言、葉、は、魔、法。<言葉は魔法・008>

星野廉

2020/12/09 13:24


 言葉は魔法。

「言葉は、魔法……。」

『言葉は、魔法――。』

 言、葉、は、魔、法。


 昔々の日本語の文章には、「、」や「。」や「」や『』がなかった。――や……もなかったらしい。そういう「かつてなかった」ものを約物と呼ぶ人がいるようですけど、そもそもこの言葉を知らない人のほうが多いのではないでしょうか。


「かつてはなかった」のであれば、「いまもなくてもいい」気が個人的にはします。でも、いま現に使っていますね。ここまでの文章で使いまくっています。これを使うなと言われると、うーむ、正直言って困ってしまいます。「慣れている」からかもしれません。誰もが慣れ親しんだものを変えることには抵抗を覚えるのでないでしょうか。


        *


言、

葉、

は、

魔、

法、


 縦書きの日本語の文章で、上のような表記を見たことはありませんか。ルビの「、」みたいなもの――正確には「、」はひとつの文字と言っていいくらい大きく、しかも太いのです。これを「ぼうてん・傍点」(圏点)と呼ぶことを最近知りました。フォロワーさんである森沢れいさんに教えていただいたのです。森沢さん、ありがとうございました。


 (﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)という形で、傍点が使われている森沢さん作の『白い竜を背負った少女10 「絵」』を以下に紹介させていただきます。「小説すばる新人賞」(言わずもがなのことですが「すばる文学賞」とは別物ですね)に応募なさった小説だそうです。つまり、縦書きで表示され印刷されることを前提に書いた作品です。私も経験がありますが、縦書き表示を想定して横書きで書くのは難しいし、もともと縦書きだった文章をネット上で横書き表示として発表すると、いらだちともどかしさを覚えます。


 森沢さんがこの作品をnoteで記事として投稿なさる際には、さまざまなもどかしさと悩みと苦しみを味わわれたにちがいありません。noteはブログみたいなものですから、長編小説は分けて投稿しなければならない。noteの画面はスクロールしながら読むのであり、印刷物のようにページがあるわけではない。印刷物で使える約物が、noteではない。ないないづくしなのです。


 みなさんも、自分の書いた文章はかわいいですよね。愛おしいですよね。自分の書いた大切な文章に、ある事情から手を加えなければならない。これはある意味では悲しいことです。


 持論なのですが、書き手の自分の作品への愛は細部に注がれる、と考えています。書き手の自作への愛は細部にあらわれる、とも思います。 (﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)という形の傍点に、森沢さんがこだわっているお気持ちがよくわかります。それは森沢さんの自作への愛のあらわれなのです。


 森沢さんの作品を拝読すると、書きたいものだけでなく、書かなければならないものを強く自覚なさっている方ではないかと想像しないではいられません。力作です。私も初回から読んでいます。お薦めします。



        *


 プロアマを問わず、その小説やエッセイを読む時に、私は内容だけでなく書き方に目が行きます。具体的に言うと、漢字にするかひらがなにするかの選択、送り仮名、語尾の処理、比喩、文体、字面、レイアウトだけでなく、約物にまでついつい目が行くのです。noteでも、みなさんの作品に対する私のコメントは、そういう点からの意見や感想が多いみたいです。自分のことを棚に上げてです。


 ただし、ケチをつけるためではありません。あら探しはするのもされるのも嫌いです。


        *


 話は飛びます。


 みなさんは、テレビを見ていて、本来見なくてもいいものに目が行くことはありませんか。たとえば、野球中継を見ていると、野球のプレーヤーや審判やダッグアウトの様子ではなく、観客席に目が行き、しかもやたら気になってならない、そんな経験はないでしょうか。私にはとても気になります。


 例を挙げましょう。甲子園球場での高校野球の試合を見ていて、観客席に「あ、あの金髪の人がまたいる」と思うと、目が離せなくなります。毎試合を観戦している有名人らしいのです。試合中に「#金髪」という具合にTwitterのトレンドになると聞いてびっくりしました。あの金髪のロン毛でTシャツ姿の男性に目が行く人がいるのです。自分と同じような人がいると知り、勇気づけられました。


「私だけじゃないんだ」


 相撲でもそうです。観客席の人たちばかり見ています。あ、林家ペーさんとパー子さんだ! 大村崑さんだ! 林真理子さんだ! 平沢勝栄さんだ! こんな具合に有名人を見つけるとひとりで歓喜します。根がミーハーなのです。


※「ぺーさん」と入力していて思い出しましたが、ひらがなの「ぺー」なのか、カタカナの「ペー」なのかを印刷された文字のレベルで見分けられる人に昔会ったことがあります。印刷会社に勤めていらっしゃる方でした。できそうでできませんよ。話が脇に逸れました。ごめんなさい。


 有名人だけではありません。あの人、毎日いるよ。こんな時間に相撲を国技館で観戦しているなんて、どういう人なんだろう。あの女性、見覚えがある。和服姿と髪型に特徴があるもんね。カブトガニみたいなヘアスタイル……。あのラフな格好をしたおじいさんは、いつもスーツ姿の強面の男性を従えているけど、どこかのお偉いさんか、それとも「会長」の肩書きのあるご隠居さんかなあ? こんなふうに人を見ています。気がつくと、楽しみにしていた取り組みが終わっていたりします。でも、楽しいのでやめられません。


 バラエティ番組でもそうです。しゃべっていない人や背景にある物に目が行きます。あとゲストやMCの足もとや靴を見ていたりします。話はまず聞いていません。まあ、難聴で字幕ばかり見ているせいもあるのかもしれませんけど、その理由を深く考えたことはないです。


        *


 話を戻します。


 こんなふうに私はよく話が飛んだり脇に逸れる文章を書きます。長年自分と付き合っていると、そういう自分の癖に薄々気づくようになるので、段落を変えたり、*を使ったり、「話をも戻します」と断ったりして、読みやすい記事になるように工夫します。それでもよく読みにくいと言われるし、そう言われなくても、間接的に言われているのを感じます。被害妄想ならいいのですけど、そうでもないみたいです。


        *


 話は飛びます。



 ちなみに、『批評 あるいは仮死の祭典』にある言葉と文章を眺めていて気になって仕方がないのは、漢字やかなではなく、「」、『』、「、(読点)」、「。(句点)」、「、(ルビとして縦書きの文字の右に打たれる読点)※専門的には何と呼ぶのか知らないので、ややこしい言い方になりましたが、これがすごく目立つしとても気になります」、そしてルビです。


仮、

死、

の、

祭、

典、


 古文と呼ばれる日本語の文章にはなかったものばかりです。約物とは読みやすくするためにつくられた一種の約束事であり制度とも言えるでしょう。『批評 あるいは仮死の祭典』では、ときにはタマネギをむき続けるようなもどかしを覚えながら、まだまだかとつぶやいていると「、」が来ます。一息入れて次の「、」あるいは「。」が来るまで読み進みます。「」でくくられた文字で立ちどまり、『』でくくられた文字に思いを馳せ、「、(ルビとして縦書きの文字の右に打たれる読点)」が施された文字を凝視する。読みやすさを促すはずの約物が、その役目とは隔たった異物に見えてきます。



 以上は、短命に終わったnoteのアカウントに投稿した記事の保存データです。この記事は「かりにこれが仮の姿であり仮のからだであれば、人はここで借り物である言葉をもちいて、かりの世界を思い浮かべ、からの言葉をつむいでいくしかない。」というもので、現在bloggerというブログで読めるようになっています。私はブログやnoteに投稿した記事を毎回保存しているので、残っているというわけです。みなさんもそうでしょうが、自分の書いた文章はたとえそれが駄文であっても、かわいいものですね。


 上の引用文にある『批評 あるいは仮死の祭典』とは蓮實重彦氏の本のタイトルです。


批評あるいは仮死の祭典

1927年創業で全国主要都市や海外に店舗を展開する紀伊國屋書店のサイト。ウェブストアでは本や雑誌や電子書籍を1,000万件

www.kinokuniya.co.jp


        *


  話を戻しますが、蓮實氏の本を読む時にも、やはり約物に目が行き気になっているのがお分かりになると思います。これはいったいどういうことなのか(※この科白は蓮實先生の小説からお借りしました)。癖とか言いようがありません。『批評 あるいは仮死の祭典』の文章は約物に満ちています。上で述べた傍点の施されている箇所も少なくありません。


 それが私にとってはあの本の魅力の一つなのです。文章の内容よりも、字面であったり、書き方や修辞(レトリック)や語り口が私をとらえて離さないのです。そんなわけで「あの本にはどんなことが書いてあるの?」なんて尋ねられると、答えに窮します。こういう読み方をいったいなぜしているのか。その理由は追求しないことにしています。こんな自分に満足しているからです。この点に関しては、変えたくも、変わりたくも、変えられたくもありません。


        *


「かつてなかったもの」で「いまあるもの」は、必ずしも「いまある必要がないもの」だとは言えません。ケースバイケースであり、どう感じるかは人それぞれでしょう。


 句点の打ち方やかぎ括弧や丸括弧の使い方は、約束事と言っても個人の裁量に任されている部分が多く、統一したルールはあってないようなものであり、これは送り仮名や漢字の選び方にも言える気がします。いや、そんなことはない、表記のルールはちゃんと決まっていると主張する方もいるにちがいありませんが、人それぞれです。


 上で引用した私の過去記事では、表記について書いてあるので、さらに引用させてください。ちょうどここで書こうと思っていたことなのです。以下に紹介するのは、上の引用文に続く箇所です。


 蛇足ながら書き添えますが、この種のたわむれは、他の作家やテキストと比較してどうのこうのという、いかにも詮索好きな、知的とも言えなくもない話ではなく、目の前にあるテキストをただ眺めるという単純作業に終始します。「正しい」か「正しくない」かの問題ではないのです。楽しむことが大切だとも言えます。


 読むと書くは遠いようで近い作業です。別に「用字用語集」や「編集ルールブック」のたぐいを参照したり、こうした本でお勉強をなくても、新聞・雑誌や本などで日々他人の文章を読むことによって自分の書く行為が変化することがあります。たとえば、「きょう(あす)」と書くか、「今日(明日)」とするか。「太陽が昇る」とするところを、あえて「日が昇る」と書く。「長い月日」か「長い日々」か。「月曜」なのか、それとも「月曜日」なのか。「暫く」か「しばらく」か。以上の例は、個人的な迷いなのですが、他人の文章を読むことによって、「ああ、こう書くのか」くらいの気持ちで揺らぐことがあります。一般論を言えば、こうした揺れは、誰もが意識的にあるいは無意識のうちにおこなっている選択でありその結果なのでしょう。もちろん揺らがない人がいても驚きません。あなたの場合には、どうですか? 表記の揺らぎを経験することがありますか? それとも安定していますか?


 えっ? みんな、こうやってるからこう書いているんです。ぼくは会社で勧められた「用字用語集」を参考にしてるだけ。変換して出たとこ勝負かも。表記の揺らぎなんて意識したことないなあ。まちまち? その日の気分? わたし、学校で習ったのがこの書き方なんですよ、だから安定してます。意外に思われるでしょうが、俺の文章のすべては、向田邦子のエッセイを書き写すことから生まれたと言っても過言ではありません。おーまいがっ、規則? てか、これ以外の書き方なんてあったの? 小説を書くときとエッセイやメールを書くときで、書き分けています。よくぞ聞いてくれたね、あたし意外と神経質なんですよ、意識が高いと申しましょうか。えっ、わかんないよー、スマホに聞いて(笑) 深く考えたことはないっすね、なんとなくこう書いています。好き嫌いはありますね、ある程度安定しているとは思います。あなた、何か文句でもあるんですか? いつもつかっているワープロソフトのお節介な指示に従っていて、こうなったのかも。わたくしのお手本は芥川龍之介の文章ですけど、何か? あんたさあ、何を言いたいわけ?


 人それぞれでしょうね。どう書くのか、どの言葉をつかうか、漢字にするかひらがなにするか、どっちの漢字にするか、といったことを、程度の差はあっても気にしている人がいてもおかしくないと思われます。とくに作家やライターと呼ばれたり、自称作家あるいはライターである人に、表記上のこだわりがあるのは当然ではないかという気がします。



 上で書いたことに補足します。


 たとえば、ブログやnoteでどなたかの文章を読んで、その書き方に影響されるとか、それがきっかけとなって辞書を引いたり、用字用語集のたぐいで確かめて「正しい」とされる表記を学ぶということは多いにあると思います。私も経験しています。


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 現在、ネット上にはプロかアマを問わず、さまざまな書き手の文章がありますね。これは、本や雑誌や新聞といった印刷物しかなかった頃とは明らかに異なる時代の特徴だと思います。本が売れる時代に戻ることは、おそらくないのではないでしょうか。それはさておき、いわゆる「アマチュア」がネット上で文章を発表したり発信する機会とそのデータとしての量はうなぎ登りに増えていくはずです。


 しがらみや過去の約束事・ルールにはとらわれる必要はない。自分が好きなように書けばいい。自信がなければ、見よう見まねでいい。他人にとって読みやすいか読みにくいかという問題だけが残る。「他人」とは一様ではない。いろいろな読み手がいる。読みにくい文章は読まれないだろう。一部だけの人に読まれる文章があってかまわない。もちろん、不特定多数の人に向けて書くスタンスがあってかまわない。


 私は以上のように考えています。


        *


 用字用語集や辞書のたぐいはあくまでも参考でいいのではないでしょうか。「文章の書き方」「読まれる文章」「文章読本」といった本も参考程度にすればいいのではないでしょうか。もちろん、ある本を頼りにしてそれを忠実に守って書きたいという人がいても、それはその人の自由です。人それぞれですから。


 読みたいものを読めばいいのです。読みたくないものは読まなくていいのです。誰に気兼ねをする必要があるのでしょう。いったい誰に忖度する必要があるのでしょう。


 だって本を出したいんだもん。紙の出版をしてなんぼだろーが。やっぱり紙の本で勝負したいなあ。文芸誌で活躍することが長年の夢なのであります。プロになるのなら出版を目指すのは当然でしょ? 芥川賞がほしい! 私を見殺しにしないでください(土下座)。「刺す。そうも思った。」 ← 必読です。直木賞を獲らないと、長年働いてもらっている嫁さんに悪いのです。


 分かります。そういう気持ちは痛いほど分かります。そう思う方々は、過去(ながーいながーい日本の歴史の上でせいぜい数十年前からでしょうか、国語や文学史に詳しくないので分かりません)から続いているルールに従った文章を心がけるのが筋です。


 で、


*自動書記=児童書記=コドモみたいなあたまの構造をした書記=総書記とか、


*自動筆記=児童ヒッキー=コドモ時代のヒッキーちゃん=歌だ命=うただいのち、


という言葉があります。


*自動的に=自働的=オートマに言葉が書けてしまう


なんて、


*恐山のイタコ


=潮来のイタロウの親戚の説有り、とか、


*デルフォイの神託


=出るホイ・ごきぶりほいほいの投資信託みたいに、すごくいかがわしい=胡散(うさん)くさい=わくわくするようないい話=フィクション=ただの言葉=でたらめだ


と理解しております。


 ジャズでいう、


*アドリブ=即興演奏


=あっドリフ=昔はええ演奏聞かせてくれたなあ=1966年に来日したビートルズ(≠ or ≒ズートルビ)の前座を務めたというあのドリフターズ


に、近い響きのある言葉です。


(※「何もないところから/めちゃくちゃこじつけて」より引用)


 間違っても、上のようなとち狂った文章をお書きになってはいけません。こんなのは紙の本での出版は不可能です。いい年して路頭に迷うのが落ちでございます。でも、本人は納得して書いているのです。それで幸せみたいです。




 いいじゃないの、しあわせならば……。


 自虐ネタはそれくらいにして、話を戻します。


        *


 付け加えたいことがあります。と言うか、今回いちばん書きたかったことを書きます。


・視点がぶれないように。

・一人称か三人称かを決めて、それにふさわしい書き方を守る。

・一文をできるだけ短くする。

・起承転結、序破急を利用する。

・ハリウッド式三幕構成とは何か。

・タイトルを付ける時に注意すること。


 こういうことが書いてある本やウェブサイトがあります。「小説の書き方」「新人賞の獲りかた」「純文学を目指す」「エンターテインメント小説はどう書くか」――という感じ。


 もちろん、参考にしていいでしょう。勉強にもなるでしょう。それはそうなんですけど、まず好きな作品を読んで真似てみたらどうでしょう。いやいや、上の本みたいな口調になってきたので、やめます。ああいうのは苦手なのです。


 好きなように書きましょう。好きな文章や好きな書き手を見つけましょう。見つけたら、とことん愛しましょう。とことん付き合ってみましょう。


 ↑ ここから始めてみてはどうですか。


 とは言え、人それぞれです。


        *


 中条省平氏による、押しつけがましくない文章読本です。村上龍のロングインタビューがあるのですが、これが刺激的ですごく勉強になります。村上龍の発言を読んで、『トパーズ』のあの文章はジャズなのではないかと思いました。


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 三島由紀夫の文章読本は、紹介されている文章の選択に三島のたぐいまれなセンスを感じます。あと、三島自身の解説の文章が敬体なのですが、とても参考になります。心地よくて品がいいのです。上の中条氏の読本は比較的新しい文章、三島のほうには古い文章が多いので二冊あるとバランスが取れるかもしれません。


 三島の文章読本での圧巻は三島の解説の文章だと思います。他者の言葉についてこれほど明晰に言葉を綴れる三島に驚嘆します。書きなぐる傾向が強い私は、ときどきこの本の解説の文章を読んで自分を戒めることがあります。


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文章の最高の目標を格調と気品に置いています—。森〓外、川端康成、ゲーテ、バルザックなど古今東西の豊富な実例を挙げ、あらゆる

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        *


 小説はnoteにあるものしか読んでいないのですけど……。


 よろしいと思いますよ。そういう方がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。アマチュアの書き手でその辺のプロより、文章がうまかったり、ストーリーが抜群に面白い小説を書いている人がいます。もちろん、そうじゃない人もいますが、それは自分の好き嫌いで判断してください。あと、スキが多いとか、フォローが多いは必ずしも、小説の完成度とは関係ないというのが私の意見です。ご参考までに。


 小説家になりたいんですけど……。


 申し訳ありません。noteにいる先輩方にお尋ねください。面倒を見るが好きな優しい方も多いみたいです。「小説家になりたい」「小説家になるためにはどうする」とネットで検索するとヒントが見つかる可能性は大だとも思います。ここはネットです。ネットをフルに利用しましょう。


 やっぱりその手の手引きとかマニュアルは読んだほうがいいですか?


 図書館で探すといいと思います。数が多いし、いろいろ見ているうちに、自分の目指している方向が見えるかもしれませんよ。まず動きましょう。考えるのは後で。


 編集者の人にあることを言われたのですが……。


 あー、編集者さんですか。私は編集関連の人とは久しく会っていません。もうお呼びじゃないみたいで。noteでも編集者、出版関係、コピーライターなんて肩書きがあると、殺し文句じゃないけど、持てるみたいですね。noteでもステータスですもんね。スキもたくさんもらえるし、フォロワーさんもつくみたいです。うらやましい限りです。編集者の人にどう言われたのか分かりませんが、私より適切な方にご相談なさってください。素っ気ない答えでごめんなさいね。何しろこればっかりは縁がないので……。


        *


 現在、かつてないほどの大きな規模で「純文学」ブームが起きているのをご存知でしょうか? 


 正確に言えば、「純文学」復興運動というべきかもしれません。毎日、数えきれないほどの「純文学」の書き手たちが、数えきれないほどの作品を書いているのです。


 いえ、海外の話ではありません。この国で起きている現象であり、現実なのです。嘘ではありません。



 上の文章は、『空前の「純文学」ブーム』という過去の記事からの引用です。空前の「純文学」ブームが、ネット上で起こっているという珍説なのですが、今回の記事とも関係がある内容なので、ご興味のある方はお読みください。ネット上で小説を書いている人への私からのメッセージとエールなのです。⇒ 『空前の「純文学」ブーム』


        *


・ブログで旧仮名遣いで横書きで書いている書き手がいてもいいじゃないですか。

・英語と日本語をまじえた文体のnote記事があったら素敵だろうな。もうあるかも。

・センテンスがやたら長くて、「、」も「。」も使わない散文で、子育てについて語る記事があってもいい。

・ひらがなだけ日記、カタカナだけ日記、ローマ字日記、方言日記、オネエ言葉日記、桃尻ことば日記、ご飯論法日記、猫語日記、河童語日記があってもいい。きっと、あるでしょう。

・敬体と常体が混在した文章が「正しくない」なんて変ではないか。あ、これは自己正当化だ。

・関西弁丸出しでテンポのいい文章があるけど、あれはチャーミングだなあ。つーか、東北弁も健闘してほしいなあ。

・やまとことばだけでつづった自分語みたいな文章もいいのでは? あらら、これも手前味噌。

・ネット上の文章ばかりを読み、見よう見まねで自分の書き方や文体を作っていくなんて、日本語の文章の創生期みたいでわくわくして楽しいじゃないですか。てか、いまは、そんな時代なのです。


        *


 以下は、駄目押しです。


 言葉は魔法。

「言葉は、魔法……。」

『言葉は、魔法――。』

 言、葉、は、魔、法。


 昔々の日本語の文章には、「、」や「。」や「」や『』がなかった。――や……もなかったらしい。そういう「かつてなかった」ものを約物と呼ぶ人がいるようですけど、そもそもこの言葉を知らない人のほうが多いのではないでしょうか。


「かつてはなかった」のであれば、「いまもなくてもいい」気が個人的にはします。でも、いま現に使っていますね。ここまでの文章で使いまくっています。これを使うなと言われると、うーむ、正直言って困ってしまいます。「慣れている」からかもしれません。誰もが慣れ親しんだものを変えることには抵抗を覚えるのでないでしょうか。


        *


 もともとなかったのです。


 文章の書き方のルールや小説の書き方も同じです。


 話し言葉レベルの言葉遣いや、書き言葉レベルでの表記の揺らぎは、いつの時代にもあったのです。いつの時代にも統一なんてできなかったのです。だからこそ、ルールブックが書かれてきたのです。ルールブックがあるのは、「正しいものがあった」の証拠にはなりません。むしろ逆です。「正しいものなんかなかった」の証拠なのです。


 その言い方は「本来の(もとの)言い方とは違う」から「間違っている」つまり「正しくない」とか「乱れている」、みたいな言い方がまかり通っていますが、「本来の(もとの)」っていつのことなんでしょう。昭和? 戦前? 大正? 明治? 江戸時代? …… まさか平安時代の言い方が「本来」とか「もと」とか「正しい」とか「乱れていない」じゃないでしょうね。「正しい」と「乱れていない」を探して、どこまでさかのぼれば気が済むのですか? 百歩、いや、一歩だけ譲りますが、いわゆる「誤用」と「勘違い」と「転用」があって日本語はここまで来たのです。どの言語も同じです。私はそれを変化としか呼びませんけど。


「正しかった」「乱れていなかった」時代があるのなら、教えてください。切に知りたいです。そもそも、あなたはすべての言葉をそこに戻して話したり書いたりする自信があるんですか? テキトーなことを言わないでくださいな。冗談は顔だけにしてくださいな。私みたいに。


「本来」とか「もと」とか「正しい」とか「乱れていない」とか言いながら、本当は自分の慣れ親しんだもの以外を認めたくないだけじゃないんですか? ご飯論法で誤魔化すのはやめて、あなたの誠意を見せてくださいな。誠意でものを語ってください。


 自分の「好き」を大切にしたいのなら、他の人の「好き」には干渉しないでください。マウンティングをしたいのなら、あなたの大切な人を相手にしてください。できますか? 私たち一人ひとりが、あなたの大切な人と同じく人間なのです。


――みなさん、「本来」とか「もと」とか「正しい」とか「乱れている」というのは、すごくテキトーなんです。ただし、言葉に関する限りですよ。お間違えのないようにお願いします。他のことは知りません。


        *


 誰かの作った幻想に付きあうのはやめませんか。


 いまはある意味でチャンスです。うるさく言う人たちは虫の息。いや、この言い方は悪いですね。新しい時代が始まったのです。と言うより、もうそういう時代なのです。


 幸いなことにネット上ではうるさく言う人はいません。いても、無視すればいいだけのこと。いいことを言っていると思えば耳を傾けましょう。


 自由に書きましょう。

 好きなように書きましょう。

 そして、謙虚さを忘れず、他人のリアクションで軌道修正をしましょう。


 どうせやるなら、自由な空間であるネットでしかできないようなことをしてみませんか。私もnoteの記事という形で、ネットでしかできないような作品を模索しています。 


 言葉はみんなのもの。

 言葉を楽しもう。

 好きがいちばん大切なこと。


 言葉は魔法。

 好きは魔法の言葉。




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