名前という名の魔法の言葉(言葉は魔法・第12回)
星野廉
2021/05/16 08:29
目次
名文当てゲーム
種明かし
有名と無名
名前を貸す、借りる
有名もいろいろ、無名もいろいろ
提案します。
告白します。
名文当てゲーム
三組の文章を誰かに読ませて、その反応を見る。
次に「この中に、とある文豪(または売れっ子の作家)の書いたものがあるのですが、当ててみてください」と言う。さらに「ちなみに、そのうちの一つは、私の姪である小学生の作文から引用したもので、もう一つは私が書いたものです」とプレッシャーをかける。
三組の文章には紛らわしいものが選んである。たとえば、文豪の文章は子どもが主人公であったり、童話っぽい作品だったりして。
こんな雰囲気のテレビ番組がありますね。複数のタレントや有名人を相手に、料理とか演奏とか物とかを五感で味わわせて、その人が通なのかどうかを見きわめて、大恥をかかせる、または褒めたたえるという趣向です。
対象が文章だと一種の名文当てゲームでしょうね。
*
こんなゲームも考えられます。
ある短い語句、あるいは一センテンス、またはそこそこ長めの文章を、誰かに読ませて、その反応を見るのです。
これはここでもできそうなので、やってみましょう。
1.「水」
さすがに一語だと短すぎますよね。
2.「水が」
これもちょっと無理っぽい。いくらなんでも、これが誰の言葉かを当てさせるのは酷でしょう。この間私の書いた記事みたい。
3.「水が来た。」
「なんだ、あれじゃない」と思った方、そうです。これは私の書いた別の記事で紹介しました。あれなんです。リユースしております、はい。
有名と言えば有名なセンテンスですから、別に私の記事経由でなくても、出典がお分かりになって方がいて不思議はありません。
そういう方も、「え? なんだろう」と思っている方といっしょに、ちょっとお付き合いください。
*
「水が来た。」はある文豪の小説から引用したものです。「文豪と言えば、漱石?」と考えた方、「惜しいです」。でも、名前は挙げません。名前を挙げると、先入観にとらわれて構えてしまうからです。
「そうかそうか、〇〇の言葉か。さすがに名文だね。短いけど、すごい。なんというか、こう、気品が漂ってくるのよね」
「やっぱりね。違いますよ。短いけど、そんじょそこらの文章とはぜんぜん違う。なんというか、こう、文体が違います」
「そんな気がしたんだよな。〇〇には独特のたたずまいがあるでしょ? なんというか、こう、匂い立つ教養を感じるんだ」
なんて世迷い言を漏らしかねません。名文、気品、文体、たたずまい、匂い立つ教養――。「何ですか、それ?」とツッコみたくなります。
でも、それでいいのです。それが普通なのです。名前は魔法の言葉ですから。名前を挙げられれば、私もそう思うに決まっています。なにしろ私は根がミーハーな人間です、それも半端じゃなく。
名前の魔法にかからない人は、たぶん人じゃないです。ひとでなしとまでは言いませんが、私はそんな人に出会った記憶はありません。
種明かし
では、種明かしをします。三島由紀夫の『文章読本』から引用させてください。
(前略)この文章はまったく漢文的教養の上に成り立った、簡潔で清浄な文章でなんの修飾もありません。私がなかんずく感心するのが、「水が来た」という一句であります。この「水が来た」という一句は、全く漢文と同じ手法で「水来ル」というような表現と同じことである。しかし鴎外の文章のほんとうの味はこういうところにあるので、これが一般の時代物作家であると、閭が小女に命じて汲みたての水を鉢に入れてこいと命ずる。その水がくるところで、決して「水が来た」とは書かない。まして文学的素人にはこういう文章は書けない。このような現実を残酷なほど冷静に裁断して、よけいなものをぜんぶ剥ぎ取り、しかもいかにも効果的に見せないで、効果を強く出すという文章は、鴎外独特のものであります。(後略)
(三島由紀夫『文章読本』第三章小説の文章より引用。太文字は引用者)
三島由紀夫は森鷗外の『寒山拾得』から次の文章を引用した後に、上のように評しているというわけです。
閭は小女を呼んで、汲みたての水を鉢に入れて来いと命じた。水が来た。僧はそれを受け取って、胸に捧げて、じっと閭を見つめた。清浄な水でもよければ、不潔な水でもいい、湯でも茶でもいいのである。不潔な水でなかったのは、閭がためには勿怪の幸いであった。しばらく見つめているうちに、閭は覚えず精神を僧の捧げている水に集注した。
(太文字は引用者による)
かの森鷗外のかの名作にある一文に感心した、三島由紀夫がその『文章読本』で取り上げた四文字と句点から成るセンテンスが、「水が来た。」だったということなのです。たった四文字ですよ。
これを「春が来た」と比べてみてください。これもたった四文字です。違うのは一文字だけ。
春が来た
たった四文字ですが、日本語を母語としている人、日本で生まれ育った人なら、たいてい知っている例の歌を思い出すのではないでしょうか。
春が来た - Wikipedia
ja.wikipedia.org
水が来た。
春が来た
この二つの差は何なのでしょう。いろいろな感想や意見がありそうです。
みなさん、考えてみませんか。曖昧放置プレイなんて言われそうですが、本心から私はみなさんといっしょに考えてみたいのです。
一つ意見を言わせていただくなら、「水が来た。」は森鷗外という文豪と呼ばれる作家の文章の一部であるこということです。この名前の持つインパクトは大きいです。森鷗外以前にも以後にも「水が来た。」と口にしたり、文字にした人はたくさんいたに違いありません。
一方で、「春が来た」は誰の作詞した歌かは、ウィキペディアの解説を読むまで、私は知りませんでした。正直な話が、もう忘れています。
もう一度ウィキペディアで調べたのですが、作詞者の高野辰之(たかのたつゆき)は、なんと唱歌『ふるさと(故郷)』も作詞したと知ってびっくりしました。以下の記事を書いて、お世話になった人なのに、私はすっかり忘れているのです。
それだけではありません。なんと『春の小川』の作詞者でもあるのです。でも、高野辰之という名前は知りませんでした。しかも、また忘れそうなのです。
※以下の動画では、「(字幕の歌詞に)鼻濁音の発音箇所には赤い色をつけています。」と書かれています。このこだわりに感心しました。なかなか興味深い動画です。というか、私はこういう話が大好きなのです。
名前は魔法の言葉。
ある言葉が〇〇の言葉だと言っただけで、その言葉が違って見える。
〇〇が大作家なら、その言葉は輝いて見える。
〇〇が普通の人なら、その言葉はおそらく輝かない(名前に惑わされない人なら適切な判断ができるかもしれない)。
〇〇が子どもなら、その言葉をないがしろにするかもしれない(自分の子どもとか孫なら「天才だ!」と叫ぶかもしれない)。
名前(固有名詞)は数ある名前(名詞)の一つなのに。
名前という名の魔法の言葉。
言葉は魔法。
有名と無名
有名と無名の違いって何でしょう?
有名と無名は反対語でしょうか? 私はそうは思いません。グラデーションとか程度の差ではないでしょうか。
また、森鷗外と高野辰之というペアを考えると、高野辰之が無名とはとうてい言えません。私が無知なだけなのです(時として、無知は無恥に転じるので気をつけています)。
有名と無名がグラデーションであり程度の差だというのは、たとえば、本の出版を考えてみるとよく分かると思います。
紙の本であれ、電子書籍であれ、本を出したのはいいけど、その後が大変だという話を頻繁に見聞きします。
ある文学賞を取ったばかりの人、何冊も本を出してしかも売れた実績のある人、初めて本を出した人で知名度が低い人、初めて本を出した人で何らかの知名度がある人(たとえば、テレビによく出るタレントとかパティシエ、ある不祥事とかスキャンダルで名が知れている人、政治家、著名な芸術家の娘、母親が往年の女優などなど)とでは、本の売れ方がぜんぜん違うでしょうね。
出版社が宣伝にかける(いわば投資です)お金や熱意も違うはずです。
無名である場合には、本人やその家族が苦労しなければならなくなります。その宣伝が大変なのです。大仕事であり、精神的にも肉体的にも疲れます。とても、よく聞く話です。「もう、本なんて出さない」と嘆く人さえ少なくありません。
この辺については以下の記事が詳しいので、興味のある方はお読みください。
たとえ、大きな賞を獲った人でも宣伝が大変なのは羽田圭介さんがテレビのバラエティや「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」という番組で自分の新刊のタイトルの入ったTシャツを着て登場する姿を見れば、その苦労が一目瞭然です。
テレビ番組の収録には打ち合わせを含めると、かなりの時間がかかると言います。羽田さんはテレビにかかわっている間は執筆ができないのです。でも、露出を高め、本の宣伝をするために、せっせとテレビに出る必要があります。さもないと、高級車を手放さなければならなくなるでしょう。
羽田圭介さんは芥川賞作家ですよ。
いったん手に入れた生活水準を維持するには誰もが苦労すると言えば、それまでなのですけど。めちゃくちゃ、しんどそう。とはいえ、羨ましい気もします。はあ。
有名を維持するのも大変なのですね。勉強になりました。
羽田圭介 - Wikipedia
ja.wikipedia.org
名前を貸す、借りる
羽田圭介さんの芥川賞受賞はラッキーでした。
ピース又吉「じゃない方」の芥川賞受賞者という取り上げられ方をされて、それが結果的に羽田さんの知名度を盛り上げることになったからです。
又吉直樹さんの名前が羽田圭介さんの名前と並ぶことによって、又吉さんは羽田さんに名前を貸す形となったわけです。名前は貸すことで減りません。むしろ増えて返ってきます。
名前の貸し借りには相乗効果があるということです。羽田さんの知名度が上がることで、又吉さんの名前が言及される機会が増え、又吉さんの認知度がさらに高まったと言えるでしょう。
*
芥川賞の正式名称は「芥川龍之介賞」ですね。このように超有名な人物の名前を冠した賞は多いです。「三島由紀夫賞」も「川端康成賞」もあります。
スポーツの世界でもありますね。沢村栄治賞、通称沢村賞が有名ですね。米国ではベーブ・ルース賞(Babe Ruth Award)もあります。KOSUKE KITAJIMA CUP(北島康介杯)も知られるようになってきました。
KOSUKE KITAJIMA CUP 2021
KOSUKE KITAJIMA CUP 2021 が東京辰巳国際水泳場で開催されました。(1/22~24)オリ…
tokyo-swim.org
ある分野で多大な功績のあった人の名前から力をもらうということです。
このように名前には力があり、その力は他の名前にも影響をおよぼす。素晴らしいことですね。
名前は魔法の言葉。
名前に魔法の力があるのなら、それを活用する方法もあるに違いありません。
有名もいろいろ、無名もいろいろ
人生いろいろ。
有名もいろいろ。
無名もいろいろ。
有名と無名は反対語というよりグラデーション。
超有名もいればそこそこ有名もいるし、忘れ去られた元有名もいる。あの人は今どこに?
まったくの無名もいればそこそこ無名もいるし、地道に露出を高め、その名が一部から徐々に広がりつつある無名もいる。
ある事件によって一夜にして有名になった人もいる。その人に本を書かせようとする出版社もある。そういう本を専門にしているゴーストライターもいる。
「有名な」に当たる英語には、famous(いい意味で有名な)と notorious (悪名高い)がある。
今日の有名は明日の無名。
今日の無名は明日の有名。
名前という名の魔法の言葉。
言葉という名の魔法。
言葉は魔法。
*
noteでも有名と無名がありますね。ネット上のある界隈で名が知れているという現象はよく目にします。
noteである程度長く活動していて(途中でアカウントを削除して消えたりしたら駄目です 汗)、フォロワーとスキの獲得にも日々地道に努力していると、noteで多くの人に名前(ユーザーネーム)が知られるようになります。
そういう人が過去のある記事をそのまま再投稿すると、スキの数がぜんぜん違う、つまり増えるのでびっくりする。この種の話はよく聞きます。それはそうでしょう。以前と現在では、土俵が違うのです。格が違うのです。
なぜでしょう?
多くの人に名前が知られているからです。つまり、有名になっているからに他なりません。ただし「noteにおいて」という限定があっての話です。
note内で名前が知られると、影響力も増します。その人の発言がいい意味でも悪い意味でもnoteで大きなインパクトを持つということですね。
提案します。
つい先日のことなのですが、私がnoteを始めて以来仲良くしていただいているゼロの紙さんと、コメント欄で「立ち話」をしました。「ジグソーパズルの欠片のように」というゼロの紙さんがリライトした素晴らしい作品について、私が次のコメントを書いたのです(ゼロさんの許可を得て、以下に引用します)。
リライト前もリライト後も、それぞれが捨てがたくて素敵な作品だと思います。
*
ところで、自分が再投稿や加筆ばかりしているということもありますが、私はリライト、リメイク、リフォーム、そのまんま再投稿、大賛成派です。
毎日新作で投稿はしんどすぎますよ。
長くnoteにいるといい作品が埋もれます。またフォロワーさんが増えてユーザーネームの認知度が高くなってからと、その前とでは、人の見る目(読む目)も変わります。
noteで有名人になると、どのような記事でも人は読んでくれるという意味です。
プロの有名人でもそうです。ある文が、これは〇〇(有名作家)が書いたものだと言われて読むのと、△△(無名のアマ)の作だと言われて読むのとは、正直言って印象がぜんぜん違います。
名前は魔法の言葉だからです。
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話を戻しますが、ゼロさん級のnoterさんが率先してリライトをすれば、「そうか、私もやってみよう」と思うに違いありません。
ゼロさん、「リライト&再投稿しよう宣言」をしてくださいませんか。ゼロさんの影響力は大ですから。
毎日(または毎回)新しい記事を書くのは大変ですね。
どうでしょう?
みなさんも、再投稿やリライトをして、過去の自分の作品を見直したり、復活させてみませんか?
加筆や書き直しをすると力がつきますよ。前には気づかなかったことも気づくでしょう。
自分の作品や自分で書いた文章は大切でかわいいものだ、と誰もが思うのではないでしょうか。せっかく書いたのに日の目を見ないような形になっている記事があったら、手を加えてもう一度チャンスを与えてやる。そうすれば文章も喜ぶに違いありません。
告白します。
この記事を書きながら、実はみなさんに話そうかどうか迷っていたことがあるのです。最後になりましたが、このまま黙っていると良心が許さないので告白します。
サラダが来た。松長は真っ先にオリーブをフォークで刺して口に運んだ。最後に食べようか、それとも結局は残そうかと、わたしが考えていたものだ。松長はオリーブをかみ終えてから言った。
「おいしいオリーブを食べさせてくれる店は少ないんだ。ここのは合格です」
(小説『【小説】 ディスタンス ―弟へのレクイエム― 』「第10話 隔たり」より引用)
上の文の冒頭をご覧ください。
「サラダが運ばれて来た。」とか「ウェイターがサラダを運んで来た。」としてもいいところなのに、「サラダが来た。」としているのは、鷗外の例の「水が来た。」を意識してのことだったのです。
続くセンテンスに「運んだ」が来るから重複を避けたなんていう、気の利いた理由はありません。書いた本人が告白しているのですから本当です。
若い頃に三島由紀夫経由でこの文を知って感心し、いつか自分の小説で使ってやろうとずっと考えていて、ついに実行したという経緯があります。使った時には、「やった!」と一人で喝采したのを覚えております。
以上、あえて恥を忍んで告白しました。
はあ。
白状するとすっきりしました。今夜はよく眠れそうです。
【※この記事は「言葉は魔法」というマガジンに収めます。】
*ヘッダーにはメザニンさんのイラストをお借りしました。
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