言葉は硝子 【言葉は魔法・013】
星野廉
2020/12/19 08:11
言葉はガラス。
言葉は硝子。
まったく違ったものに見える。これだけでもう「言葉は魔法」ではないか。ガラスのすべすべとした無機的な字面。硝子の異物性。言葉が物に見えてくる。
漱石の『硝子戸の中(がらすどのうち)』が好きだ。硝子戸から外の世界を眺める漱石の眼。おそらく寝そべっている姿。
白いレースのカーテンのあるガラス窓から外を覗き見る人。反射のせいで、外からは中が見えない。一方的に見るという一種の暴力。見る側にとっては、密かな喜び。窃視。要するに覗きだ。ただし、家の中から外を覗く。外から家の中を覗くのは犯罪。
言葉は硝子戸。
言葉は硝子窓。
言葉は白いレースのカーテン。
*
ショーウィンドーは飾り窓ともいう。大きなガラスが嵌め込まれているのだが、その大きさを考えると大したものだと思う。店にとっては相当な投資だろう。ガラスを通して陳列された商品が見えるだけでなく、ガラスに映る自分の姿を見たり、つまり鏡代わりにしたり、まわりの人を観察するのにも使える。誰かに後をつけられている。そんなふうに感じた時にも、使えそう。そんなシーンをテレビドラマで何度も見た記憶がある。
言葉は飾り窓。言えている。
言葉はショーウィンドー。同じものを指すはずなのに、カタカナだとイメージががらりと違う。ショーウインドウという表記も捨てがたい。
*
以下の映画の冒頭でも、ショーウィンドーが出てくる。片足をあげて靴をガラスに映すトラボルタの身ぶり。さらにはダンスに出かける前に鏡に向かうトラボルタ。
ディスコの壁には大きな鏡が張られている。ダンスのスタジオもそうだ。ジムもそうだ。体を動かすという行為と鏡の親和性――。ナルシシズム。鏡の国。鏡の中にいる自分、それは自分なのか。
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話を戻そう。
映画「ティファニーで朝食を」では、以下のシーンでも、窓が出てくる。手で押し上げて開ける窓。昔はこういうのがあったみたい。トルーマン・カポーティの原作を読むと、ホリーという女性の生い立ちや、そもそもなぜ「旅行中(Traveling)」なのかが分かる。気だるい歌声に、ホリーの暗い背景を重ねないではいられない。ヘビーで悲しい物語が裏にある。原作を読まないと分からないかもしれない。
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裏と言えば、アルフレッド・ヒッチコックが監督した映画「裏窓」を思い出す。テレビの映画劇場で見た記憶がある。閉所が苦手なので、映画は、劇場での鑑賞は無理。公共の場では三十分以上じっとしていることができないので、劇場でもトイレやロビーや売店の近くででうろうろしていて、最後まで通して見た映画は少ない。それでも、予告編は大好き。短くてわくわくするから。あれよあれよという間に終わってしまうところが好き。予告編は宣伝だから、いい場面を選んで編集する。よくできたものが多い。
言葉は裏窓。これは言えてるような言えていないような。でも、面白い。裏窓という言葉には、この映画のイメージがこびりついている。私的なイメージ。と言うか、すべてのイメージは私的なもの。
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イメージ、イマージュ、幻想、鏡像。
共同幻想は幻想。個人間の差異を無視した粗雑な私的イメージ、誰かの。誰かの幻想やイメージに付き合う気持ちはない。誰かの幻想に付き合うことで、主従関係が生まれる。ひいてはファシズムに至る。他人の幻想や共同幻想を求める願望は誰にもある。幻想やイメージへの人の偏愛は、おそらく、言語と関係がある。言葉はシステム。幻想やイメージもシステム。
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ガラスはオランダ語のglasから来ていると辞書にある。英語のglassでもある。glassはグラスでもある。glassを英和辞典で見ると、面白い発見に満ちていて楽しい。
言葉はグラス。
言葉は半分だけ水の入ったグラス。
言葉は満たしても満たしてもいっぱいにならないグラス。
こう書くと何か深い意味がありそうなフレーズに見える。隠喩や寓意(アレゴリー)ではないかと思ってしまう。自分で書いたにもかかわらず、だ。もし、これが他人の書いたものなら、よけいにそう見えるかもしれない。
言葉は魔法。
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hourglassという言葉を思い出した。砂時計のこと。hourglassというと、この映画。この動画を見つけた時には歓喜したものだ。懐かしい映画。いっしょに見た人を思い出す。映画館も覚えている。場所は東京、渋谷。あの時は最後まで見たような記憶がある。あの人はいまどうしているのだろう。この映画は後にレンタルで借りて見たこともあった。忘れられない映画。綺麗な映像。
映画は「ジェレミー」、主題歌は主役を演じたロビー・ベンソンが歌っている。この映画の内容は、主役の少年がユダヤ系だと考えるとよく分かる。センチメンタルなストーリーだが、懐かしいから好きだ。主題歌には正式はタイトルはなく、Hourglass Songと呼ばれているようだ。
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glassesと複数形になると、二つのレンズから成る眼鏡の意味にもなる。
言葉は眼鏡。
言葉は虫眼鏡。よく考えると不思議なネーミング。
言葉はルーペ。
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言葉はレンズ。
言葉はレンズ豆。
言葉は豆。
言葉は大豆。
言葉は畑の肉。
言葉は畑。
言葉は肉。
こういう連想が好きだ。なるほどという連想もいいけど、ときにはある程度荒唐無稽な連想を楽しみたい。
言葉はジャズ。
言葉はアドリブ。
言葉は魔法。
*
ビードロという言葉を思い出した。あれもたしかガラスじゃないか――。辞書で調べると、ポルトガル語から来ているらしい。日本に渡来する言葉の順では、ポルトガル語が先でオランダ語が次と学校で習った記憶がある。
葡萄牙、和蘭陀。いい感じ。こういう表記をまだ使ってもいい気がする。
西班牙、白耳義、独逸、丁抹、瑞典、諾威、波蘭……と、国名をカタカナで入力すると漢字の表記が出てくる。面白い。
言葉はビードロ。
言葉はぎやまん。
言葉は硝子。
ぎやまんは、ダイヤモンドから転じたらしい。ガラスを切ったり削ったりするのにダイアモンドを使ったことから、そうなったという。この「転じて」(要するに、間違って、ずれたために変わったわけです)が好き。人と言葉が生きていると感じる。転石苔を生ぜず。人は常に辞書を持って話したり書いているわけではない。規則は後付け。辞書は死亡診断書。
いまも起こりつつある、言葉のずれや変化。私はこれを「国語の乱れ」だとは思いません(詳しくは「言、葉、は、魔、法。【言葉は魔法・008】」をご覧ください)。言葉は生きているから揺らぐし変わるのです。
言葉はずれる。
言葉は変わる。
言葉は魔法。
*
言葉はガラス。
言葉はレンズ。
ピントの合った文章という言い方がある。ピントのボケた、つまりピンボケの文章もある。描写が正確ではないとか、言葉の選び方がいまいちぴんとこないという感じの文章か? そんな文章ばかり書いている私には、身につまされる話。
ピンボケの文章にも魅力があるのではないか。ほら、「歪んだ真珠」みたいに、いびつなものの魅力があるではないか。いや、ないか。だいいち、バロックに失礼だ。
ひとでなしの猫 ジャン・ルーセ 『フランス・バロック期の文学』 伊東廣太・齋藤磯雄 他 訳 (筑摩叢書)
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↑これはすごい本だった。ジャン・ルーセ『フランス・バロック期の文学』。目次だけを見ても、わくわくする。再版されてもいいのではないか。そう言えば、最近バロック文学という言葉を見聞きしないなあ。この本の内容は、すっかり忘れているけど、まあいい。そんな人生はものだ。ここまで生きられたことに感謝しよう。
言葉は歪んだ真珠。
言葉はバロック。
いま気がついたのだが、詩人の渋沢孝輔が訳者陣に名を連ねている。詩は苦手だけど、渋沢孝輔の詩集を学生時代に持ち歩いていたことがあった。難しいにもかかわらず、うっとりと字面を眺めていたものだ。「僕も現代詩を書いてみよう」なんて考えて、大学ノートを机に広げたものの、すぐにあきらめたのを覚えている。言葉が浮かばなかった。詩としての言葉が……。いまも同じだ。
なお、宮川淳の『引用の織物』の「言語の結晶学 『漆あるいは水晶狂い』をめぐって」という章は渋沢孝輔論である。『引用の織物』と、同じく宮川淳の『鏡・空間・イマージュ』には目もくらむような言葉であふれている。この二冊は、私には語るのをもはばかられる、美しい書物。「言葉は硝子」というこの記事において、宮川を論じる気には到底なれない。不可能だと思う。
ひとでなしの猫 宮川淳 『鏡・空間・イマージュ』 (風の薔薇叢書)
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ひとでなしの猫 宮川淳 『引用の織物』
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*
言葉はレンズ。
言葉は顕微鏡。あ、鏡が出た。
言葉は実験室。
言葉は望遠鏡。
言葉は天文台。
さて、glassの続き。
looking glassで鏡の意味になるが、ルイス・キャロル作のThrough the Looking-Glass, and What Alice Found There、つまり邦訳で『鏡の国のアリス』を思い出さずにはいられない。よく分からない小説。いや、いまでもさっぱり分からない小説。
言葉は鏡。
言葉は鏡の国。
言葉は不思議の国。
たしか顕微鏡は鏡とレンズを組み合わせた器機だと記憶している。カメラもそうであったような……。詳しいことは知らない。知らないままでいいものがある。でも、お勉強は必要だ。頑ななまでいてはならない。心の窓を閉ざしていてはならない。
写真に無知な私には、ジョニーさんの記事は分かりやすい。次回を楽しみにしている。
*
カメラは「明るい部屋」。ロラン・バルトの著作のタイトルだ。「明るい部屋」というと、イメージが広がる言葉だ。この邦訳と邦題について、ネットで興味深い論考を見つけた。読んで勉強になった。そうか、部屋と言うよりも箱なのか。
昔の写真機を思い出すと、いかにも箱という感じだ。中はどうなっているのだろうと、子ども心に不思議に思ったものだ。ブラックボックス、いや暗箱。暗箱カメラという言葉があると知った。奥が深い。
言葉は明るい部屋。
言葉は明るい箱。
言葉は暗箱。
言葉は暗箱カメラ。
明るい部屋【新装版】 | みすず書房
写真についての覚書 《狂気をとるか分別か? 「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。「写真」のレアリスムが、美的ない
www.msz.co.jp
ロラン・バルト『明るい部屋』日本語訳の問題点 | 東京オルタナ写真部 Tokyo Alternative Photography
東京オルタナ写真部ではロラン・バルトの『明るい部屋』の読書会を開催しています。 『明るい部屋』は写真家に非常に人気のある「
tokyoaltphoto.com
その暗箱カメラがどんどん進化し、いまではデジタルカメラが普及している。しんはくさんも、ジョニーさんと同じく、私にとっては写真やカメラについての先生。
いつもお世話になっております。
*
ガラスと言えば、透明。
カラスと言えば、黒。
マリア・カラスと言えば、男性で苦労。
カラスは英語でcrow。
韻の練習。頭韻、脚韻。音だけでなく、イメージの韻もあるのではないか。
冗談はさておき、透明感のある文章とか文体という言い方を見聞きする。どんな文章なのだろう。イメージがいまいちつかめない。こういう時には、逆を考えるといい。沼とかどぶみたいに濁った文章、ダミ声みたいな文体、ごちゃごちゃした文章、べたーっと黒っぽい字面の文章……。何だか自分の文章みたいなのでストップ――。
もしも文章が透明ならば、向こうが透けて見えるではないか。つまり、つっかかずにすらすらさくさく読めるのが透明な文章ということになる。あるいは、読んでいて書かれているシーンが容易に目に浮かぶような文章があれば、それは透明だと言えるのではないか。
ちょっと待って。
そんな文章は書いても意味がないのではないか。要するに、言葉であることを感じさせないような文章。きれいに磨かれた透明なガラス戸を思い浮かべてほしい。そのガラスが文章で、ガラスの向こうに見える風景が文章の内容なりストーリーだとしよう。
味気ないのではないだろうか。誰もが文章と意識しないような文章。あってもないようにしか感じられない文章。透明な文章とはそんなものを言うのではないか。たしかに綺麗なのかもしれない。目立たない言葉を癖のない言い回しで淡々とつづっていく。
そんな文章を、あなたは書きたいだろうか。
自分の文章。自分という人間性や人となりが出ている文章。これは〇〇さんの文章だ、と言われるような個性あふれる文体で書いてみたいのが、人情ではないだろうか。どうせ書くのなら。
*
話が逸れたようだ。透明な文章じゃなくて、透明感のある文章の話をしていたのだった。逸脱していくのが私の文章の癖。癖のある文章。パッチワークのような、つまり継ぎ接ぎだらけの文章。透明感とはほど遠い。
それはさておき、透明な文章はある気がする。と矛盾してみる。
たとえばテレビのニュース原稿や電気製品の取扱説明書やレシピやカップ焼きそばの作り方の説明であれば、個性を感じさせない、誰もがすっと読めるような書き方が求められる気はする。いわゆる実用的な文章だ。人が味わってくれることを想定していない文章。メッセージが伝わればいいだけの文章は、無色透明でなければならない。
『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』が面白い
文豪や著名人など、100通りの文体でカップ焼きそばの作り方が書かれたこの本が話題になっている。帯文によると、「切実に馬鹿だ
meetia.net
だから、透明な文章が文体模写の度台に適するのである。無色透明だから、癖のある文章で容易に色づけ味付けできるというわけだ。
無色透明であるからこそ、いろいろな個性ある文体で書き分けるという企画の餌食にされると言える。村上春樹、あるいは蓮實重彦の文体で、洗濯機の取説を書いてみよう、なんて。
*
で、
ところで、みなさん、
ジャンルという制度=しきたりが、膠着=マンネリ=非活性状態にあることも確かです。その点、noteでのハッシュタグの多用は頼もしいですね。「小説」、「エッセイ」、「詩」というタグが同居する記事も珍しくありません(さすがに「俳句」と「短歌」の同居はないみたいですが)。こういう風穴を開けるアナーキー=穴あきーは大好きです。私自身はタグのタグいの使用には抑制的ですけど、ただ面倒なだけで別にポリシーとかはありません。
あ、一つありました。ポリシーというほどのものではなく、むしろルナシー( LUNA SEA じゃなくて lunacy=愚行・きち〇い沙汰=正気のサタデーナイトのほう)なんですけど、記事に「哲学」というタグだけはつけません。世の中の大半のヒトが考えている哲学と私のやっていることは、どうやら違うみたいだからです。誤配を避けるためです。そんだけ~。
で、
話をもどしますと、
*ケータイ小説の未来
というか、今後ですけど、たぶん、このまま続くと思います。テレビが登場したとき、映画やラジオや紙芝居がなくなると、嬉しそうに言う、意地の悪い=性格の悪い=根性の悪い評論家たちがいたらしいですが、今も映画とラジオと紙芝居はありますよね。それと同じです。
いわゆる純文学も、いわゆるエンターテインメント小説も、いわゆるライトノベルも、いわゆるBLも、いわゆるケータイ小説も、いわゆるネット小説も、シェアの増減=変化はあるでしょうが、それなりに共存していくと予想=妄想しております。ステゴザウルスや、ドードー鳥や、ベータマックスや、おニャン子クラブのように消えることはない、と信じています。むしろ、さらにまた、
*新しい形態(ケータイ)小説
が現れるに決まっています。それが、ヒトのたくましさ=厚かましさ=図々しさ=頼もしさです。
(「空前の「純文学」ブーム/書く・書ける(1)」より)
なんですけど、
どなたか、ダミ声でテキ屋さんがバナナのたたき売りの口上を述べているような=沼のように濁った=ごちゃごちゃぐちゃぐちゃした=継ぎ接ぎだらけの、上の駄文の文体で、
*カップ麺の作り方を作文してみる。
気はありませんか。
*
冗談はさておき、透明ではなく、透明感のある文体として、川端康成作『雪国』の冒頭近くの文章を挙げたい。とくに取り上げたいのは、主人公の島村が、曇った汽車の窓ガラスに指で線を引く場面である。ちなみに、川端の作品は青空文庫に入っていない。日本国内での著作権保護期間がまだ満了になっていないからだ。ここで引用するのも遠慮しておく。以下は要約。
――汽車の中で主人公の島村が左手の人差し指をいろいろ動かしたり、その指にまつわる記憶にふけったり、指を鼻につけてその匂いを嗅いでみるという、かなりエロティックな描写(猥褻な感じさえする)の後に、向かい側の座席の女(娘)が窓ガラス(手で押し上げて開ける窓)に映る。窓ガラスが鏡になるのだ。その窓ガラスの向こうに夕闇の中の景色が流れていく。窓という鏡に映った娘。窓の向こうに流れる風景。娘の顔に、野山のともし火がともる。映画の二重写しのように。
ガラスが透明であることとガラスが鏡でもあることをこれほどまでに、美しく象徴的に描いた文章は他にないのではないか。エロチックで濃密な筆致の直後に、こうした透明感のある描写を持ってくるところが、川端の凄さだと思う。
対比の妙だろう。この書き方は錯覚を利用した一種のトリックである。文章がテーマ(ガラス、鏡、こちら側と向こう側、ここにあるものとここにないもの)を模している。しかも、きわめて複雑。私流に言うと、これは擬態に他ならない。
言葉は魔法。
言葉が言葉に擬態する。
言葉は言葉を真似る。
シニフィアンがシニフィエに擬態する。
シニフィアンがシニフィエを真似る。
言葉は擬態。
(「言葉は擬態 【言葉は魔法・009】」より)
文体が文章の内容を模倣する。
文章が内容を模倣する。
文体が文章の内容に擬態する。
文章が内容に擬態する。
言葉は魔法。
言葉は魔術。
擬態は錯覚を利用する行為だ。生き物においても、文章においても、言葉においても。
川端の『雪国』におけるあの場面の描写――。淀んだ性愛行為と、ガラスと光によって織りなされる透明感のある美という、かけ離れたものをわざと隣り合わせにするのだから、これはまさに錯覚を利用した魔術的な文章の手法であると言えよう。両者が別々に書かれていたら、その描写の効果は半減したにちがいない。対比の妙。対比の効果。
*
美しい文章には理由がある。美しさを感性とか(感性という名の概念)、美意識とか(何も言っていないに等しい)、才能とか(思考停止の決まり文句)いう言葉で置き換えてたところで、それは美しさの理由にはならない。抽象論や印象ではなく、具体的な言葉の身ぶり、つまり言葉の綴られ方、文章の書かれ方に目を向ける。美しさの「秘密」があるとすれば、それは文章と言葉の細部に具体的な形としてある。ある意味で唯物論(もちろん、これは比喩)。
川端康成と言えば、新感覚派(コトバンクの解説もいい)。これも言うまでもなく決まり文句である。口にして恥ずかしくなるような常套句。あえて語るなら、新感覚派は錯覚を利用したレトリックを多用した。要するに巧みまくったのである。ハズレや不発も多かったと思われる。
それにしても、『雪国』だけを読んでも、川端の手法は凄い。上で挙げた手法は、ほんの一例に過ぎない。あれだけでも十分に複雑なのだが。まだまだ多種多様な技巧が使われている。
川端、恐るべし。言葉の魔術師。
*
言葉はガラス。
言葉は硝子。
言葉は透明。
言葉は鏡。
言葉の向こうの景色。
言葉に映る、こちら側。
ある、と、ない。
文体が文章の内容に擬態する。
言葉は二重に写す。
言葉は錯覚させる。
言葉は魔法。
言葉は魔術。
*
ガラスと言えば、最後に、これ。↓
この曲には思い出がある。昔々新宿にあった「ツバキハウス」というディスコに初めて連れて行かれた時に(嫌だ嫌だというのに連れて行かれた)、たしかこの曲を聞いた気がする。違ったかな。自分の中では、あの嫌な記憶とこの曲が重なるのだけど。
ウィキペディアで曲名とアーティスト名を検索して驚いたことがある。
Heart of Glass 1979 Blondie
リアルタイムで聞いた曲のはずなのに、音楽に疎い私はこれがパンクだと知ってびっくり。さらに、Blondieというのが歌っている女性ではなく、バンドの名前だと知って開いた口がふさがらなかった。ふつう、この女性だと考えないだろうか? どう見てもブロンディなのに……。
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