うたう <場所について・003>
星野廉
2020/11/23 10:27
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昨日の記事「用言体」を投稿した後に読み返していたところ、エッセイや小説以外にも用言体というものがあるように思えてきたので、それは何だろうと考えていた。夜湯船に浸かりながらも、あれは何だっけと考え続けていて、髪を洗い終えた瞬間に気づいた。短歌や俳句の解説や講評だ。あれも用言体ではないか。お風呂やトイレで何かに気づく。こういうことはよくある。自分で勝手にでっち上げた言葉とそのイメージについて、あああれもそうだと補足するのは妙な話かもしれないが、お付き合い願いたい。
俳句と短歌については素人でよく知らないのだが、新聞や雑誌に投稿欄とかコンクールで選ばれた作品が挙がっているとたいてい目を通す。これは悪い癖のだろうが、まず評を読む。ただ作品だけが並んでいる場合には、解説がないのを確認して作品に目を通さずにページをめくることが多い。そもそも文学作品よりもその広告や書評や批評を読むことが好きで――さらに言うなら、本のタイトルを見るのが好きで、タイトルを眺めてその内容を空想したり自分がそのタイトルで何かを書くとすればどんなものになるかを想像するのが、若い頃からの楽しみになっている。
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俳句や短歌の解説や評に話を戻すが、顰蹙を買うのを覚悟で言うと、俳句や短歌そのものよりも面白い。暴言にとられかねないこんな個人的な感想を吐くのは散文的な頭をしているからだろうが、そもそも自分が詠まないからだと思う。読むことはあっても詠まない。実作をしていれば、自分だって素人のこんなたわごとを目にすれば腹を立てるに決まっている。とは言え、本心なのでさらにお付き合い願いたい。
短歌と俳句と呼ばれる日本の定型詩においては、先行する作品群に敬意を払い、それから学ぶという姿勢が広く見られる。定型詩ならではの規則や技巧が多いからだろう。また実体は知らないのだが歌壇や俳壇と呼ばれるもの、あるいは流派や結社など広い意味でのサークルが多く、ジャンルと言うほかに、シーン(ミュージックシーンという場合のシーン)とか世界とか界隈と言ってもいい空間的な広がりを感じる(素人による粗雑きわまりない記述をお許し願いたい)。空間的な広がりだけでなく、長い伝統があるために時間的な広がりもあるのは言うまでもない。裾野が広く、詠み手の人口はきわめて多いと想像する。
noteにもたくさんの短歌や俳句の詠み手がいらっしゃるが、その人たちの記事を読むとさまざまな姿勢や考えに立って実作されている様がうかがわれて興味深いだけでなく、思わず居住まいを正す自分がいる。何しろ誰もが真剣なのだ。そしてそのジャンルを深く愛している。
言葉それも抽象的な言語という次元ではなく日本語の実相に対する深い日々の思索の跡が感じられる作品や記事も多い。いま述べたことは、noteに投稿されている定型詩のみならず現代詩や比較的自由な態度で作られている(書かれている)非定型の詩歌についても言えるのだが、話が拡散しそうなので、この記事では対象を俳句と短歌に絞らせていただく。
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定型詩を成立させている型や枠に反抗する人がいるのは容易に想像できる。どんな世界や業界や界隈にもルールやしきたりに反抗する人が見られるからだ。ここにも一匹いる。人の世の常と言えるだろう。俳句や短歌と呼ばれる伝統の中でも、これまでにいわゆる反逆児や異端児や一匹狼が出たり、革新運動があったり、自由な形式を提唱してきた人たちとそれに賛同する人たちがいたらしい。学生時代に国語や文学史の授業でもそう習った記憶がある。
本来自由でありそうな散文である小説でも、その歴史は革新の連続だったようだ。思いつくままに挙げると、小説という概念や型への反逆としては、西洋ではローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』、セルバンテスの『ドン・キホーテ』、自然主義、ヌーヴォー・ロマン、日本では自然主義運動やプロレタリア文学運動や心境小説論争なんていうのが文学史に出てくる。
議論や論争が苦手なので書いているとむなしくなる。こういうのはどうでもいい。各時代と時期を生きたおのおの作家が、先行する小説や過去に書かれたり口承という形で受け継がれてきた物語や説話だけでなく、詩歌や文芸以外のジャンルの作品を見たり読んだり聞いたり触れたりしながら、自分の作品を作っていったということで、話としては十分だと言いたい。その過程では反発も否定もあり憧憬や共感もあっただろう。派閥とかきな臭い運動には興味はない。先ほど対象を絞ると書きながら、またもや話が広がりそうな気配になってきたので戻そう。
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そうそう、反逆の話だった。先行する作品への反逆は、無関心や軽視ではないはずだ。例の、愛の反対は憎しみではなく無関心であるという紋切り型と状況は似ている。その意味では分かりやすいし、分かりやすいだけにうさんくさい。いずれにせよ、定型の力をみとめるからこそ、反発が生まれる。自由詩か定型詩かといった二項対立がきな臭い分断ではなくほのぼのとした棲み分けであったほしいと願うのは素人の考えだろうか。
noteでは、さまざまな詩歌を作ったり愛好しているみなさんが仲良く共存しているようでほっとする。古典を含めて先行の作品についての敬意あふれる言及や分析は、読んでいて刺激的だし、言葉についてあるいは書くことについて啓発されることが多い。きな臭いブログサイトもあると聞くが、思いやりのある優しい人が多いここはいい環境だとつくづく思う。
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ところで、俳句は体言中心、短歌は用言中心、という説明の仕方があります。これも、分かるような気がします。俳句と短歌の違いを、自分なりに言うと、
*俳句は言葉を言葉として扱いつつも、言葉が言葉でない所まで行こうとする。言い換えると、俳句においては、言葉は物になる。
*短歌は言葉を扱いつつ、言葉の始原と言葉の行き先に重点を置く。言い換えると、短歌においては、言葉は概念を目指す。
となります。
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かつて以上のようにブログで書いたことがある。少し付け加えておきたい。
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五・七・五(十七文字あるいは十七音)の俳句と、五・七・五・七・七の五句体である短歌は、その短さゆえに、素人にとっては解説や評があるとうれしいし、通常はその作品以上の語数で、言葉(作品)に言葉(解説や評)を重ねていくという言葉の身ぶりが刺激的に感じられる。言葉に言葉をかぶせ重ねていく。あるのは言葉だけ。対象となる作品の言葉に自分の言葉を重ねていく解説や評が、新たな作品と言っていいくらいに美しくつづられている場合が少なくない。定型詩である俳句と短歌への解説と評はそれ自体が散文の作品なのだ。
作者の意図だの思想だの書かれた時代だのといった、言葉以外のもの(抽象度の高い名詞や固有名詞や概念)に置き換えたり還元する言葉の身ぶりもときおり見られるがおおむね、テキスト空間と言ってもいいような、先行する作品群と同時代の同ジャンルの作品群から成る壮大な言葉の空間あるいは場で、言葉たちが言葉たちを招き寄せる様は見ていて感動を覚える。
その空間つまり場所においては、人は言葉にならざるを得ない。言葉になりきってはじめて読めるのであり、また詠むにつながるからである(おそらく、読む人も詠む人もそうした場所に一時的に身を置いている)。これこそ、用言体ではないか。
俳句と短歌の解説や評を書く人のほとんどが実作をする詠み手であることが、散文を作品たらしめているのではないか。散文を対象にした評論によく見られる、他人事のように突き放した感のある、無味乾燥な批評とは一線を画すると言いたい。一概には言えないが、そういう批評はそのジャンルの作品を自分では書かない(あるいは、もう書かなくなった)人によって書かれていたりする。
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テキスト空間と言ってもいいような、先行する作品群と同時代の同ジャンルの作品群から成る壮大な言葉の空間あるいは場で、言葉たちが言葉たちを招き寄せる。その空間つまり場所においては、人は言葉にならざるを得ない。言葉になりきってはじめて読めるのであり、また詠むにつながるからである(おそらく、読む人も詠む人もそうした場所に一時的に身を置いている)。
そもそも用言体という言葉では散文を想定していたのだが、おおざっぱにくくれば定型詩における言葉のありようは用言体の特徴を備えている。
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単純に言えば、次のようになる。詠むが読むを促すのである。
*詠む ⇒ 読む ⇒ 詠む
伝統を考慮に入れると、このように連鎖が見える。
*……… 詠む ⇒ 読む ⇒ 詠む ⇒ 読む ⇒ 詠む ⇒ 読む ⇒ 詠む ………
個人という概念を考慮すると、次のようになる。たとえば、歌会、歌壇、句会、結社、さらに言うなら連歌や連句のイメージだろうか。もっと広く考えて、すべての詠み手からなる、このジャンルの壮大な空間と言えるかもしれない。この種の連鎖を見て尻込みしたり、自分とは違う世界だと感じて近づかない人もいるにちがいない。ここにもいる。要するに人の集まりや人付き合いがきょくたんに苦手なのだ。とは言え、こういう人に限って、いったんはまると手がつけられなくなるほどのめり込む。
*……… Aが詠む ⇒ Bが読む、Cが読む、Dが読む ……… ⇒ Bが詠む、Cが詠む、Dが詠む ………
※ここでのAやBは言葉(作品)と化した人、あるいは人と化した言葉(作品)という意味。
読む・詠むという行為の相互性を考慮に入れると、次のようになる。
*……… Aが詠む ⇒ Bが読む(BによってAが読まれる) ⇒ Bが詠む(BによってAが詠まれる) ………
さらに図式化すると、個人のレベルでも同じことが起きている。いったん詠んだものが詠み手を離れるのは、例のいったん書いたテキストが書き手を離れるというお話と同じだろう。この考え方に従えば、詠み手や書き手は、過去に詠んだ(書いた)自分の作品への批評として次作を詠むあるいは書くのが理想だと言えるだろう。そうありたい。
*……… Aが詠む ⇒ Aが読む(AによってAが読まれる) ⇒ Aが詠む(AによってAが詠まれる) ………
ややこしい。うさんくさくもある。図式化の限界を感じるので、これ以上は立ち入らないでおこう。
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短歌と俳句というジャンルにおいては、たった一人で詠むということはあり得ない。伝統および現在の広がりの中で詠むのだ。型は、ひいては言葉は借り物なのである。受け継がれてきた遺産なのである。詠み手は次の詠み手に渡す。
俳句と短歌というジャンルの個々の作品は、個々では読めない。独立した言葉としてではなく、壮大なテキスト空間あるいは文脈において初めて読めるのである。小さなものに多くのものが詰まっているという言い方もできるだろう。短いの反対は長いではない。短いの中に長いがある。
門外漢である部外者から見て短歌と俳句において興味深い現象は、互いに評し合う行為が当然のルールとして存在してきたことだ。読み評する者は詠み評される者でもある。長老であろうとボスであろうと、詠んでいるようだ。詠んでできたものは言葉から成る具体的な物以外の何ものでもない。巧拙を評する他者の目にさらされる(ふと思ったのだが、偉くなると詠まなくなるのだろうか)。
ただし、名前や賞や流派や主流派対反主流派といった権力のシンボル(表象)をめぐる争いがあるのは事実だ。人の世では致し方ないと諦めている。そうしたものを取ったら人に何が残るというのか。名前は、ひいては名詞は忌々しいだけでなく恐ろしい。
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名詞が名詞であるのをやめ、動詞が動詞であるのをやめる。体言が体言ではなくなり用言が用言ではなくなり、そうした区別が意味をなくし、音としてあるいは文字として人に働きかける。品詞も文法も、後で取って付けたもの。赤ちゃんは文法書を手に言葉を学ぶわけではない。ことわりにとらわれることなく言葉は生きているものであり、論じるのではなく、詠み唱えうたう時に言葉は人の身体と化す。人は、言葉であることをやめた言葉になる。それがうた・歌・唄・詩・謡・謳・詠ではないか。
簡単な例を挙げよう。カラオケを想像してほしい。うたっているあなたは、言葉になっていないだろうか。なりきっていないだろうか。その言葉は音であり声ではないだろうか。その音声は喉や舌や唇や気管や肺やその周辺の骨や皮膚の震えではないだろうか。うたうときのあなたは揺らぎの中にいないだろか。移ろいの中にある・いるのではないだろうか(おそらく、そのうた・詞・曲をつくった人たちも、そのうたを演奏した人たちも、同じ場所にいる・ある)。
うたうさなかのあなたに性別はあるだろか。家族はいるだろうか。身分や立場があるだろうか。どこにいるのだろうか。いつなのだろうか。そもそもあなたは誰なのか、というか何なのか。
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ことわりはどうでもいい。
人はうたう。うたを愛している。
うたうようにできている。
食べ飲むようにできているように。
うたおう。
うたうが先。
論じるはたぶん後で生まれた。
人は必ずしも論じるようにはできていない。
論じるは逸脱である。
論じるよりもうたいたい。
読むだけでなく詠みたい。
これまでに散文しか書いてこなかった者は夢を見る。
散文という形で詠めないものだろうか。
用言体という言葉でイメージしているものが、その答えだという気がする。
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