言葉を誘い出すもの <言葉は魔法・023>

星野廉

2021/01/22 07:59


 書く時のルーティーンみたいなものが、誰にもある気がします。まず、これがないと文章を書く気になれないという物、つまり書く時の必需品ついての話から始めましょう。


 文房具にこだわる人は多いですね。愛用している筆記具はいとおしいもので、他のものを使う気にはなれないと言う作家やライターさんの意見を見聞きします。


 このペンだとよく文章が書けるとか、原稿用紙じゃないと人に見せる文章は書けないとか、パソコンでしか書けなくなっているとか、スマホで書くのが習慣化している、あと愛用と言うか、つねにそばに置いておく三角定規や文鎮やパワーストーンがある、なんて言う人も多いです。


 いま挙げたのは物ですが、事や状況もありますね。たとえば、書く前には散歩を欠かさない、シャワーを浴びてインスピレーション(霊感)を受けやすくする、音楽が聞こえないと書けない、逆に音がする環境では書けない、音楽はぜったいにロックそれも60年代のブリティッシュロック、わたしは何てったって演歌、ぼくはあのカフェのあのテーブルに就かないと駄目、愛猫がそばにいないと乗らない、なんて感じでしょうか。


 分かる気がします。書くためにはある特殊な精神状態が必要であったり、脳のある部分が活性化されていないと書けない、というのはおおいにあると思います。それを誘い出す物や事や状況がある、それは個人差があり、人ぞれぞれだというわけです。


 こうした行動は験を担ぐとも言いますが、典型的なルーティーンであるとも言えますね。もう引退なさいましたが、五郎丸歩さんのあのチャーミングなポーズみたいに、あの儀式を執り行わないと「何ものか」が助けてくれないのです。物だと、羽生結弦選手のプーさんもそうでしょう。


 スポーツ選手やアーティストは、自分しか頼る人がいない超孤独な極限状態に身を置くわけですから、私たち書き手もまた自分をそうした厳しい状況に我が身を置く覚悟があってもいいのではないでしょうか。書くことは真剣勝負なのです。


 書く行為は、非日常であったり特殊な精神状態下でおこなわれる。

 言葉を誘い出す事物や儀式がある。

 

 言葉は魔法なのだから。








        *


 言葉が降りてくるとか、言葉が降ってくるとか言う人がいますが、その気持ちも分かる気がします。天や空を意識した言い方ですね。


 言葉が出てくるとか、言葉が湧いてくるというのも、よく耳にします。自分の中に言葉が眠っているとか、住んでいるというイメージでしょうか。なかなか能動的で素敵な考えだと思います。


 自分を超越した存在から言葉をいただく、あるいは自分の中にある言葉を出してやる。いずれの場合にも、何らかのきっかけが必要だという気がします。


 言葉を呼ぶサインや笛が必要になる。

 言葉を呼び出す/呼び込むきっかけやスイッチが要る。


 言葉は魔法だから。





        *


 え? そんなに苦労しないよ。何となく書けてしまうもん。


 そう言う人もいます。じっさいに会ったことがあります。たしかに、いつでもどこでも苦もなく、大学ノートを取り出して、その辺にあるペンですらすら文章を書く人がいました。人と雑談しながらでも手を休めないですから器用ですね。


 その人はおもに詩と文芸評論を書いていて、書くことには苦労していないのに、女性問題でつねにトラブルをかかえていたのが、いま考えるとアンバランスで興味深い人物でした。いま流行の言葉で言うと「こじらせ」なんです。


 はっと思いついたのですが、その人はヘビースモーカーというかチェーンスモーカーだったのですが、ひょっとするとあの人の言葉を誘い出していたのは、煙草だったのかもしれません。


 たしかに煙草がないと書けない人は多い気がします。そう言えば、バルザックはコーヒーをがぶがぶ飲みながら書いていたとか……。お酒はどうなんでしょうね。酔っ払って書くのは不謹慎でしょうが、少しアルコールが入った状態で書く人は案外いそうです。


 嗜好品という言葉がありますが、辞書を引いたり、ネットで検索すると、けっこうすごい説明というか、わくわくするような記述があります。コーヒーや煙草やお酒やお茶だけでなく、清涼飲料水やお菓子まで含める解説があります。こうしたものに人間がどれだけ依存し、それを入手するためにどれだけ奔走し、争いさえ起こしていることか。


 嗜好品に加えて香辛料までに話を広げると、歴史、地理、経済、政治までかかわってくる大きなテーマになりそうです。まるでジャレド・ダイアモンド著の『銃・病原菌・鉄』みたいなスケールで、人類が論じられそう。


嗜好品とは - コトバンク

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 嗜好品の用語解説 - 栄養分として直接必要ではないが,人間の味覚,触覚,嗅覚,視

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銃・病原菌・鉄〈上巻〉—1万3000年にわたる人類史の謎

なぜ人間は五つの大陸で異なる発展をとげたのか?人類史の壮大なミステリーに挑んだ話題の書!ピュリッツァー賞、コスモス国際賞受

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 言葉は魔法。

 無から有を生むのが言葉という魔法。


 そんな言葉を誘い出す嗜好品。

 魔法を生み出す嗜好品。


 嗜好品、恐るべし。


 ヒトにとって言葉こそが最強の嗜好品なのかもしれない。

 自然界では得られない言葉という「嗜好品」を呼び出すために嗜好品をもちいる。

 ヒトはややこしい生き物だ。

 ヒトは言葉に依存・嗜癖している。言葉なしでは生きられない。


 言葉は物神・事神・言神。

 言葉は魔法。


        *


 ↓ 面白かったです。





        *


 嗜好品のことを考えていて、すごいことが頭に浮かびました。勘の鋭い人はぴんときたことでしょう。そうです。あれです。あれに話が飛ぶのは必然ではないでしょうか。


 薬のことです。クスリと表記すべきでしょうか。麻薬をはじめとする薬物の助けを借りて、執筆されたらしい文学作品はたくさんありますね。真偽のほどはよく分からないのですが、そうだと言われている作品を挙げてみます。


 じつは、「言葉は交響曲 <言葉は魔法・018>」を書いていた時に、薬物の話をしようかと迷ったのですが、何だかヤバい方向に行きそうだったのでやめたのです。今回は、ある程度真っ向から取り扱ってみようと思います。



        *


 学生時代に『知覚の扉』という本が流行っていました。私も持っていましたが、ぺらぺらめくっただけで辟易しました。私には合わないみたいです。検索するとウィキペディアの解説がありました。


知覚の扉 - Wikipedia

ja.wikipedia.org

 本のデータもありました。


平凡社ライブラリー 知覚の扉

幻覚剤メスカリンが、かつての幻視者、芸術家たちの経験を蘇らせる。知覚の可能性の探究を通してハクスリーが芸術を、文明の未来を

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 この本についての解説記事をブログで書いている人は多いですね。ざっと目を通してよく書けていると思ったものを以下に紹介します。


オルダス・ハクスリー『知覚の扉』 - 原始的幻視鑑賞録

絵画と音楽、読書の記録など。

korobox.blog.fc2.com

 丸投げをお許しください。私はこういう方面には疎いのです。「ある程度真っ向から取り扱ってみよう」なんて書いていながら、本当に「ある程度」しか扱っていませんね。この種の話は、どんどん行くとかなりヤバい方法に走りそうですので、みなさん、気をつけてくださいね。


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 では、興味のある方のために紹介を続けます。


 トマス・ド・クインシーの『阿片常用者の告白』の新訳が出たのですね。しかも野島秀勝氏の訳ですから信用できると思います。


岩波文庫 阿片常用者の告白

英国ロマン派屈指の散文家による自伝文学。幼少期の悲哀、放浪の青春から阿片常用の宿命の道程を描く。阿片の魅惑と幻想の牢獄を透

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 ↓ コンパクトにまとめてあります。


『阿片常用者の告白』 ド・クインシー(岩波文庫)

阿片常用者の告白 (岩波文庫)書名:阿片常用者の告白著者:トマス・ド・クインシー訳者:野島 秀勝出版社:岩波書店ページ数:

bungakufan.blog.fc2.com

 

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 あとはウィリアム・S・バロウズ(←リンクあり)と、フィリップ・K・ディック(←リンクあり)の名前を挙げるだけにとどめておきます。フィリップ・K・ディックは一時期よく読んだのですが、いまでは興味はありません。もう読むパワーがないという感じです。


 最後に、由良君美の『椿説泰西浪曼派文学談義』を挙げておきます。いまも、この本の斬新な視点は貴重であるし、こうした視点からの文学研究が必要だと私は思います。


平凡社ライブラリー 椿説泰西浪曼派文学談義

文学史に埋もれた伊達男兼殺人文筆家に光を当て、アヘンが文学に与えた影響をあざやかにひもとく。ターナー晩年の絵画のすばらしさ

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 以下の記事で由良君美について触れています。ご興味のある方は、その箇所だけでもお読みください。




 私の中では、この種の話題になると、スコット・マッケンジーの San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)(花のサンフランシスコ)1967 が頭の中で鳴ります。幸せだと思います。もっと違った連想や記憶をお持ちの方がいるにちがいありません。人それぞれです。





 ヒトにとって言葉こそが最強の麻薬・魔薬なのかもしれない。

 自然界では得られない、あるいは自分では生成できない、言葉という「麻薬・魔薬」を呼び出すために麻薬・魔薬をもちいる。

 やはりヒトはややこしい生き物だ。

 ヒトは言葉に依存・嗜癖している。言葉なしでは生きられない。


 言葉は物神・事神・言神。

 言葉は魔法。


        *


 話をがらりと変えます。


 言葉を誘い出す言葉があると思います。そんなおまじないみたいな言葉があればうれしいですよね。


 自動書記(自動筆記)とかオートマティスムという考え方があって、何かに取り憑かれたみたいに文章があれよあれよと書ける状態があるそうです。何かきっかけがあってそうなるのでしょうね。私は経験がないので、そんなことが自分にも起こるといいなあと思います。


 それは極端な例ですが、ある言葉がいわば誘い水になって、言葉がどんどん出てくることはたまにあります。いや、まれにあると言うべきかもしれません。


 noteで見かけたある記事を思い出しました。


 誰の記事だったか、忘れたのですが、「おばんです」で始まる記事があって、思わず微笑んだことがありました。いまもまた頬が緩みました。あれは、いいですね。何だか、ほのぼのとした気持ちになります。方言の挨拶ですね。どこの方言なのでしょう。


 駄洒落を言うつもりはないのですが、近所の気さくなおばん、つまりおばさんから挨拶されているような感じがします。書いていたのが男性なのか女性なのか、はっきりと覚えていないのですが、女性で、それも四十歳以上ではないかと勝手に想像して読んでいました。


 noteでは書き手の性別が分からないことが多いのですが、みなさんはどうですか? どうやら私は性別を察するのが苦手みたいです。そもそも日常生活でも人生においても人付き合いがきょくたんに少ないのです。生まれてこの方ずっとそうでした。


 そのせいか人を覚えるのに苦労します。顔が覚えられないし、名前が覚えられないのです。まして、ネット上だとよけいにわけが分からなくなります。人を覚える容量がかなり少ないみたいです。


 最近でもありました。ずっと男性だと思っていたフォロワーさんがどうやら女性のようだと気づきました。その逆も前にありました。あとは、性別が不明なまま記事を読んだりコメントをし合っている場合も多々あります。


 心当たりのある方は、ごめんなさい。とんちんかんなコメントをしたにちがいありません。心当たりのない方は、引き続き曖昧なままのお付き合いをお願いします。


        *


 話を戻します。


「おばんです」の他に「僕です」「こんにちは」「お元気ですか?」「ヤッホー!」という出だしも見かけた記憶があります。ああやって、一種の景気づけをして勢いをつけているのだろう、そんな気がしました。


 もっと変わったと言うか、奇抜な出だし(文中や終り方にも癖が見られます)や書く時の癖にも気づいているのですが、個人が特定されそうなのでやめておきます。だいいち失礼ですよね。


「あなたには、こういう癖がありますね」なんて、ふうつは赤の他人から言われたくはないです。私も嫌です。それにもかかわらず、私はなぜかそういうところにやたらと目が行くのです。性格の問題でしょうね。


 こういう書き出しや文中や終り方の癖やパターンは本人が気づいていなかったり、意識していない場合が多いようです。それでいいのだと思います。あまり意識すると、かえって書けなくなるかもしれませんね。この記事の冒頭で述べた意識的にする、書く時のルーティーンとはちょっと違うようです。


 ところで、この記事は「言葉は魔法」というシリーズなのですが、私は「言葉は魔法」と書くと、つまりキーボードで言葉を打つと、たいてい言葉が出てきます(出てこない時には、時間が経ってからまた試すと出ます)。言葉が言葉を誘い出すみたいなのです。あれはおまじないですね。ちなみに、おまじないは「お呪い」と書くことができますね。「のろい」と同じになるので、避けています。


 いまのところは、「言葉は魔法」と敬体(です・ます調)の文章が、私にとっておまじないみたいな役割をしています。敬体で書かれた文章を読んでいると、こちらにリズムが移ってきて書く気になることがよくあるのです。物を書く時に使っていているPCの脇には、三島由紀夫の『文章読本』、土屋政雄さんの訳したカズオ・イシグロ作の『日の名残り』と『わたしを離さないで』があります。


 また、近くには、渡辺一夫・鈴木力衛著『フランス文学案内』(岩波文庫別冊)と下條信輔著『サブリミナル・マインド』(中公新書)も置いてあります。どれも敬体で書かれていて、こういう本がそばにあると安心するのです。


 好きな文章を引用させてください。


 これを要するに、戯曲の文章とは、ときには眼も綾な倒置法の乱用や、あるいは日本語の会話を極度に折りまげた、日本語の会話の表現力の最高度の発揮や、いずれにしろ散文のようなしっかりした形を離れて、融通無碍な、そうしてかつ流動し舞踏する独特な文体と言えましょう。つまり小説の文章を歩行の文章とすれば、戯曲の文章は舞踏する文章なのであります。


(三島由紀夫『文章読本』第四章「戯曲の文章」より引用)

 センテンスは長めですが、明晰にかつ感覚的に戯曲の文体を表現しています。「眼も綾な倒置法の乱用」と「日本語の会話を極度に折りまげた、日本語の会話の表現力の最高度の発揮」には逆説と一種の形容矛盾をもちいて辛らつな批評さえ忍ばせています。こういうチクッとした棘が三島由紀夫の文章読本にはよく見られ、それが味になっています。


 手放しで褒めることはほとんどありません。たとえ、そう見えてもです。じつに抜け目がないです。この本の文体は、他の文章読本にはない芸と言えるでしょう。頭のいい人ですね。こういう文章を読むと、自分の無力さを感じつつ、よし書こうという気になります。


【※じつは、上で紹介した三島の文章は福田恆存『キティ颱風』からの引用文についての解説なのですが、その前には岸田国士『チロルの秋』からの引用があり、さらにその前にも戯曲についての興味深い考察が展開されています。『近代能楽集』を書いた三島は戯曲に並々ならぬ情熱をいだいていて、第四章「戯曲の文章」はこの文章読本の圧巻と言っていいのではないかと思っています。様式美をとりわけ尊んだ三島にとって、戯曲がおおいに気になるジャンルであったことは間違いないと思われます。】


 持論ですが、三島由紀夫は『近代能楽集』において、言葉の魔法と呪術にもっとも接近した業績を残したと考えています。



中公文庫 文章読本 (新装版)

文章の最高の目標を格調と気品に置いています—。森〓外、川端康成、ゲーテ、バルザックなど古今東西の豊富な実例を挙げ、あらゆる

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三島由紀夫 『近代能楽集』 | 新潮社

葵の病室を訪れる謎の黒手袋の女は、何を奪おうとしているのか。「一番気に入っている」と著者が語った魂魄の劇「葵上」。「あと一

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近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町 | PARCO STAGE

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 私は散文的な人間で詩歌は作れないのですが、日本の伝統的な定型詩には興味と敬意をいだいています。いまも多くの詠み手がいるのは短歌や俳句ですね。


 伝統的な定型詩には先行する膨大な数の作品があります。そうした先人のあるいは先輩の作品を読んで自分でも詠む。「読む」が「詠む」につながる。考えてみるとすごい話じゃありませんか。自分が大きな伝統の連鎖につながる、つらなる、つまりその一部になるのですから。


 もっとも、短い定型詩ですから、同一の、あるいはほぼ同じ作品が生まれるという事態も頻繁に起こるみたいですね。私はそうしたジャンルに身を置いて活動していないので、何とも言えませんが……。想像すると怖いです。


 やっぱり私は既存の定型詩は無理です。自分でルールを作って自分を縛るほうが身に合っていると思います。こういうのは自縛と言うのですね。自縄自縛になったり、挙げ句の果てには自爆することもあるみたいです。自爆は怖いですね。寂しいですけど、まだ不発のほうがましです。


 いま自分で自分を縛ると言いましたが、たとえばさきほど述べた敬体を使うこととか(ときどき気分を変えて常体をまじえることがありますけど)、以前だと「私」といった人称代名詞を省くなんて縛りを自分に課して書いていたことがあります。




 このように、縛りというかルールを課すと、不思議なことに文章が書きやすくなるという経験があります。今日は大和言葉をできるだけ使おう。ひらがなを多めに使おう。カタカナは禁止。ジャズのアドリブを意識してばーっと一気に書いてみよう。今日は常体で書くのだ。蓮實重彦の文章を意識しよう(真似は無理です)。こんな具合に書き出してみると以外とそれがほどよい縛りになって書けるものです。あくまでも個人の意見です。


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 定型詩と言えば、noteにアナグラム詩の活動があるのを知りました。この活動は、先行する作品(言葉)を読み、そこから自分の言葉をつづっているのですから、まさに「言葉が言葉を呼び寄せている」という好例です。


 さらに言うなら、アナグラムという縛り(ルール)が、ある種のルーティーンや誘い水のような働きをして創作を促しているのです。多くの人たち――個性豊かで幅広い層の書き手たち――が参加しているさまは壮観です。新しいジャンルの息吹を感じます。


 いちばん感動したのは、この記事で紹介されている他の人たちの個性が、アナグラム詩という縛りの中で発揮されていることです。ある一定の定型の中で個性ある創作が可能であるどころかすでに実践されているのですから、これはジャンルとして本物だと言わざるを得ません。エールを送りたいと思います。


 どんなジャンルにも、とりわけ定型詩の場合には、成熟するまでの間に、さまざまな対立や革新や改革運動が起こることは歴史的事実です。思いがけない斬新なアイデアが出るかもしれません。また、自分なりのルールを作り、一人で楽しみたい人もいるでしょう。定型としてのルールが硬直化しないことを祈るばかりです。


 興味のある方は、ぜひ以下の記事をお読みください。「読む」ことで「詠む」が生まれれば素晴らしいですね。お薦めいたします。





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 では、まとめます。


 書く行為は、非日常であったり特殊な精神状態下でおこなわれる。

 言葉を誘い出す事物(書く時の必需品)や儀式(書く時のルーティーン)を利用している人は多い。

 好きな曲を流しながら執筆する人も多い。

 大切なのはその気にさせるものを見つけること。

 

 言葉は魔法なのだから。


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 言葉が降りてくるとか、言葉が降ってくると言う人がいる。

 言葉が出てくるとか、言葉が湧いてくると言う人もいる。


 言葉を呼ぶサインや笛が必要になる。

 言葉を呼び出す/呼び込むきっかけやスイッチが要る。


 言葉は魔法だから。


        *


 言葉は魔法。

 無から有を生むのが言葉という魔法。


 そんな言葉を誘い出す嗜好品。

 魔法を生み出す嗜好品。


 嗜好品、恐るべし。


 ヒトにとって言葉自体が最強の嗜好品なのかもしれない。

 自然界では得られない、言葉という「嗜好品」を呼び出すために嗜好品をもちいる。

 ヒトはややこしい生き物。


        *


 ヒトにとって言葉自体が最強の麻薬・魔薬なのかもしれない。

 自然界では得られない、あるいは自分では生成できない、言葉という「麻薬・魔薬」を呼び出すために麻薬・魔薬をもちいる。

 やはりヒトはややこしい生き物。

 ヒトは言葉に依存・嗜癖している。言葉なしでは生きられない。


 言葉は物神・事神・言神。

 言葉は魔法。


        *


 言葉を誘い出す言葉がある。

 書き出しに癖のある文章では、書き出しの言葉が文章の誘い水になっているのかもしれない(本人が気づいていなかったり、意識していない場合が多い)。


 敬体で書かれた文章を読んでいると、こちらにリズムが移ってきて書く気になる者もいる。


        *


 三島由紀夫は『近代能楽集』において、言葉の魔法と呪術にもっとも接近した業績を残したのではないか。


        *


 日本の伝統的な定型詩、つまり短歌や俳句には多くの詠み手がいて、全国規模で日々創作が行われている。


 先人のあるいは先輩の作品を読んで自分でも詠む。「読む」が「詠む」につながる。つまり、言葉が言葉を誘い出している。


 定型詩という仕組みは、言葉の魔法。


 五・七・五、あるいは五・七・五・七・七といったルールがほどよい縛りとなって、各人がその枠の中で個性を発揮するのが定型詩の醍醐味である。


 定型という縛り。

 縛りが言葉を促し誘い出す(呼び出す/呼び込む)。


        *


 noteにアナグラム詩の活動がある。アナグラムという縛り(ルール)が、ある種のルーティーンや誘い水のような働きをして創作を促している。


 アナグラム詩という定型の中で個性ある創作がすでに実践されているのだから、ジャンルとして本物である。


        * 


 言葉は魔法だから、言葉を誘い出す「何か」を自分なりに見つけよう。


「何か」とは、物であったり、仕草であったり、嗜好品であったり、おまじないのような言葉であったり、縛りや定型であったりする。


 そうした「何か」には「魔法」を誘い出す力がある。そうした「何か」はおまじない、つまり術と呼んでいいだろう。つまり呪術である。

【※この「呪術」という考え方は古井由吉の著作に多くを負っています。記事を最後をご覧ください。】


 言葉は魔法。

 魔法には魔法。

 呪術には呪術。



        *


 最後に、古井由吉によるエッセイ集をお薦めします。入手困難な本かもしれないので、興味のある方は図書館などでお探しください。


 念のために申し添えますが、以下の文章で古井由吉が触れている「呪術」とはいわゆるスピリチュアルやオカルトとは必ずしも関係があるものではありません。古井の言う「呪術」については、引き続き勉強します。


 言葉には、表現の働きのほかに、聞き手読み手の人格を通り越して情念の深層に働きかける、呪術的ともいうべき働きがある。(中略)

【古井由吉「言葉の呪術」p.12『招魂としての表現』(福武文庫)所収】【古井由吉「言葉の呪術」p.13『日常の"変身"』(作品社)所収】

 虚構するということはいずれにせよ現実の足場をいったんは踏みはずすことであり、言葉はその時、踏まえどころを失ったその分だけ表現を失い、そしてまたその分だけ、書き手の意識の深層から、おそらく意識としての人格の解けかかったところから何かを呼び出そうとする呪術の力を得る。小説が書き手の意識を超えて読み手に訴えるというのは、この過程をくぐるところから来るのにちがいない。(中略)小説は書き手の想念の表現に留まらず、それ自体として生命を帯びなくてはならないという要請も、おそらくこの事情にかかわることなのだろう。人格の限定から、集合的な土壌へ、何らかの根でつながっていなくてはならぬということだ。

(※太文字は引用者による)

【古井由吉「言葉の呪術」p.14『招魂としての表現』(福武文庫)所収】【古井由吉「言葉の呪術」p.15『日常の"変身"』(作品社)所収】

福武文庫 招魂としての表現

“表現というものの無力さの認識、それがあらゆる表現者の出発点であると私は考える”—小説表現の可能性を徹底して追求する著者の

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