音の名前、文字の名前、捨てられた名前たち(言葉は魔法・第13回)
星野廉
2021/05/18 08:04
目次
アート・ガーファンクルの口
SMLと揃いました
ナボコフについて
口は楽器である
Lの誘惑
音の名前
文字の名前
【掌編小説】捨てられた名前たち
アート・ガーファンクルの口
アート・ガーファンクルは歌う時に大きな口を開けます。そもそも口が大きい人なのに、舌の動きまでがよく分かるほど大きく開けるのです。見ないわけにはいきません。私なんかは、歌そっちのけで唇、舌、歯、そして口蓋に見入ってしまうことがあります。
口蓋と書きましたが、「こうがい」と読みますね。ふだんはあまり見かけない言葉だと思います。中にはこの言葉を使わずに一生を終える方もいらっしゃるにちがいありません。ちなみに、私はこの言葉を鉛筆やペンで書いたことはありません。書かずに一生を終えるという予感があります。
口を大きく開けると奥にのどちんこ――ごめんなさい、どきっとする言葉ですね、ウィキペディアの「口蓋」の解説に使ってあるので使いました、写真も載っていますよ――が見えますが、上の歯とのどちんこまでの辺りのことです。つまり舌の上の部分です。
名曲 Bridge over Troubled Water では、以下の動画がいちばん好きです。口の動きに見とれることができるし、とくにこの野外コンサート(Live at Central Park, New York, NY - September 19, 1981)では何曲も歌う間にだんだん日が暮れていき、観客たちの顔も次第に見えなくなり、ガーファンクルは球場のマウントにひとり立たされた投手のような孤独を味わっているにちがいない、なんて想像してしまいます。
Bridge over Troubled Water(明日に架ける橋)(Live at Central Park, New York, NY - September 19, 1981)
ひとりでスポットライトを浴びているガーファンクルの目の表情も見逃せません。ライトを反射して瞳が光っているのですが、大会場でビビっているような不安そうな色が、その目に浮かぶ瞬間があります。大観衆を前にした緊張と孤独感から来るのでしょうか。ときおり目線が泳ぐところも素の感情が漏れ出たように感じられ、ぞくっと来ます。
また、若いがゆえの表情を楽しめます。不安を打ち消そうとするような、不敵な笑み(1:37あたりに注目)――。こうなるともう妄想ですね。おまえ、勝手に妄想していろ、という感じでしょうが、お付き合いください。
見どころおよび聞きどころは、Like a bridge over troubled water I will lay me down(1:05 あたり)と Like a bridge over troubled water I will ease your mind ( 2:25 と 3:48 あたり)というサビの部分の口の動きです。 詳しく見ていきましょう。
*
*Like a :
L の舌先が口蓋に触れます。学校で習ったとおりです。i (アイ)ははっきり発音されます。little を正確に発音すると分かりますが、単語の冒頭に来る l と最後に来る l は微妙に異なり、冒頭の l は舌先を上の歯の後ろにくっつけるように、最後や途中に来る l では舌先が口蓋の真ん中あたりに来ます。後者の場合には、口蓋にガムが張りついていて、それを剥がそうとする感じで息を吐くと「おー」みたいな深くこもった音になります。
したがって、little は「リロ」みたいに発音されます。apple が「アポ」に聞こえるのと同じです。「リトル」でも「アプル」でもありません。また、アルファベットのLは「エル」ではぜんぜんなくて「エオ」みたいに響きますね。要は舌先が口蓋の歯の近くではなく真ん中についていればいいのです。
単語の最初に来る l を意識的にゆっくり発音すると、ウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ』の冒頭を思い出さずにはいられません。
Lolita, light of my life, fire in my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta: the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap, at three, on the teeth. Lo . Lee. Ta.
(太文字は引用者による)
ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。
(『ロリータ』ウラジーミル・ナボコフ著・若島正訳・新潮文庫)
上で引用した原文に施した太文字の L と T をご覧ください。L と T は基本的に舌先が同じ位置にあり、T では上の歯のすぐ後ろにある口蓋を舌先が叩くというか弾くようにして発音されます。舌打ちにも近いです。ナボコフはそれを十分に意識しています。ナボコフの L という子音に対する入れこみようは尋常でありません。L フェチと言ってもお墓の下のナボコフさんは腹を立てないのではないでしょうか。
*
SMLと揃いました
では、この辺でまとめましょう。
谷崎はMですね。健康かつ元気でかまってちゃんな女性に振り回されるのを喜んでいます。たとえば『痴人の愛』、『鍵』、『瘋癲老人日記』を読むとよく分かります。
(中略)
川端はSだという気がします。かなり自己中で強引で有無を言わせないところがありますよね(『みずうみ(みづうみ)』ではストーカーまでします)。
(中略)
乱歩はたぶんかなり偏ったMでしょう。Mというだけでは済まされないという意味です。乱歩は変化球をばんばん投げましたよね。奇想とも言います。これでもかこれでもかという具合に。あれはすごいです。Mというより、M寄りのH(辞書に載っているHという意味です)と言うべきかもしれません。
(拙文「S、M、そしてM寄りのH(言葉は魔法・第11回)」より引用)
これでSML(そしてH)と揃いました。めでたしめでたし。
こういう様式美が好きなのです。とはいえ、Hは余分だなんて思いません。
ナボコフについて
冗談はさておき、若島正さんによる新訳が新潮文庫で読めるのはうれしいです。この訳書は注がいいですね。大江健三郎による解説もなかなか読ませます。大江健三郎が上の訳書で解説を書いた背景には、大江が著わした『美しいアナベル・リイ』があります。
新潮文庫 ロリータ
「ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。…」世界文学の最高傑作と呼ばれながら、ここまで誤解多き作
www.kinokuniya.co.jp
*
ウラジーミル・ナボコフ - Wikipedia
ja.wikipedia.org
個人的には、ウィキペディアの解説によるナボコフの経歴が小説のようで面白く読めます。
『ロリータ』のオリジナルとされる作品に『ローラのオリジナル』がありますが、Lolita と Laura ですから、l ×2+t 対 l ×1 でロリータの勝ちですね。
小説『ロリータ』とその映画作品などの資料としては、ウィキペディアの解説が便利だと思います。とくに「関連項目」に興味のある方が多いのではないでしょうか。
ロリータ - Wikipedia
ja.wikipedia.org
*
ナボコフについて、もう少し話させてください。
ヨーロッパの諸言語に精通していたナボコフがヨーロッパ文学について論じた『ナボコフの文学講義』はかつて小笠原豊樹訳の単行本で持っていました。作品をその原語で読んでいただけでなく、実作者ならではの洞察にあふれる論考はこれでもかと言うくらい説得力があり、わくわくしながら読んだのを覚えています。現在は野島秀勝の新訳が出ていますが、信頼できる名訳にちがいありません。
『ロリータ』の作者というイメージだけをお持ちのお方はぜひ、こちらを読んでイメージを一新させてください。これだけ広範囲にしかも深く読んでいたナボコフに古き良きヨーロッパの文化人的教養を見せつけられた思いがしました。母語に加えて周辺の諸語に通じていて、文芸作品を原文で読みこなせるという意味での教養です。
河出文庫 ナボコフの文学講義〈上〉
世界文学を代表する巨匠にして、小説読みの達人ナボコフによるヨーロッパ文学講義録。なにより細部にこだわり、未踏の新しい世界と
www.kinokuniya.co.jp
河出文庫 ナボコフの文学講義〈下〉
二〇世紀の世界文学を代表する巨匠にして、稀代の小説読みによる文学講義録。時には図解を多用しながら、緻密に読み解いてゆく。下
www.kinokuniya.co.jp
そうしたナボコフの文芸批評には、多言語をこなして批評活動をおこなっていたジョージ・スタイナーと似たテイストを感じます。スタイナーの『言語と沈黙』は、原書と隣り合わせにして書棚にまだあります。いつかぱらぱらとめくってみようとかと考えています。由良君美が監修した、豪華な訳者陣による訳業です。
言語と沈黙—言語・文学・非人間的なるものについて
電子書籍ストアKinoppy、本や雑誌やコミックのお求めは、紀伊國屋書店ウェブストア! 1927年創業で全国主要都市や海外
www.kinokuniya.co.jp
ナボコフやスタイナーのような広い「教養」を備えた作家や批評家は、もういないのでしょうか。勉強不足で最近の動向については知りません。
スタイナーのことを考えていて、エーリヒ・アウエルバッハの『ミメーシス』を思い出しました。この本はすごかったです。手元に残してしないのが悔やまれます。下の書籍データにある目次を見ていて、改めてこの本の偉大さを痛感しました。断片的な記憶がよみがえりわくわくしてきました。
かつて大学生だった私にこの本の存在を教えてくださった高山宏先生は、「翻訳でもいいんだけど、ぜひ英訳で読んで欲しいなあ」と盛んにおっしゃっていたのを思い出します。
ミメーシス (アウエルバッハ) - Wikipedia
ja.wikipedia.org
筑摩書房 ミメーシス (上) / E・アウエルバッハ 著, 篠田 一士 著, 川村 二郎 著
筑摩書房のウェブサイト。新刊案内、書籍検索、各種の連載エッセイ、主催イベントや文学賞の案内。
www.chikumashobo.co.jp
筑摩書房 ミメーシス (下) / E・アウエルバッハ 著, 篠田 一士 著, 川村 二郎 著
筑摩書房のウェブサイト。新刊案内、書籍検索、各種の連載エッセイ、主催イベントや文学賞の案内。
www.chikumashobo.co.jp
*
口は楽器である
では、話を戻します。
*bridge :
b で一瞬唇が閉じます。r の発音では l のように、舌の先が上の歯の後ろにくっつかないように気をつけましょう。「ブウィッチ」みたいに発音するのがコツですね。
*over:
v の音では、ちゃんと下唇が上の歯に触れます。f もそうですね。学校で習ったとおりです。ガーファンクルが教科書どおりの口の動きを見せてくれるとうれしくなります。ほー、やっぱりね、なんて。
*troubled:
ここにも r があるので、「トラ」というより「トワ」と発音すると舌の先が上の歯の後ろにくっつきません。この l は子音ですが語の最初ではなく途中に来るので、「お」という母音に近いです。ややこしいので、さきほどの説明を以下に引用します。
<(……)little を正確に発音すると分かりますが、単語の冒頭に来る l と最後に来る l は微妙に異なり、冒頭の l は舌先を上の歯の後ろにくっつけるように、最後や途中に来る l では舌先が口蓋の真ん中あたりに来ます。後者の場合には、口蓋にガムが張りついていて、それを剥がそうとする感じで息を吐くと「おー」みたいな深くこもった音になります。>
したがって、little は「リロ」みたいに発音されます。apple が「アポ」に聞こえるのと同じです。「リトル」でも「アプル」でもありません。
つまり、「とわぼ」みたいに発音されるわけですね。最後の d は t と同じく舌先が l のように上の歯の後ろに来ますが、その位置に舌先が来て軽く叩くというか弾くだけで、ほとんど聞こえないはずです。無理に音を出さなくてもいいということですね。
*water:
w は母音の u と同様に、英語では深く喉の奥から出す音になります。何しろ、「ダブリュー」は「ダブル・ユー」ですから、本来は同じ音みたいです。
ちなみに、フランス語でWは「ドゥブルヴェ」みたいに発音して、Vがダブル、つまり二つあるという意味になります。英語では今説明したように「ダブリュー」は「ダブル・ユー」でUが二つという意味です。で、UとVは昔々同じだったらしいのです。
したがって、例のBVLGARI(ブルガリ)はBULGARIであり、その表記に矛盾はないということになります。脱線して、ごめんなさい。
話を戻します。
日本語では口をあまり開けずにしゃべりますが、英語の w や u では、日本語の「う」よりは思い切り唇をすぼめて上下に引っ張るようにするとうまく音が出るようです。ガーファンクルの口の動きを真似ましょう。発音練習には最高の先生だと思います。口が大きいのがこの人の取り柄です。
*I will lay me down:
この三つの単語は意識的に連続して発音するように心がけるときれいに音が出るのではないでしょうか。I'll lay という具合に、w は省いてもいいように思います。me では口を左右に思い切り引いて「イー」と、そして down の「アウ」もめりはりをつけて、母音を強く発音するのがコツみたいです。n では、日本語の口を閉じた「ん」にならないように、舌先を上の歯のちょっと奥の口蓋につけて口を閉じないように締めくくりましょう。
*I will ease your mind:
この動画では、こちらのほうがよく見えます。とくに最後の声を上げて熱唱する部分では ease の「イー」ではうんと口を左右に引き、 mind の「アイ」では大きく口を開け、ガーファンクル先生の口の動きそっくりに真似て発音してみましょう。will と your は弱く発音されるので注意してください。
「あい、うぃ、リージョ、まい、n d」という感じでしょうか。典型的な英詩の強弱強弱のリズムですね。n と d は舌先の位置だけ正確にして構えて、音は出さないほうが自然に聞こえると思います。
以上は、難聴の私が勘を働かせながら必死に動画を見た結果ですので、間違っていたらごめんなさい。あくまでも、個人の感想であり意見です。
*
アート・ガーファンクルの歌い方を見ていると、つくづく口は楽器だと思います。上下の唇、舌、口蓋、歯に注目し観察しながら、ぜひ上の動画を見てみてください。いちばんいいのは、口の動きを真似ながら歌うことです。自分が口になったような気分が味わえますよ。
唇、舌、口蓋、歯の動きや位置を意識して真似るのです。何だかエロいことをしているような感覚になればしめたものです。そうなのです。口は性器でもあるのです。変なことを言ってごめんなさい。でも、冗談ではないのです。
ジークムント・フロイトとかジャック・ラカンとか精神分析学とかジル・ドゥルーズについての本を斜め読みすると(私には精読は無理です)、人が性器だけで性行為をするものでもないことや、性と生が密接に結びついていることや、全身が性感帯であり生感帯であることが分かるし、生まれたばかりの赤ん坊が唇や舌で世界を感知し触れ合う行為の深い意味について学べるでしょう。
簡単な例を挙げます。赤ちゃんのおしゃぶり、唇に触れる癖、思わず唇を噛む仕草、無意識あるいは意識的に唇を舐める仕草、広告写真における唇の氾濫、軽く口を開けている人間の無防備な魅力、歯医者で欲情するという告白、女性の口紅、男女を問わず存在する喫煙という風習、とくに男性に見られるパイプへの偏愛……。こう列挙すると何かいやらしくないですか?
上述の小難しいそうな固有名詞を出さなくても、意識的にゆっくり言葉を音として発することで、ぞくぞくわくわくどきどきを楽しむことができるし、たとえばその行為によって発汗をはじめとする生理現象が起こることを確認できるのです。
*
Lの誘惑
さきほどの引用を繰り返します。
Lolita, light of my life, fire in my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta: the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap, at three, on the teeth. Lo . Lee. Ta.
(太文字は引用者による)
ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。
(『ロリータ』ウラジーミル・ナボコフ著・若島正訳・新潮文庫)
原文を日本語に移しかえることは不可能だと思いませんか? あの L と、L と親戚みたいな T の連続のエロさ。ガーファンクルの口を思い出してください。唇、舌、口蓋、歯の動きと位置を思い浮かべて、ご自分でも、ナボコフの Lolita という小説の冒頭を音読してみてください。
ゆっくりと(slowly)、唇(lips)、舌(tongue)、口蓋(palate)、歯(teeth)の動き(movement)と位置(position)を意識しながら……。
英語では tongue(舌)と言語(language)はきょうだいです。両方とも、舌という意味の古い言葉から出てきた単語で、tongue には言語という意味もあります。「母語」は英語では mother tongue とか native tongue とか native language と言いますね。
L と T は音的に近いのです。lot と tot を発音してみましょう。L も T も、発音する時には、舌先が上の歯の後ろの口蓋に来ますよね。発音の要領を確認したところで、Lolita と発音してみましょう。
繰り返しになりますが、L と T は基本的に舌先が同じ位置にあり、T では上の歯のすぐ後ろにある口蓋を舌先が叩くというか弾くようにして発音されます。舌打ちにも近いです。ナボコフはそれを十分に意識しています。ナボコフの L という子音に対する入れこみようは尋常でありません。L フェチと言ってもお墓の下のナボコフさんは腹を立てないのではないでしょうか。
Lの誘惑。これです。
ナボコフは、Lに誘惑され取り憑かれた人のように感じられます。Lolita という名前より、Lに取り憑かれている気がします。あの小説の冒頭のように l をばらばらしているからです。つまり、Lolita をばらばらにするのです。
Lolita ⇒ Lo-lee-ta ⇒ Lo . Lee. Ta.
ロリータ ⇒ ロ・リー・タ。 ⇒ ロ。リー。タ。
こう、解体はエスカレートしていきます(若島正氏の訳文にも工夫が見られますね)。これにエロスを感じないなんてあり得ないし、だいいちもったいないです。いやしくも文芸作品の冒頭にある言葉を読むとは、このエスカレーションに乗ることなのです。Lの誘惑に身を任せることなのです。
ウィキペディアの解説によると、英語圏では Vladimir Nabokov と表記される ウラジーミル・ナボコフのフルネームは Владимир Владимирович Набоков だそうです。英語式には、Vladimir Vladimirovich Nabokov ですから、l が二つあります。浅はかな私は、ナボコフも感慨無量だったろうなどと妄想してしまいます。
◆
音の名前
ついでにさらに妄想させていただきますが、ヨーロッパの諸言語においては、人名は綴りではなく音ではないでしょうか。Lolita という音に並々ならぬこだわりを示し愛情を注いだナボコフの例から察するに、まず音(発音・発声)があって、どのようにアルファベット(ラテン文字)で綴るかは二の次だと思えてなりません。
「初めに言葉ありき」の言葉は音なのです(※諸説あります)。この辺については、ややこしい事情があるので、私の妄想と言うことにしておきます。その「ややこしい事情」について興味のある方は、以下のウェブサイトでお勉強なさってください。
ロゴス中心主義とは - コトバンク
日本大百科全書(ニッポニカ) - ロゴス中心主義の用語解説 - フランスの哲学者デリダの初期の著作における用語。音声(フォ
kotobank.jp
ロゴス中心主義 - Wikipedia
ja.wikipedia.org
◆
文字の名前
一方、日本(日本語)において人名は、音(発音・発声)だけでなく、あるいはそれ以上に文字であり表記であるという気がします。
ややこしい話なので、動画を利用して感覚的に説明しますね。
まず、生まれてまもない赤ちゃんにとって、自分という意識はあまりないとか、ほとんどないという説があります。まわりの世界と自分が未分化の状態にあるという考え方です。これに従うと、赤ちゃんにその名前で呼びかけても「は?」という感じであり、それが自分を指す音である、まして言葉であるとは「まだ」感じられないということになります。
一つ確かなのは、お乳を与えてくれる存在と、その人を含むまわりの人びとの笑顔には反応することです。お乳をもらった代価として「ほほえみ」を返すわけです。ギブ・アンド・テイクとか、文化人類学的な意味での交換(贈与・交換・分配のうちの交換です)みたいなイメージで考えましょう。
贈与論 - Wikipedia
ja.wikipedia.org
贈与(文化人類学)とは - コトバンク
日本大百科全書(ニッポニカ) - 贈与(文化人類学)の用語解説 - 一般に、人に物品を無償で与えることを意味する。人に物品
kotobank.jp
*
以下の「こんにちは赤ちゃん」の歌詞ではほとんどが大和言葉であるにもかかわらず、「ママ」が使われているのは注目していいと思います。ママとは「まんま」つまりご飯であり、赤ちゃんにとってはお乳なのです。ママが父になるなんて駄洒落は、たとえ言いたくても言いません。書きましたけど。
その代わりに駄洒落を続けると、ママとママル(哺乳類を意味する英語のmammal)は似てません? その mammal の語源は「乳房の」らしいのです。ママは乳房である、なんて強引にくっつけちゃいます。
わたしがママよ
赤ちゃんにとっては「とりあえず」乳房がすべてなのです。おお、ママ。すごいじゃないですか、永六輔さんは大和言葉の扱いにおける天才じゃないかと常々思っているのですが、ここで確信しました。この歌詞を読んでいると、赤ちゃんの笑顔や泣き声やつぶらな瞳と、ママのお乳とが交換される関係にあることが一目瞭然で分かります。
こんにちは赤ちゃん 梓みちよ 作詞・永六輔 作曲・中村八大
*
さて、赤ちゃんがもう少し大きくなって幼児になると、自分とまわりの世界を別物として認識するみたいです。そして、まわりの人が自分を指して口にする名前の存在と、名前と自分の関係を理解するみたいなのです。
ただし、名前という音(発声)に文字が対応していることや、その音に「自分」以外の意味があり、文字にも「自分」以外の意味があることは、まだ分かっていないと考えられます。
「サッちゃん」が本当は「サチコ」であると歌っていますが、「サチコ」には漢字が当てられている可能性は高いでしょう。ひらがなやカタカナに加えて漢字について理解するまでには、もう少し時間がかかりそうです。
サッちゃん 作詞・阪田寛夫 作曲・大中恩
自分のことをサッちゃんと呼んでいるとは、サッちゃんが「わたし」という一人称単数の人称代名詞でもあるということです。こういう時期がひとさまよりずっと長かった私には感慨深いものがあります。
「私」を省く
小学生になっても自分のことを「僕」とは言えない子でした。母親はそうとう心配したようですが、それを薄々感じながらも——いや
norenwake.blogspot.com
*
上のサッちゃんとは無関係なのですが、ばんばひろふみさんが歌う「SACHIKO」の歌詞を読むと「幸子」という表記だと分かります。
幸せを数えたら ……
不幸せを数えたら ……
泣けますね。名曲だと思います。
↓こちらのほうが音がいいです。これを見ていて思ったのですが、ばんばさんもお口が大きいですね。見入ってしまいます。この動画では表情も優しそうでなかなかいい。
SACHIKO ばんばひろふみ 作詞・小泉長一郎 作曲・馬場章幸 編曲・大村雅朗
大きくなった幸子さんは、「さちこ」であり「サチコ」であり、「SACHIKO」であり「幸子」であるわけです。こんなことは、日本語だけですよ。表記のことです。
日本(日本語)において人名は、音(発音・発声)だけでなく、あるいはそれ以上に文字であり表記であるという気がします。
◆
【掌編小説】捨てられた名前たち
母の遺品の一つに小さな手帳がある。これだけは捨てられない。
手帳を残しておいたのには理由がある。私の名前がいくつも書かれているからだ。正確に言うと、私が生まれる前に考えられていた私の名前の案である。私につけられるはずだった名前が、何ページにもわたって三十くらい記されている。
旧姓、つまり父の苗字に続けて書かれている名もあれば、苗字なしのものもある。男の名がほぼ三分の二、女名は三分の一の割合だ。父の名から漢字を一字とったものもいくつかある。私の名前と一字同じものもある。
母の名から取られた名が見当たらない。気になったので丹念に探してみたが、やはり無い。古風だとかいう理由で、母が自分の名前を嫌いだと言っていたことを思い出した。
名前を書き付けていた時に母は妊娠していたのだ、と今更ながら気づく。自分の迂闊さにあきれる。結婚をしたこともなければ子を持った経験もないにしても、鈍すぎる。
表紙の裏に母の名前に加えて母の実家の住所が記されていることから、母の個人的な持ち物であったことははっきりしている。私物の手帳に複数の名前を書いていれば、持ち主の女性が妊娠していたと考えるのが普通の人間なのだ。
あらためて考える。妊娠していた母。そのお腹の中にいた自分。頭では分かるのだが、ぴんと来ない。その思いに自分がついて行けない。考えたことがないからだ。想像したこともないからだ。私にはそうしたいい加減なところがある。抜けているのだ。
協議離婚が成立し、母と私が父の姓から母の旧姓に変わったのは、私が五歳の時だった。事業に失敗し、借金をつくった父は妻子を置き去りにし、隣県のN市に逃れていた。母と私は母子寮にいた。熱心な寮母が、父の居所をつきとめ、離婚の手続に必要な書類に書名捺印させ郵送させた。父は私の親権を放棄して母に渡すことを、最初は拒んだという。そんな経緯を母から聞いた覚えがある。
小学校に上がる年、母から自分の氏名を書く練習をさせられた。正式に字を書くのは初めての経験だったと思う。ひらがなと漢字の両方を何度も書かされた。母の真剣な表情が怖くて緊張した。緊張するために、うまく書けない。書いてもすぐ忘れる。すぐに忘れる自分に苛立ち、不安にも感じた。それは母の感情そのものだったにちがいない。ふたりだけの家庭。ふたりの関係は濃密なものだった。
入学式が近づいたある日、母が名札に毛筆で名前を書いてくれた。その時、緊張した面差しで筆を運んでいた母の様子をぼんやりと覚えている。硯で墨をするさいの涼しげな匂いが、かすかに鼻を突いて心地よかった。
新聞紙か折り込み広告の上に何度か下書きをした母が、ようやく清書し、私の左胸に安全ピンで名札をつけてくれた。私は喜んで鏡の前に立った。私は声を上げた。奇妙な虫が名札にへばりついていた。真っ黒でくねくねした虫だった。その様子を見ていた母が笑った。鏡に映った物が左右に見えることを、私は知らなかったのである。文字を鏡像として見て、初めて鏡の性質に気づいたらしい。
今、私は母の手帳に書かれた名前の羅列をながめている。同じ姓を冠して並んでいる名前たち。男名。女名。苗字なしで列をなしている名前たち。これまで見聞きした名前の記憶が連想を呼ぶのか、それぞれの名前を見ているとぼんやりと顔が浮かんでくる。どれもが懐かしい。
女性の名にはひらがなだけのものもある。「――子」というふうに、ひらがなの下に漢字が添えられている名もある。男名は漢字のものばかりだ。私の名と漢字で一字違いの名がある。結局は、捨てられた名前たち。みんな、どこかで生きている気がする。
【※この記事は「言葉は魔法」というマガジンに収めます。】
*ヘッダーにはメザニンさんのイラストをお借りしました。
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