言葉は異物 【言葉は魔法・012】
星野廉
2020/12/17 08:11
言葉は魔法。
言葉は魔法で素。
あはは、チャーミングな表記ですね。
言葉 は 魔法 で ス。
こういうふうに書かれると、ちょっと心配になります。
言葉はMAほーデす。
マジで心配になってきました。
言葉WA マホウデス。
かなり心配です。
コトバはマホウです。
日本語を勉強し始めたばかりの人でしょうか。
こトばハまホうデす。
おお、オシャレですね。広告みたい。センスを感じます。
ことバはまホうです。
巧んでいるでしょ? 作為を感じます。
ことばwa魔ほuでsu.
アートですか。タイポグラフィックアートとか?
狐屠婆は魔捕兎です。
悪意を感じます。
古都 баワまхоでсу。
おやおや、キリル文字(ロシア文字)の表記まで……。これはいったいどういうことなのか(『伯爵夫人』じゃあるまいし)。
虎斗芭は磨帆宇です。
キラキラネームとかプロレスラーの改名みたい。でも、上のものに比べれば、ちょっと安心。ほっとしました。
*
言葉は異化。
異化同文。
冗談はさておき、異化という言葉をお聞きになったことはありませんか。日常生活を送りながら、それほど見聞きする言葉ではないと思います。別に難しいことではありません。上に挙げた「ことばはまほう」とも読める妙な文字列ですが、「こんな書き方をするなんて、いったいどういうことなのか?」という印象をお持ちになったのではないでしょうか。簡単に言うと、そう口にしたくなるようなものです。
大切なのは「ことばはまほう」とも読めるという点です。見慣れたものや慣れ親しんだものの名残があることが異化の条件なのです(何が何だか分からないものは異化の対象ではありません)。見慣れたものや慣れ親しんだものっぽいものが、何だか変に見えたり、おかしなものに感じられたり、神経に触ったり、不安や不穏な感情を呼び起こしたりする。それが異化です。
すごく簡単な例を挙げると、パロディとか駄洒落とかオヤジギャグとか形態模写とか物真似とか文体模写なんかは、餌食にされるものの名残がある、つまり、元ネタが透けて見える点で異化の好例だという気がします。
言葉は異物。
言葉は遺物。
言葉は慰撫通。
言葉は威仏。
言葉は異化。
言葉は異化される。
言葉は生かされる。
言葉か行かされる。
言葉は逝かされる。
言葉は魔法。
もっと勉強なさりたい方はウィキペディアで「異化」の項をお調べになってください。また、異化という言葉がいろいろな分野で用いられていることを見わたすためには、コトバンクにある「異化」の解説が簡潔で読みやすいと思います。
*
前衛的とか斬新なとか画期的という言葉で形容される作品がありますが、その条件は何でしょう。ひとつは異化だと思います。異化がうまくいくと、「これはすごい」「これは新しい」と言われる傾向が見られます。
異化が達成されたものとは、ほどよく古いものが透けて見えるすごく新しいものという言い方もできるでしょうね。やりすぎると駄目という意味です。世間に受け入れられません。「ん?」「……」「何だこれ!?」「わけが分からん」「めちゃくちゃ」と罵倒されたり悪態をつかれたり否定されたり単に無視されたりするわけですね。ただし、やりすぎが後になって認められたり日の目を見るという例は多々ある気がします。
↑異化と言えば「戦艦ポチョムキン」、「戦艦ポチョムキン」と言えば「ポチョムキンの階段 あるいはオデッサの階段」という決まり文句、つまり思考停止をもたらす安全牌、つまり「なるほどね、分かりました」「なんだあ、こんなものか」があります。
いまこの映像を見ても、どこか異化なのか思う人が圧倒的に多いのは、いまだからなのです。いまとなっては珍しくもなく斬新でもショッキングでも前衛的でもない。逆に言うと、こういうかつて画期的なものが積み重なって「いま」の退屈さや凡庸さや普通があるのではないでしょうか。映画でも文学でも音楽でも演劇でも写真でもアート全般でも、事情は同じでしょうね。
人はたちまち慣れてしまう。すぐに飽きる。麻痺する。驚かなくなる。有り難みを忘れる。不実で恩知らず。浮気者。もっともっとと求めるようになる。もっと刺激がほしくなる。節操がない。
↑ジャン=リュック・ゴダールが監督した映画「勝手にしやがれ 」も、登場した当時には前衛的であり衝撃的だったみたいです。いまとなっては、その衝撃を味わうことはきわめて難しいと思われます。
言い換えると、「勝手にしやがれ」を見て「言葉を失うほど感動した」とか、「戦艦ポチョムキン」に「度肝を抜かれた」とか、ビートルズの初期の作品を聞いて「天地がひっくり返るような衝撃を覚えた」とか、ジョン・ケージの作品を耳にして「三日間何も食べられなかった」とか、「ピカソこそ本物よ」「あれは天才だわ」という決まり文句とか、「ジル・ドゥルーズを読んで世界の見方がすっかり変わった」という寝言を見聞きなさった場合には、眉に唾をつけたほうがよろしいかと存じます。
「それ以前」、および「当時の背景」を勉強しない限り、それが突然出現した際の「新しさ」と「衝撃」は理解できないという意味です。そうやって勉強した後に「新しさ」を「衝撃をもって」感じ取ることができるでしょうか。
言葉は言葉を奪う。
絶句。唖然。呆然。
言葉は魔法。
↑上は同じくゴダールの「気狂いピエロ」。
前衛的なもの、画期的なもの、斬新なものは、それがそう言われた時期から時間が経過するにつれて、その新しさと衝撃を感じたいと思うのなら、お勉強をしたり解説を読んだり聞いたりして、「うむうむ、そうなのか」「なるほどすごいんだね」と頭で納得する必要があるようです。
時が経つほど、お勉強は大変になるかもしれません。ですので、お勉強をなさってから、すごい、すごい、画期的、画期的、斬新、斬新、アバンギャルドなのね、ハードボイルドだどと、自分に言い聞かせましょう。もっとも、お勉強をしないで、「すごいんだよ、この作品は」とか「この人は天才です」とつぶやくだけで、まわりから一目置かれるかもしれません。尊敬されることもあるでしょう。演技力も問題でしょうね。
言葉は言葉を奪う。
絶句。唖然。呆然。
「すごい」と「天才」は魔法の言葉。
誰もがほっとする魔法の決まり文句。
「やっぱりすごいね」「やっぱり天才だね」
「すごい」「天才」を上手にタイミングよく口にする。
演技は力なり。
やってる感がすべて。
芸術はやってる感。
アートは演技が半分。たぶん。
言葉は魔法。
*
私は過去の作品を解説付きで、あるいはかなりの勉強をしてから鑑賞する方法を否定しません。それどころか積極的に肯定したいと思います。それしか方法が見当たらないからです。タイムマシンは残念ながらまだ発明されていません。この記憶のままに過去で生まれ変わる方法も、残念ながら知りません。
*
知ったかかぶりはみっともないから、知らないのに、あるいは勉強もしていないのに「感動した」振りを装うのはやめませんか、としか言えません。演技力を磨くよりも謙虚に勉強したいですよね。
*
新しいものが、世間の顰蹙を買ったり、非難を浴びたこともあった。
かつての新しいものが、いまでは普通であったりする。
かつての新しいものが、いまはもう古かったり滑稽であったりすることもある。
誰もが自分の慣れ親しんだものがかわいい、大切である。異なるものは、否定する、嫌悪する、憎悪する、ときには排斥する。
でも、熱狂的に支持する人たちがいた。最初は少数だったかもしれない。女性が多かったかもしれない。若者が多かったかもしれない。貧しい人が多かったかもしれない。一概には言えないだろう……。
いずれにせよ、支持する人たちがいたから、世界は変わった。
*
とは言うものの、商業主義が「新しいもの」に目を付け、餌食にする。金づるにする。飼い慣らす。手なずける。「新しいもの・斬新なもの・画期的なもの」つまり「異物」をお金に換える。
資本主義、おそるべし。
*
或日あるひの暮方の事である。一人の下人が、羅生門らしやうもんの下で雨やみを待つてゐた。
廣い門の下には、この男の外ほかに誰もゐない。唯、所々丹塗にぬりの剥げた、大きな圓柱まるばしらに、蟋蟀きり/″\すが一匹とまつてゐる。羅生門らしやうもんが、朱雀大路すじやくおおぢにある以上いじやうは、この男の外にも、雨あめやみをする市女笠いちめがさや揉烏帽子が、もう二三人にんはありさうなものである。それが、この男をとこの外ほかには誰たれもゐない。
何故なぜかと云ふと、この二三年、京都には、地震ぢしんとか辻風とか火事とか饑饉とか云ふ災わざはひがつゞいて起つた。そこで洛中らくちうのさびれ方かたは一通りでない。舊記によると、佛像や佛具を打砕うちくだいて、その丹にがついたり、金銀の箔はくがついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪たきぎの料しろに賣つてゐたと云ふ事である。(後略)
(芥川龍之介『羅生門』(旧字旧仮名、作品ID:128)青空文庫より)
ある日の暮方の事である。一人の下人げにんが、羅生門らしょうもんの下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗にぬりの剥はげた、大きな円柱まるばしらに、蟋蟀きりぎりすが一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路すざくおおじにある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠いちめがさや揉烏帽子もみえぼしが、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風つじかぜとか火事とか饑饉とか云う災わざわいがつづいて起った。そこで洛中らくちゅうのさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹にがついたり、金銀の箔はくがついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪たきぎの料しろに売っていたと云う事である。(後略)
(芥川龍之介『羅生門』(新字新仮名、作品ID:127) 青空文庫より)
上は旧字旧仮名と新字新仮名の例ですが、違って見えますよね。新字と新仮名遣いしか知らない私には、旧字と旧仮名遣いで書かれた文章は異物に見えます。異形(いぎょう)の姿をまとって立ち現れるのです。慣れ親しんだものではないからです。
言葉は異物。
言葉は異形。
言葉は魔法。
*
その頃或日金井君は、教場で学生の一人が Jerusalem の哲学入門という小さい本を持っているのを見た。講義の済んだとき、それを手に取って見て、どんな本だと問うた。学生は、「南江堂に来ていたから、参考書になるかと思って買って来ました、まだ読んで見ませんが、先生が御覧になるならお持下さい」と云った。金井君はそれを借りて帰って、その晩丁度暇があったので読んで見た。読んで行くうちに、審美論の処になって、金井君は大いに驚いた。そこにこういう事が書いてある。あらゆる芸術は Liebeswerbung である。口説くどくのである。性欲を公衆に向って発揮するのであると論じている。そうして見ると、月経の血が戸惑とまどいをして鼻から出ることもあるように、性欲が絵画になったり、彫刻になったり、音楽になったり、小説脚本になったりするということになる。金井君は驚くと同時に、こう思った。こいつはなかなか奇警だ。しかし奇警ついでに、何故この説をも少し押し広めて、人生のあらゆる出来事は皆性欲の発揮であると立てないのだろうと思った。こんな論をする事なら、同じ論法で何もかも性欲の発揮にしてしまうことが出来よう。宗教などは性欲として説明することが最も容易である。基督キリストを壻むこだというのは普通である。聖者と崇あがめられた尼なんぞには、実際性欲を perverse の方角に発揮したに過ぎないのがいくらもある。献身だなんぞという行おこないをした人の中には、Sadist もいれば Masochist もいる。性欲の目金めがねを掛けて見れば、人間のあらゆる出来事の発動機は、一として性欲ならざるはなしである。Cherchez la femme はあらゆる人事世相に応用することが出来る。金井君は、若もしこんな立場から見たら、自分は到底人間の仲間はずれたることを免れないかも知れないと思った。
そこで金井君の何か書いて見ようという、兼ての希望が、妙な方角に向いて動き出した。金井君はこんな事を思った。一体性欲というものが人の生涯にどんな順序で発現して来て、人の生涯にどれだけ関係しているかということを徴ちょうすべき文献は甚はなはだ少いようだ。芸術に猥褻わいせつな絵などがあるように、pornographie はどこの国にもある。婬書いんしょはある。しかしそれは真面目なものでない。総ての詩の領分に恋愛を書いたものはある。しかし恋愛は、よしや性欲と密接な関繋かんけいを有しているとしても、性欲と同一ではない。裁判の記録や、医者の書いたものに、多少の材料はある。しかしそれは多く性欲の変態ばかりである。Rousseau の懺悔記ざんげきは随分思い切って無遠慮に何でも書いたものだ。子供の時教えられた事を忘れると、牧師のお嬢さんが掴つかまえてお尻を打つ。それが何とも云えない好い心持がするので、知ったことをわざと知らない振をして、間違った事を言ったり何かして、お嬢さんに打って貰った。ところが、いつかお嬢さんが情を知って打たなくなったなどということが書いてある。これは性欲の最初の発動であって、決して初恋ではない。その外、青年時代の記事には性欲の事もちょいちょい見えている。しかし性欲を主にして書いたものではないから飽き足らない。Casanova は生涯を性欲の犠牲に供したと云っても好い男だ。あの男の書いた回想記は一の大著述であって、あの大部な書物の内容は、徹頭徹尾性欲で、恋愛などにまぎらわしい処はない。しかし拿破崙ナポレオンの名聞心みょうもんしんが甚だしく常人に超越している為めに、その自伝が名聞心を研究する材料になりにくいと同じ事で、性欲界の豪傑 Casanova の書いたものも、性欲を研究する材料にはなりにくい。譬たとえば Rhodos の kolossos や奈良の大仏が人体の形の研究には適せないようなものである。おれは何か書いて見ようと思っているのだが、前人の足跡を踏むような事はしたくない。丁度好いから、一つおれの性欲の歴史を書いて見ようかしらん。実はおれもまだ自分の性欲が、どう萌芽ほうがしてどう発展したか、つくづく考えて見たことがない。一つ考えて書いて見ようかしらん。白い上に黒く、はっきり書いて見たら、自分が自分でわかるだろう。そうしたら或は自分の性欲的生活が normal だか anomalous だか分かるかも知れない。勿論書いて見ない内は、どんなものになるやら分らない。随したがって人に見せられるようなものになるやら、世に公にせられるようなものになるやら分らない。とにかく暇なときにぽつぽつ書いて見ようと、こんな風な事を思った。
( 森鴎外著『 ヰタ・セクスアリス』青空文庫より)
上の文章の中にあるラテン文字での表記は、これが書かれた時代とこれが縦書きであったことを考慮に入れると、十分に異物性を備えています。
*
春って曙よ!
だんだん白くなってく山の上の空が少し明るくなって、紫っぽい雲が細くたなびいてんの!
(橋本治著『桃尻語訳 枕草子』より)
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎは少し明りて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。
春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
春は曙。やうやう白くなりゆく山際、すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
桃尻語訳 枕草子 上 :橋本 治|河出書房新社
桃尻語訳 枕草子 上 「春って曙よ!」古典の代表的作品を現代女子高生の言葉に翻訳してしまった鬼才の革命的仕事。難しい古典が
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こうした表記の揺れを目にすると、私は考えこんでしまいます。
しばし言葉が出ません。見ていると落ち着かない気分になります。
私は古文が苦手です。古文は私にとって異物なのです。でも、古文は私を惹きつけてやみません。
いま私たちが目にする古文の表記の揺らぎ、つまりいくつもテキストが存在するということは、かつて古文には統一された読み方がなかったことから来るのではないかと想像しています。自由、ある意味アナーキーな状態、複数の意味が生成される豊穣な場。根拠のない空想なのかもしれませんが、そうした浮遊性が私をとらえて離しません。
言葉は言葉を奪う。
絶句。唖然。呆然。
言葉は魔法。
新しさって何? 斬新さって何? 古いものが個人レベルで新しかったり斬新であったりする。慣れ親しんだものが揺さぶられる。見慣れたものが奪われるような不安感。自分を否定されるような恐れ。ときとして暴力的に迫ってくる新しいもの、知らないもの、古いもの。
*
言葉は異化。
言葉は異物。
言葉は前衛。
大切なのは演技力。
言葉は言葉を奪う。
絶句。唖然。呆然。
言葉は魔法。
言い忘れたことがあります。大切なことなのです。
私の記事では、言葉を広く取っています。いわゆる書き言葉と話し言葉だけでなく、文字言語と音声言語に加えて、視覚言語、手話、指文字、手文字、ホームサイン、点字、指点字、身ぶり言語(ボディーランゲージ)、さらには非言語コミュニケーションと呼ばれているものも、広い意味での言葉であり言語に含めていい。いや含めない限り、ヒトの言語活動および表象を用いた行動の実相と実態には迫れないと感じているからです。
そんなわけで、さきほど、映画や音楽や絵画に触れたという次第です。どうかご了承願います。
*
とは言え、言葉は魔法というこのシリーズでは、おもに言葉を扱っているので、言葉を使った異化に話を戻します。
以下の引用文を見てください。読む必要はありません。トイレの壁紙の模様とか、天井の染みだと思って(実際、そんな感じのものです)、ざっと字面を眺めてください。
話をもどしますが、トンデモ本と呼ばれている本たちの紹介文に目を通していたところ、
*トンデモ本とは、人が「ふつう」考えたり、観察したり、知覚する、いわゆるメジャーな部分ではなく、ちょっと、あるいは、とほうもなく、ずれた視点から、いわゆるマイナーな部分に光を当てている本たちである。
らしい、という感想を持ちました。
だから、比較的ネガティブな目で見られているようですし、「正しい」「正しくない」という、ヒト特有の傲慢な2項対立から見れば、どちらかと言えば「正しくない」とみなされていたり、いわゆる世間=世の中=社会という「曖昧模糊とした」=「テキトーな定義しかできない」とした集団からは蔑視されたり、危険視されたり、無視されたり、規制されたりする存在であるみたいです。簡単に言うと、
*変
だと思われている本たちらしいのです。
個人的には「変」が好きなので、トンデモ本に興味を引かれているのだと思っております。また、自分自身、「変」だと言われたことが数知れずあります。また「偏」屈だとも、よく言われます。変な話ですけど、「変」と「偏」って、変に=妙に似ていません?
トンデモ本というのは、隙間=ニッチ(※隙間市場=ニッチ・マーケットの、隙間=ニッチ=にっちもさっちもどーにもぶるどっぐのにっち)をついているとも言えそうだし、「存在の大いなる連鎖」=「森羅万象がつながる」=「何でもかんでもがむすびついている」とも通じる部分があるし、「たとえ」=「広義の比喩」=「こじつけ」という仕掛け=メカニズムを強引に追及=深化している本も見受けられるし、とにかく、紹介文を見ているだけで、わくわくぞくぞくしてくるのです。つまり、
*いったい、何が書いてあるんだろう?
*いったい、何に取り付かれているのだろう?
*いったい、何がそんなに快=「気持ちがいい」のだろう?
*いったい、何にそんな引きつける魅力があるのだろう?
*いったい、どこへ連れて行ってくれるのだろう?
と、いう感じです。あやしいですね。あやういですね。
*
さきほど触れた「間(=ま・あいだ・あわい)」と「際(=さい・きわ)」という話ですが、これを「と」と言い換えることができるなあ、と思い、そういえば、ジル・ドゥルーズという人についての解説書に、「と」の話が書いてあったなあ、と思い出したのです。
このブログは、あくまでも素人が誰に頼まれたわけでもなく、好きなようにやっている楽問=ゲイ・サイエンスの場であり、学問や学術や研究とは関係ありません。ですので、
*ジル・ドゥルーズにおける「と」
などと、肩に力を入れた文章を書くつもりはないです。
これはもともとブログ記事(2009年)だったものなのですが、こういう書き方は、ブログというものが日本に登場し普及する以前にはあまりなかったものだと思われます。何しろ、ネットで文章を発信するなんて発想もなかったのですから。
インターネットの登場以前に、もしこういう書き方や表記があるとすれば、個人のノートやメモ帳やちらし広告の裏だったと思われます。広く流布する印刷物では見られなかった、すかすかな横書きのレイアウトであり、=の頻用やかぎ括弧の使い方など、「編集ルールブック」や「用字用語集」には見られない、あやしげな表記だという気がします。自費出版でも、なかったのではないでしょうか。
もしもあったら、ごめんなさい。先に謝っておきます。ひょっとすると、トンデモ本にはあったかもしれませんが、残念ながら確かめたことはありません。
*
個人的な思いを言うと、ブログだから、そういう書き方になった。印刷物の散文であれば、そういう書き方をする必要性も必然もなかったはず。見よう見まねで、上のような書き方をするようになった。ネット上における新しい表記の創生期。
まわりはまだ大人しい書き方をする人が圧倒的に多かった。印刷物の書き方をお手本にしていた。新しい環境での書き方を模索中だったのかもしれない。
読みにくい、レイアウトが変、内容も変、ちょっとおかしいんじゃないか、もっと普通に書けないのか、とよく言われた。〇=X=△=@=&という書き方に噛みつく人もいた。ごく一部の人ではあるが……。数学や論理学を持ち出す人がいたのには参った。細かいことは忘れた。嫌なことは忘れる主義。
何だか、「と」と「ス」と「ト」と「├」と、それに「イ」までに、はまってしまい、ますますあやうくなってきましたので、このあたりで「と」めておきます。ご高齢の方から、やめてケレ~! なんて、叫ばれちゃったことですし……。
*
「と」は「イ」え、
今、考えて「イ」るのですが、上で、
「と」をひっくり返して「ス」にしたこ「ト」から始まり、その挙句には「イ」が「ト」の鏡像に見えるなどと書いて「イ」るうちに、ヤバそうだ、「スト」ップしなければ、自主的に「スト」ラ「イ」キしなければ、「ト」歯止めをかけよう「ト」したあたりから、逆に「ト」チクル「イ」がさらに悪化し、エ「ス」カレ「イ」「ト」し出したらし「イ」気配を感じるのです。
で、今、あたまのなかをかけめぐっているのは、
*ノ「イ」「ズ」
「ト」「イ」う言葉なのです。
(「と、いうわけです、と「お知らせ」」より)
*
では、ここで目の保養をしましょう。いいものを見て、すぐれた言葉を聞いて、気分を新たにしましょう。
私は尊敬する人はあまりいないのですが、古井由吉は尊敬しています。その作品もかなり多く持っています。古井由吉の小説やエッセイの文章は、異化に満ちていると思います。それについては、別の記事で触れていくつもりなので、ここでは遠慮しておきます。
動画の対談では、多和田葉子さんも出ていらっしゃいます。現代日本文学においての「異化」を語る際には、大江健三郎と筒井康隆に加えて、多和田葉子さんの諸作品を触れないわけにはいかないのではないでしょうか。言うまでもなく、多和田葉子さんの作品は読みやすくはありません。
多和田葉子さんの作品では、『言葉と歩く日記』(岩波新書)がいちばん好きです。このエッセイ集からはたくさんのことを学びました。お薦めします。
言葉と歩く日記 - 岩波書店
〈言葉と歩く〉旅の日々に,ふと見える世界とは? 現代を代表する作家が贈る,稀有な「自分観察日記」.
www.iwanami.co.jp
*
言葉は異化。
言葉は異物。
言葉は異形。
芸術は見慣れた世界に異形を見ることから始まる。
言葉は言葉を奪う。
絶句。唖然。呆然。
言葉は異化される。
言葉は生かされる。
言葉か行かされる。
言葉は逝かされる。
商業主義が「新しいもの」に目を付け、餌食にする。金づるにする。飼い慣らす。手なずける。「新しいもの・斬新なもの・画期的なもの」つまり「異物」をお金に換える。
異化は利用される。
人を惹きつけるから。
人を魅惑するから。
人は異形を求める。
異物は金づる。
資本主義は異物を食べる。
資本主義は異物さえ食らう怪物。
資本主義、おそるべし。
言葉は魔法。
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