったり脱ぎ捨てたりしているのである。


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 場所と肉体は自分の顔に似て意識することはできても見ることはできない。

 人にとって自分がどこにいるか自分がどんな器に盛られているかはイメージとしてなぞるしかできないのであり、そのイメージがすべてなのだ。

 鏡で見る自分の顔は、自分ではない。そのイメージだ。自分に対面することはできない。夢と空想の中を除いては。

 

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 目だけになってふわふわと漂う。車の助手席に身を沈めていると死後のイメージに包まれることがある。知覚が鈍り一種の酩酊状態に陥る。自分の足で歩いている時にも、頭だけあるいは目だけになって移動している気分になることがある。これもまた快い。意識だけの存在を主人公にした小説を書こうとしたがある。物語として維持することができず放置している。さまざまな場所のイメージが断片としてあるだけだ。



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