ゆめる <動詞について・002>
星野廉
2020/11/20 08:27
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どうして「夢をみる」と言うのでしょう。「夢」「を」「みる」ですよ。もどかしくてたまりません。一語で言えないのが不思議です。平気で勝手に造語するほうなのですが(たとえば「ゆめる」なんて具合に)、さすがにこれだけはその気になりません。自分にとって夢は特別なものなのです。だからこそ、一語で言いたいのです。
そもそも夢はみるものなのでしょうか。視覚に障害をかかえている人はどんな夢をみるのでしょう。障害の程度や生まれつきか中途かでも異なるだろうと想像します。個人差もあるにちがいありません。健常者でも、夢における知覚、おおざっぱに言えば五感の現われは、個人差もあるでしょうし、その時々によって異なると思います。
重度の難聴者である自分はどうかと振り返ってみましたが、夢の中で音をとくに意識した記憶はありません。他の人はどうなんでしょう。友達がいないので尋ねたことはないです。今夜あたり夢で音を聞いてみたいなあ、懐かしい人の声が聞きたいなあ、なんて思いました。
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「みる」という言葉は視覚の働きだけを指すとは限らないようです。素人は素人なりに辞書や用字用語集を頼ってみます。ああ、もう出ましたね。「頼ってみる」です。「みる・見る・視る・観る・診る・覧る・看る」と分光できます。「やってみる・手相を見る・味を見る・動向を見る・被災地を視る・演劇を観る・脈を診る・患者を診る・目録を覧る・病人を看る」なんて例が載っていましたが、視覚以外の知覚機能を動員しておこなう行為が含まれています。
そうした行為全般を「みる」で済ませたり、「見る」で統一する傾向がみられます(こうした現象を視覚の優位や視覚の特権化というもっともらしい言葉でまとめることもできるでしょう)。個人的には、どうでもいいとかお好きなようにという意見ですけど、何となくではなく何らかの思いがあって使い分ける姿勢のほうに好感を持ちます。
「みる」を漢字で書き分けることによって、「みる」の多義性が見えてくる様には知的な興奮を覚えわくわくします。「わかった・分かった・解った・判った」ような気分になるからでしょう。あくまでも個人の感想ですが、「わかった」と声に出して言うと、すとんとお腹に来ます。これは瞬時の出来事です。「分かった・解った・判った」という文字を見ると、瞬時ではなく一秒の四分の一か半分くらいの時間がかかってアハっと頭に収まります。これは島に土着していたやまとことばと大陸から来た漢語系の語の差なのではないか、なんて小ざかしげな考えが浮かびますが、いかにも図式的であり作り話めいていて嘘くさいと感じます。こんな説明ではたぶんわかっていないだろうとにらんでいます。理解はしたとしても。
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それにしても、「理解する」という言い方の借り物感をどう受け止めたらいいのか、なんて考えこむ自分がいるのは確かです。「わかった」と「理解した」は自分の中では同じとは言えないという意味なのですが、こういうのは島系つまりゲルマン人の一派であるアングロサクソン系の言葉と大陸系(正確には大陸の南部ですけど)つまりラテン系の語という二系統の言葉が重なり合って一つの言語を成しているらしい英語と似た状況にあるのではないだろうかと短絡したくなります。ごちゃごちゃ書きましたが、要するに、例の I got it. と I understand. の違いと似ているのではないかということです。
日本語も英語もこうした二重構造があるために語彙が豊かであるとか単語数がきわめて多いと言われますが、ラテン語を起源に持つフランス語やバリバリのゲルマン語系であるドイツ語は語数が少ないと聞いた覚えがあります。うろ覚えで申し訳ありません。正確なところは、それぞれの言語の単語数をじっさいに数えたことのある人(世の中は狭いようで広いですからきっといます)にお尋ねください。
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いま思い出しましたが(話が飛んでごめんなさい)、最近「やさしい日本語」という言い方を見聞きするようになりました。災害や疫病などが起こった非常時や緊急時に必要な情報を日本在住の外国人に伝える際に、なるべく分かりやすい日本語を使おうという動きから出てきた考え方らしいのです。その「やさしい日本語」についてテレビの番組で解説していた時に「和語」という言葉が使われていて、おやっどういうことなのだろうと不思議な気持ちになりました。
たしか日本語に不慣れな外国人には和語つまりやまとことば系の表現のほうが分かりやすいという話でしたが、事はそんなに簡単なのだろうかとしばし考えこんでしまったのです。外国人と言ってもいろいろな言語の話し手がいる、話し言葉と書き言葉では事情が違うのではないか、漢字を使う言語の話し手とそうではない人では書き言葉で理解の差が生じるのではなかろうか、そもそも和語は分かりやすいのか、日本語を母語としない人にとっても漢語にくらべて和語のほうが借り物感が少ないなんてあり得るのか、そもそも誰にとってもすべての言葉は借り物ではないか、というような疑問や邪念がつぎつぎと頭に浮かびました。ああ、ややこしい……。そんなこと、分かりっこありませんよね。
その時の混乱が頭の中で再燃してきそうなので、話を戻します。
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なぜ「夢を見る」と言うのでしょう。珍しくお勉強をしたい気分になったので、辞書で調べてみました。すると「いめ」が出てきます。これは「寝(い)目(め)」だそうです。「寝(い)」とはねむり・ねむることで、「寝(い)を寝(ぬ)」という言い方が多く、「寝も寝(ね)られず」という慣用句があり、その例文が「更級日記」から引用されて複数の辞書に載っています。「sleep a sound(deep) sleep」(ぐっすり眠る)なんて英語の表現を思い出しました。イコール、sleep soundly(deeply) という公式みたいなものを大学受験の際に勉強した記憶があります。「これを同族目的語という」とかなんとか、熱心な英語教師が熱弁していました。懐かしい――。
「いめをみる」とは、「寝ていて目で見る」ということらしいのですが、何を見るのかと言えば、うつつ(ゆめうつつのうつつ)に見るものではない「何か」ということでしょうか。この「何か」については、ネット検索をするといろいろな説というか怪しげなお話が出てきます。要するに、夢をどうとらえるかによってさまざまな解釈ができそうだという印象を受けました。と言うか、とても疲れたというのが正直な気持ちです。
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この記事の冒頭で半分おふざけで「ゆめる」なんて言いそうになりましたが、そんな必要はないのではないかといまは思っています(こうなると、もうやけですね)。現実(うつつ)に起こっていることはすべて正しい――。そうなのかもしれません。「ゆめる」なんて言い方はなくて、現に「夢を見る」と言っているのは、夢を特別視していないというより、うつつ(「うつつを見る」とは言いませんが)にあるものやことたち、たとえば山や川や草や木や、景色や芝居や様子や味と、夢を等価にとらえていると考えられるのではないでしょうか。
つまり、夢はまぼろしではなく、うつつにあるものやことやさまと同じくリアルなものだという意味であり、重視(特別視)の反対が必ずしも軽視ではないということです(こういうまとめを嘘くさいと感じる自分がいます)。過去の日本語において夢がどうとらえられていたのかという議論について、ネットで飛び交っている説にも、いま述べたたわごとと似たようなお話がみられました。
正しいか正しくないかといったことわりが嫌いな者としては全面的に納得しているわけではないのですが、そのように「うつつに起こっていることの正しさ」を受け入れるしかなさそうです。
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まとめ。夢は見るもの。夕陽を見たり、テレビを見るのと同じ。日本語では「夢を見る」と言う。それが現実なの。「ゆめる」なんてゆめにも思っちゃいけない。Jちゃん(私の本名です)、ぐずるのはやめて、そろそろ寝なさい(亡き母の声が聞こえてくるようです)。いい夢を見てね。Sweet dreams.
解決したわけでもなく、発見があったのでもなく、分かったわけでもありません。ああ、疲れた、眠い。それにしても、もどかしい――。ゆめる……。
夢ではすべてが肯定されます。あれよあれよと事が運ぶのが夢です。正しいも正しくないもないのが夢。とは言え、このもどかしさはひょっとすると夢の中の出来事なのかもしれません。どんなに走っても前に進めないもどかしさにも似ています。ほっぺたをつねってみます――。いや、覚めて欲しくないので、やめておきます。Sweet dreams.
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