この詩は間違っている?(言葉は魔法・第2回)
2021/04/17 07:52
灰谷健次郎の小説に『日曜日の反逆』という短編があります。
国道で「ヒッチハイクの合図」をしていた少年を、男は車で目的地に送り届ける。その前の日曜日にも同じことがあった。自分については曖昧な話しかしない少年は、息子が飛び降り自殺をしたという男の話を聞いて「嘘だろ」と言う。日曜日ごとに少年と約束した場所に車をとめて、少年を待つようになる男。少年に「虚言癖」があると男は決めつけるものの、放ってはおけない。一向に約束の場所に姿を見せない少年が以前口にした言葉を思い出し、男は少年の「領分をおかす」。
こんなふうに物語は進行するのですが、互いの素性を知らない男と少年が腹の探り合いをする過程で、二人がそれぞれどんな背景を持つどんな性格の人間なのかが読み手には不明になります。作中人物が謎をかかえると同時に、作品の外にいる読む人もサスペンス状態に置かれるわけですね。
この人はいったい何ものなのか? 何を考えているのか? 相手の腹をさぐる二人の作中人物のキャラクターの揺らぎが、多面体であるプリズムのきらめきのように感じられてわくわくします。
濃密な人間関係を描いた小説が苦手なために、見知らぬ者同士が出会って短時間の交流の後に別れるというストーリーに惹かれる自分がいます。そんな出会いを繰り返す人生を送ってきたからかもしれません。というか、そういうある意味で刹那的な人間関係しか、ぴんと来ないのです。
『日曜日の反逆』は大きく二つに分かれます。前半が謎の提起で、後半は謎解きという様相を呈するのです。後半では、男が少年の学校をつきとめ、担任の教師と連絡が取れます。そこからの展開ですが、男は少年に手紙は書くし、少年から返事がとどくという具合に、個人的には興ざめしてしまいます(謎は謎のままで楽しみたいのです)。
少年からの手紙にはクラスの文集が添えられていて、それには少年の詩も収められている。文集にあるクラスメートたちや担任教師の文章から、男は少年の性格をはじめ背景や家庭を推測していく。文集から男が読み取ったという形で興味深い少年像が浮かびあがる。ここで、クラスメートの詩について少年が「批評」したというエピソードが出てくるのだが、これが興味深い。
この詩は、間違っている。常体(だ・である調)と敬体(です・ます調)を同時に使っているから間違っている――。そんな発言をして担任の教師を驚かせたというのだ。「そういうことをいいそうな子だ」と男は思う、というこの箇所を読むと、感心している中年男のでれでれした笑みが頭に浮かぶようで苦笑してしまう。
少年をめぐる謎が解かれていく(とはいえ、深い心の謎は曖昧なまま)この短編の後半の展開に「異議申し立て」をしたくなります。アルベール・カミュの『異邦人』の後半つまり裁判の出てくる第二部がなければよかったのに、と思うのと同じです。
それはさておき、常体と敬体を同時に使っている詩は間違っているという少年の見解には――もちろんこれはフィクションの登場人物の見解なのですが――複雑な思いをいだきました。本日のこの記事を書こうとして、ささやかな反逆(大人げないですね)というか、ある「実験」をしてみようという気にもなりました。お気づきになりましたか。どうお感じになりましたでしょうか。間違っていますか。
※「実験」が何かの種明かしは後でします。
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※この作品は『少年の眼』川本三郎選・日本ペンクラブ編(光文社文庫)に収められています。絶版のようで残念です。
少年の眼 : 大人になる前の物語 - Webcat Plus
Webcat Plus: 少年の眼 : 大人になる前の物語, 藤沢周平、灰谷健次郎、村上春樹、ビートたけしらが描く「失われ
webcatplus-equal.nii.ac.jp
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さて、さきほど述べた「実験」が何だったのか、種明かしをします。お気づきになった方もいらっしゃると思いますが、上の文章は「常体(だ・である調)と敬体(です・ます調)を同時に使っている」のです。
とはいうものの、同じ段落で常体と敬体を使うことは避けています。いわば、けじめはつけているわけです。また敬体は作品のあらすじを述べる箇所だけで用いて、他の部分は敬体で書いてあります。それが違和感をやわらげる役割を果たしているかもしれません。
もちろん、二つの文体が混じっているのがとても気になったという方もいらっしゃるでしょう。
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ところで、実験ではないのですが、上の文章にはもう一つ特徴があります。じらすのはやめて、それが何なのかを言いますと、一人称の人称代名詞を意識的に省いているのです。つまり「私」が使ってありません。
これも違和感につながる可能性が高いです。一箇所だけ「自分」を使いました。
濃密な人間関係を描いた小説が苦手なために、見知らぬ者同士が出会って短時間の交流の後に別れるというストーリーに惹かれる自分がいます。そんな出会いを繰り返す人生を送ってきたからかもしれません。というか、そういうある意味で刹那的な人間関係しか、ぴんと来ないのです。
特殊ともいえる個人的な来歴にもとづいた意見を述べている箇所ですね。この文脈なら「私」を使ってもかまわないというか、積極的に「私」を使っていい部分だという見解もあると思います。でも、使っていません。それが癖なのですが、ただ頑固なだけなのかもしれません。
とはいえ、常にこういう書き方をするわけではなく、その時々で変わります。大切なのは、日本語は主語や人称代名詞が省ける珍しい言語だということです。
主語がないという言い方もできますが、個人的には、主語が隠れていると考えています。いずれにせよ、不思議だし面白いですね。
「私」を省く
小学生になっても自分のことを「僕」とは言えない子でした。母親はそうとう心配したようですが、それを薄々感じながらも——いや
norenwake.blogspot.com
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(前略)この文章はまったく漢文的教養の上に成り立った、簡潔で清浄な文章でなんの修飾もありません。私がなかんずく感心するのが、「水が来た」という一句であります。この「水が来た」という一句は、全く漢文と同じ手法で「水来ル」というような表現と同じことである。しかし鴎外の文章のほんとうの味はこういうところにあるので、これが一般の時代物作家であると、閭が小女に命じて汲みたての水を鉢に入れてこいと命ずる。その水がくるところで、決して「水が来た」とは書かない。まして文学的素人にはこういう文章は書けない。このような現実を残酷なほど冷静に裁断して、よけいなものをぜんぶ剥ぎ取り、しかもいかにも効果的に見せないで、効果を強く出すという文章は、鴎外独特のものであります。(後略)
(三島由紀夫『文章読本』第三章小説の文章より引用。太文字は引用者)
三島由紀夫の『文章読本』は全体が敬体で書かれています。それなのに、上で引用した部分では常体が混じっているのは、なぜか。森鴎外の小説『寒山拾得』の一節について触れながら、鴎外の文体の特徴をいわば変則的な箇条書きの形で列挙する。同時に三島の見解も並行して述べる。そうした事情があって取られた措置ではないだろうか。そんなふうに考えています。
PC脇にはいつも三島の『文章読本』を置いているのですが、他人の文章について鋭い洞察力で明晰に語るその筆致は見事で、敬体での作文で行き詰まった際に参照してインスピレーションや打開のヒントを得ています。
話が飛び逸脱だらけの散漫な文章を書く者にとって、この本はブレーキをかけてくれる厳しく頼もしい先生なのです。その割にはふらふらしていますけど。
【※この記事は「言葉は魔法」というマガジンに収めます。】
*ヘッダーにはメザニンさんのイラストをお借りしました。
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