用言体 <動詞について・003>
星野廉
2020/11/22 07:48
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用言体と勝手に呼んでいるものについてお話しします。あくまでも個人的な呼び名なので分かっていただけるか心もとないのですが、説明させてください。イメージとしては古井由吉の小説やエッセイに見られる文章のつづり方で、主語が省かれていたり、抽象度の高い名詞や人称代名詞や固有名詞の放つ強い光を避けながら書いていく方法なのです。
「主語を省く」というのは分かりやすいですね。ああ、確かにこのセンテンスでは主語が書かれていない、というふうに誰が読んでも確認できます。お断りしますが、「主語が省かれている」とは「主語が隠れている」とか、あるいは「主語は書かれてはいないが誰の動作や状態なのかは読んでいて分かる」という状態を指します。
古文と呼ばれる日本語の文章では主語が省かれている場合があるが、隠れた主語がちゃんと分かるように書かれている。そんなことを中学と高校時代に習ったにもかかわらず、古典が並外れて苦手なのでずっと逃げてきました。いまも古文は読めません。
用言体は古文ではありませんが、主語が省かれている(隠れている)場合には、ある行為や状態が誰のものなのかに注意しながら読む必要があります。ただし、主語が省かれていたり隠れていることが用言体の必須条件かと言えば、そうでもありません。
大切なことは、主語があろうとなかろうと、抽象度の高い名詞や人称代名詞や固有名詞による目くらまし的な光(読む人を分かった気分にさせる虎の威みたいなものです)よりも動詞の身ぶりが目につくように書かれているかどうか、なのです。どう書いてあるか、どう書かれているか、これがもっとも重要な点です。いまお話ししているのは、あくまでも書き方の問題なのです。内容ではありません。
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用言体で書かれた文章においては、読む人は自分が言葉(作中人物ではありません)になったと感じたりあるいはなりきったり、主語ではなく述語や述部になったような気分に陥ったりそうした印象をいだくことがおおいに考えられます。ストーリーは気にならなくなるかもしれません。
ややこしいことを書いて申し訳ありません。この種の話は、心当たりがあるかどうかにかかわってきます。保険の勧誘ではありませんので、納得していただくとか、同意を求めたりはしません。宗教の勧誘でもありませんので、ああ分かんないとか、ついて行けないなあとお感じになれば、残念ですが、この記事をお読みになるのは中断してください。無理強いはするのもされるのも嫌いです。ここまで読んでいただいたことを心から感謝いたします。もし(万が一でしょうか)心当たりがおありとか、ちょっと付き合ってやろうかと思った人がいらっしゃいましたら、私は涙を流して感謝します(いま、初めて「私」を出しました)。
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で、用言体ですが、書かれている言葉になりきるくらい集中して読まないと意味が取れないこともあります。この読みにくさは慣れの問題とも言えそうです。
ここでまたお断りすることになり恐縮ですが、論理的な思考が大の苦手で(苦手なものが多いですね)、論じるのではなくむしろイメージや印象で物を言っていることをご承知置きください。万事そんな調子で物を書いています。論理的に問い詰められればたちまち答えに窮し、言ったこと(たいていはたわごとのたぐいですけど)を撤回しなければならないほど、つまりまるでヘチマのたわしかナイロンタオルようにスカスカの論理性しか持ち合わせていないのです。
で、用言体ですけど、センテンスが長くなる傾向があります。読んでいてもどかしい(タマネギやラッキョウをむくのに似ているかもしれません)とか分かりにくいと批判されたり、冗談はよしてほしいとか書いている本人が分かっていないのではないか、というようなクレームめいた言葉を投げられることもなきにしもあらずの文体なのです。
思い出しましたが、蓮實重彦氏の文芸批評や映画批評や小説も用言体だと言えます。蓮實重彦氏の文章においては、名詞(とくに抽象的かつ観念的な名詞、たとえば哲学用語とか文学論で出てくる用語、たとえば、哲学だよ、現代思想さ、ポスト構造主義だど、かっこいいだろう、これ知らないと女の子にもてないだべさ、という感じです)と固有名詞(たとえば、ジル・ドゥルーズだよ、スローターダイクさ、ニーチェだど、こら頭が高い、すごいっしょ? まあそこそこお勉強したもんね、これを記事に入れるとたくさんスキがもらえるだべさ、という具合です)に満ちていても、それらが放つまばゆい光を周到にさえぎり、動詞や動詞だけでなくあらゆる品詞の言葉たちを動員し、その言葉たちの演じる動きと仕草と表情でもって、抽象的な名詞や固有名詞にまとわりついた固定したイメージを駆逐しようとするかに見えるのです。「見える」と書きましたが、先ほど述べたように、いまお話ししているのはあくまでもイメージや印象なのです。ただしこれを論理の問題だと解する恐るべき思考力を備えた人たちもいます。過去にじっさいに見たことがありますが縁遠い人たちだと感じました。
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用言体は断言を避けます。と言うか、ひとつの断言よりも複数の断言に導くような書き方をする場合も見受けられます。一言で分かるように言ってちょうだい、真理はすごーくシンプルなの、そうじゃないのはデタラメか、混乱しているだけ、分かった? みたいな性格の方は読んでいて途中で投げ出すでしょう。それはそれでいいのです。世の中は、と言うか人の世は、そんなものですから。いま始まったことではありません。分断なんてきな臭いことを言うのはやめて、棲み分けて仲良く暮らしましょう。同じ空気を吸い同じ水を飲み同じ土地に棲んでいるのですから。
用言体は毒です。これは個人的な意見です。そもそも用言体が自分語みたいなものですから、個人的もへったくれもないのですけど。用言体なんてものをでっち上げてひとり相撲をすると馬鹿を見ます。ここに好例がいます。ご覧のとおり、にっちもさっちもいかなくなっているですから、毒にやられたとしか言いようがありません。
ここまで辛抱してお付き合いくださった方は、うすうす感じていらっしゃると思いますが、用言体には依存性があります。したがって、熱狂的なファンが少数ながらいて、用言体で書かれた本を買い続けていたり、読み続けているはずです。ここにもいます。
なかには用言体を模している人もいるにちがいありません。ここにもいます。格が違うのに困ったものです。先ほど挙げた二人の書き手と比べると、思考力、知識、センス、それに加えて人間としての品格が雲泥の差なのにもかかわらず、身の程知らずとはまさにこのことです。
どんなスターにもファンはいます。亜流もいます(ここにも亜流になり損ねた雑魚がいます)。もちろん毛嫌いしたりあるいは無視する人もいます。で、ファンですが、アイドル(偶像)を真似たがるものです。真似るだの模すると言っても、例の文体模写とは一線を画します。そんなのいっしょじゃん、と一笑に付されること間違いありませんが、違うものは違うもん、なんて泣きそうな顔で抗議します。ちなみに、いまのセンテンスはささやかな用言体の試みです。視点がぶれた印象をお持ちになった方、正解です。雑魚が真似るとこうなります。学(まね)びは形から入る、ということでお許しください。
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冗談はさておき、用言体の例を挙げてみます。
*野坂昭如の『アメリカひじき』。これは手に入りやすいですね。『火垂るの墓』といっしょに収められた形で新潮文庫にあります。あの馬鹿が言っていた用言体っていうのは、こういう感じなのね、というふうにとても分かりやすくてとっつきやすい、つまり分かりにくくてとっつきにくいと分かれば、用言体を感じ取っていたただけたことになるでしょう。そうなれば、とてもうれしいです。
*村上龍の短編集『トパーズ』所収の『卵』と『紋白蝶』と『鼻の曲がった女』。用言体は確たる定義なんかなしの自分語みたいなものですから、これは用言体だの、これは用言体ではないなんて熱弁を振るっても、「……」とか「ふーん」とか、せいぜい「あ、そう?」とか「で?」というふうに済ませられる次元の話なのですけど、『トパーズ』に入っている短編のほとんどが用言体だと言えます。「あたし」という人称代名詞と呼ばれる語が出てくる作品が多くても、あの作品たちでは主語と呼んでいい人格なんてまったくいない気がするからです。あれはほぼ動詞と化した名詞や形容詞や代名詞や……――文法用語をど忘れしたので後が続きません、ごめんなさい――とにかくそういう語たちが健気に身ぶりを演じているお祭りとかオージー(orgy)なのです。書かれた言葉があれほど見事に書かれた内容を演じている作品は珍しいのではないかとさえ思います。
*内田百閒の『東京日記』と『冥途』と『旅順入城式』。これも文庫で入手可能だと思います。掌編集です。読みやすいです。読んでみてください。立ち読みでもいいでしょう(本屋さん、ごめんなさい)。読めそうもなかったら、もちろん、即座におやめください。無理強いはするのもされるのも嫌いです。面白そうだとお感じになったら、ぜひお買い求めください。岩波文庫の『東京日記 他六篇』に『南山寿』という短編がありますが、これが個人的にはいちばん用言体っぽく感じられます。読んでいると即夢の世界に入れます。十章に分かれているのが、持久力のない者にはうれしいです。ご賞味ください。
*古井由吉の『仮往生伝試文』。これは文庫本としては高い価格設定で知られる講談社文芸文庫にあります。今年の二月十八日に古井由吉が亡くなり、「追悼 古井由吉」という文字の入った帯が付いている短編集が本屋さんで売られているのを目にしました。増刷されたみたいでファンとしてはとてもうれしいです。現在は同文庫の短編集が比較的手に入りやすいのではないでしょうか。古井由吉の作品ほど用言体を感じさせるものはないのですが、いまはこの作品について述べる体力と気力がないので、過去に書いた記事を紹介しお茶を濁す無礼をお許し願います。『仮往生伝試文』と蓮實重彦氏の『批評 あるいは仮死の祭典』について、noteで2020/10/17 に記事を投稿しその後に削除したのですが、bloggerというブログにテキストデータを再投稿してありますので、ご興味のある方はご一読ください。「かりにこれが仮の姿であり仮のからだであれば、人はここで借り物である言葉をもちいて、かりの世界を思い浮かべ、からの言葉をつむいでいくしかない。」です。
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