2/3『仮往生伝試文』そして/あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』【中篇】

星野廉

2021/01/07 08:20


     ◆


 さて、『批評 あるいは仮死の祭典』と『仮往生伝試文』でしたね。


 共通する「仮」という文字が気になります。わくわくして気持ちがいいのです。暗示にかかりやすいだけでなく、符合や偶然に過剰に反応する人間なので、共通してある「仮」にこだわるのかもしれません。性格とか気質の問題でしょうか。それならそれでいいと思っています。「気持ちがいい」は大切です。


 ふたつの作品に共通する「ねえ、まだなの?」がずっとつづくような文章が、気持ちよさの一因だと思います。「どこにつれていってくれるのだろう?」という不安をともなう心地よさもあります。きちんと文章を読むことがきわめて苦手なので、文字を追いながらとりとめのないことを考えるのが常です。具体的には、前篇で紹介したの言葉と文字の羅列やそれらをめぐっての思い(「だ・である調」で書いた部分です)があたまのなかを駆けるのですが、読む対象はどんな本や文章でもいいわけではありません。今のところ、『批評 あるいは仮死の祭典』と『仮往生伝試文』が上のようなことを考えながら読むのに最も適した「乗り物」だと言えそうです。


 それでは、二冊の本を個別に見ていきましょう。<『仮往生伝試文』論>とか、<『批評 あるいは仮死の祭典』を読む>なんていう肩に力の入ったものではありません。そんなたいそうなものを書く柄ではないことはよくわかっているつもりです。かつて流行った言い回しを借りると、「〇〇の余白に」書くという感じかもしれません。


     ◆


 まず、『仮往生伝試文』なのですけど、とにもかくにも死にそうなのです。


「私、もう駄目かも」の永遠化です。持続する死にかけ状態は、ここでは幸福の絶頂に似ています。異質のテキストがパッチワークになっているさまは、末期を控えた人のあたまに浮かぶだろう夢想・断片のようです。繰り返される仮往生と往生の記録・伝。仮往生と本往生をめぐる物語の変奏と反復。


 仮往生本往生仮往生本往生仮往生本往生仮往生……。


 なかなかいかせてくれません。「私、もう駄目かも」が延々と続きます。試文はあくまでも試文(序文・注解・付録)であり続け、本文(ほんぶん・ほんもん・正文・原典)へとはたどりつない。ひょっとすると試文は死文なのかもしれません。作品全体に漂うなかなか死なない死にかけぶりのしぶとさは、ヘルマン・ブロッホの「ウェルギリウスの死」を思わせます。


 古井のエッセイ集『日常の"変身"』に「ヘルマン・ブロッホ「ウェルギリウスの死」――象徴と夢について」という論考があるのですが、この長編小説からの引用もあり、古井由吉先生による大学での独文学の講義に臨んでいるような気分になります。とても勉強になります。いや、勉強になるだけでなく、これもまた理解なんてそっちのけで、あれよあれよと読み進められます。もちろん心地よいです。古井由吉自身による『仮往生伝試文』論として読めないこともないような気がします。『ウェルギリウスの死』についてはあまりにも難しそうなので、古井訳で読みたかったなどという気持ちはさらさら起きませんけど。


 ちなみに、古井由吉はブロッホによる未完の小説『誘惑者』の訳者です。『日常の"変身"』には「ブロッホと「誘惑者」」というエッセイも収められているのですが、古井は自分の小説について書いているのではないかと錯覚する箇所が複数あり興味深い文章です。一つ例を挙げると、最後のほうでブロッホのこの小説の文体に触れた部分があります。古井自身の文体について述べているような刺激的な文章で、これまた読んでいてあれよあれよと夢想に駆られます。


古井由吉による邦訳ではロベルト・ムージル作『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』(岩波文庫)を持っています。記憶が曖昧なのでタイトルを書き取るために、二階から持ってきたのですが、薄っぺらいにもかかわらず、長ーい作品に思えてなりません。何度か挑戦して結局は斜め読みもできなかった小説です。たぶん、恋愛や夫婦および家族をふくむ人間関係が濃密に描かれた作品が苦手だから読めないのだという気がします(たとえば『杳子』や『槿』は読んでいて苦痛で、ぜんぜん快くありません)。たった今、この本の真ん中あたりを開いて文字を目で追いましたが、無理です。気持よくさせてくれそうもないので、残念ですが、あとで二階へ返しに行きます。


     *


 さきほど上で述べたようにうわの空で本を読むのが常態化しているのは事実ですが、それも程度と頻度の問題であり(しょっちゅうそんな具合なら重篤な症状ではないでしょうか)、ときには文字を追って読んでいることももちろんあります。さまざまな異質なテキストから成っている、いわばパッチワークのような作りの『仮往生伝試文』では、あるテキストから別のテキストに移ったさいの踏み外しというか転調がきっかけになって文章にすっと入っていくことがあります。そうなると文字を追っての熟読ができて、いろいろな発見があり楽しいです。


 修辞学的あるいは小説の技巧のうえでの高度なテクニックがもちいられていて、読む者は翻弄されるだろうと想像する部分が多々あります。ある箇所に差しかかって、あれっ、どういうことなんだろうと思って読み返すと、ちゃんと辻褄が合うようなかたちで、読み手をだましているのです。こういう術にはまるともう駄目です。人称、時制、場面転換、描写といった語りの要素を駆使したテキストを律儀に読んでいる自分がいます。


 一例を挙げると、「物に立たれて」という章の日記体の出だしが好きで、何度もだまされて喜んでいる自分がいます。「客」「運転手」「客」「運転手」と人を指す言葉が出てきて(ここは単なる反復ではなく変奏でしょう)、日記ですから書き手である「私」が素知らぬ顔で語り・騙りを進めていくのですが、途中であれっとなります。その瞬間に、後部座席にいる「客」の膝の上にある鞄からすっと空気が漏れるのですが(筋から逸脱したような描写なのでよけいにリアルです。鞄は古井のエッセイ風の作品によく出てきます。分身か飼い猫のように、あたかも生きた存在みたいにふっと姿を現します。たとえば『聖なるものを訪ねて』所収の「あさきゆめみし」という小品のラストに小動物じみた鞄が出てきますが、尋常ではない表象感を漂わせています)、澄ました表情をした古井先生のおならのように思えてなりません。これは実際にお読みいただくしかないでしょう。「私」を省いた文章の面白さが味わえます。


 古井はこうした書き方を多用し、たとえば全体が「私」をもちいた、あるいは省いた一人称で書かれている文章のなかで、それが回想であれば「私」と書いてもいいところで「子供」とか「息子」と書いて、読む者をかたりに引きこみます(『魂の日』所収の「知らない者は、知らない」が好例)。読みにくさ、場合によっては混乱につながることは確かなのですが、個人的にはかたられるほうを取ります。


 かつての日本語で書かれた古典の文章では、句読点も段落もかぎ括弧も濁点もなかったそうです(古文が苦手できちんと読んだことがないので、こんな書き方しかできません)。主語の省略も多かったみたいですね。便利な表記法に慣れた今の人たちには、「よく考えて補う」という読み方が不可欠になるということでしょうか。それとは次元が違うとは思いますが、古井由吉や野坂昭如の一連の小説、村上龍だと『コインロッカー・ベイビーズ』といった作品でも、「思いはかったり補う」作業がことのほか必要だと感じます。だからこそ、ひかれるのかもしれません。「苦しいけど気持ちいい」感と「どこに連れていってくれるのだろう」感を強く覚えて、なにしろスリリングかつ快なのです。


『仮往生伝試文』は確かに難解なのですが、理解なんて無粋なものは求めていない気がします。読めば読むほどそんな気がしてなりません。難しいのではなく、むしろ読みにくいのです。そんなわけで、お経と同じで意味なんか知らなくてもいいと決めこんで読んでいます。そもそも往生なんて小難しいものであるはずがありません。往生(本往生と言うべきかもしれません)の直前まではいろいろあるでしょうが、誰もが最期のきわにはすっとなくなるのはないでしょうか。難しいものであれば、簡単に死ねない人だらけという理屈になります(ふと、思ったのですが、簡単に死ねない人だらけというのは、案外当たっているのではないでしょうか、横道に逸れそうなので、これ以上深入りはしませんけど……)。


     *


 この作品がブログのように思えてならないので、なぜか考えたことがあります。理由は拍子抜けするほど簡単で、各章に出てくる日記体のせいだと思いあたったのですけど(ブログと日記に日付は付きものですね、ただそれだけ)、その部分がそれぞれの章でアクセントになっているように感じられます。河出書房新社刊の単行本にある奥付の前のページには「初出掲載「文藝」一九八六年春季号~一九八九年夏季号」とあるので、この作品は約三年間にわたる連作だったわけです。


 そんなことに思いをめぐらせながら、この長い作品をぱらぱらめくっていると「月、日」(日付だけでなく空の月と太陽も含まれます)という文字がやたら目につき気になり出しました。圧巻は「いま暫くは人間に」という章の終盤で、この部分は「明月記」という藤原定家の日記からの引用から成り立っていますから、当然のことながら「月、日」がたくさん出てくるわけです。何の不思議もありません。周到な読み手であることが求められる文庫版の解説者による解説において、やはり「明月記」からの引用が指摘され、「月、日」が頻出するのは自然の成り行きでしょう。でも、気になるのです。当然だと思いながらも、気になると不思議に思えます。気になって不思議でたまりません。当然と不思議は同義なのかもしれません。


「いま暫くは人間に」というタイトルをよーくご覧ください。「日」というかたちが四つ見えませんか。文字とは言いません。かたちです。こういうことが気になると、ほかのことも気になるものです。書棚にある古井由吉の本をいくつか引っ張り出してきて、あちこち見ました。別の作家の本とも見比べました。結論から言いますと、「日、月、白、明」、さらには「見、目、耳、自」というかたちに満ちているように見えてなりません。とくに『仮往生伝試文』という本のなかの文章に尋常ではないほど目立つのです。とはいえ、この本のタイトルにはないですね。いや、強いて言えば「試」に見られる「言」ですか。でも、かなり苦しいだじゃれみたいで、ここまでくるとみっともないので、「言」は引っこめます。本当は「口」もかなり目につくのですが、これも残念ですが引っこめます。


 それにしても気になります。面倒なのでいちいち数えはしませんけど、「日、月、白、明」、そして「見、目、耳、自」が目についてなりません。ぱらぱらページをくくっているうちに、何だか気持よくなってきました。よくあることなのです。字面を眺めていると意識が遠のくのです。試してみませんか。別に古井由吉の文章でなくてもかまいません。どんな文にでも意外とあるものです。上の漢字やつくりやへんや部分的なかたちに注目して、読んでみるのです。もちろん別の漢字でもかまいません。自分が気になる漢字であることが大切なのです。文章観なんて言うと大げさですが、文章の見方が変化したら楽しいと思いませんか。どうです、やってみませんか? あなたのなかの何かが変わるかも。駄目ですよね――。宗教の勧誘じゃあるまいし、誘っちゃいけません。ごめんなさい。ふざけているわけではないことは理解してください。


 何だかでれーっとしてきたので、しゃきっとするために、意識的に文庫版の後ろのほうにある「著者目録」を調べてみました。円陣を組む女たち、杳子・妻隠、櫛の火、聖、哀原、夜の香り、椋鳥、親、山躁賦、グリム幻想、明けの赤馬、眉雨、「私」という白道、フェティッシュな時代、日や月や、ムージル 観念のエロス、長い町の眠り、楽天記、魂の日、半日寂寞、陽気な夜まわり、白髪の唄、山に彷徨う心、夜明けの家、聖耳、ひととせの 東京の声と音、聖なるものを訪ねて、白暗淵、半自叙伝。


 書名だという約束事である邪魔な二重かぎ括弧をはずして文字たちのかたち(顔と言ってもいいです)を眺めていると、幸せな気分になります。ああ、まただ――。「わかった」とか「発見した」という知的な興奮ではないことは断言できます。そんな高尚なものであろうはずがありません。何しろ、「正しい」か「正しくない」なんて問題にしていないのですから。かたちを見留めて気づいたところで、物知りになったり賢くなるといったたぐいの話ではぜんぜんないのです。また、他の作家や文章と比較するのも意味はを成しません。文体の特徴とか、ある作家が使う言葉や表記の頻度などという小賢しげで詮索好きな分析とも無縁の作業であると言い添えておきます。


 漢字の物質的な側面である字面やかたちの特徴については、漢字や漢字のつくりを学びはじめた小学生や、日本語を母語としない学習者の方々のほうが、めざとく目がいくのではないかという気がします。知識や教養はかえって邪魔になるのではないでしょうか。とはいっても、この種の「まなざし」が文芸批評の一手法としてもちいられないわけではなく、その点については、「あう(4)/あう(5)」という記事で自作の物語を対象に分析するというお遊びをしていますので、ざっと目を通していただければうれしいです。ああやっているやっているという具合にすぐにお気づきになると思います。上のメモに名前のある芳川泰久氏の方法についても触れています。


 ちなみに、『批評 あるいは仮死の祭典』にある言葉と文章を眺めていて気になって仕方がないのは、漢字やかなではなく、「」、『』、「、(読点)」、「。(句点)」、「、(ルビとして縦書きの文字の右に打たれる読点・傍点(圏点)」、そしてルビです。


仮、


死、


の、


祭、


典、


 古文と呼ばれる日本語の文章にはなかったものばかりです。約物とは読みやすくするためにつくられた一種の約束事であり制度とも言えるでしょう。『批評 あるいは仮死の祭典』では、ときにはタマネギをむき続けるようなもどかしを覚えながら、まだまだかとつぶやいていると「、」が来ます。一息入れて次の「、」あるいは「。」が来るまで読み進みます。「」でくくられた文字で立ちどまり、『』でくくられた文字に思いを馳せ、「、(ルビとして縦書きの文字の右に打たれる読点・傍点)」が施された文字を凝視する。読みやすさを促すはずの約物が、その役目とは隔たった異物に見えてきます。


     *


 蛇足ながら再度書き添えますが、この種のたわむれは、他の作家やテクストと比較してどうのこうのという、いかにも詮索好きな、知的とも言えなくもない話とも無縁で、目の前にあるテクストをただ眺めるという単純作業に終始します。「正しい」か「正しくない」かの問題ではないのです。楽しむことが大切だとも言えます。


 読むと書くは遠いようで近い作業です。別に「用字用語集」や「編集ルールブック」のたぐいを参照したり、こうした本でお勉強をなくても、新聞・雑誌や本などで日々他人の文章を読むことによって自分の書く行為が変化することがあります。たとえば、「きょう(あす)」と書くか、「今日(明日)」とするか。「太陽が昇る」とするところを、あえて「日が昇る」と書く。「長い月日」か「長い日々」か。「月曜」なのか、それとも「月曜日」なのか。「暫く」か「しばらく」か。以上の例は、個人的な迷いなのですが、他人の文章を読むことによって、「ああ、こう書くのか」くらいの気持ちで揺らぐことがあります。一般論を言えば、こうした揺れは、誰もが意識的にあるいは無意識のうちにおこなっている選択でありその結果なのでしょう。もちろん揺らがない人がいても驚きません。あなたの場合には、どうですか? 表記の揺らぎを経験することがありますか? それとも安定していますか?


 えっ? みんな、こうやってるからこう書いているんです。ぼくは会社で勧められた「用字用語集」を参考にしてるだけ。変換して出たとこ勝負かも。表記の揺らぎなんて意識したことないなあ。まちまち? その日の気分? わたし、学校で習ったのがこの書き方なんですよ、だから安定してます。意外に思われるでしょうが、俺の文章のすべては、向田邦子のエッセイを書き写すことから生まれたと言っても過言ではありません。おーまいがっ、規則? てか、これ以外の書き方なんてあったの? 小説を書くときとエッセイやメールを書くときで、書き分けています。よくぞ聞いてくれたね、あたし意外と神経質なんですよ、意識が高いと申しましょうか。えっ、わかんないよー、スマホに聞いて(笑) 深く考えたことはないっすね、なんとなくこう書いています。好き嫌いはありますね、ある程度安定しているとは思います。あなた、何か文句でもあるんですか? いつもつかっているワープロソフトのお節介な指示に従っていて、こうなったのかも。わたくしのお手本は芥川龍之介の文章ですけど、何か? あんたさあ、何を言いたいわけ?


 人それぞれでしょうね。どう書くのか、どの言葉をつかうか、漢字にするかひらがなにするか、どっちの漢字にするか、といったことを、程度の差はあっても気にしている人がいてもおかしくないと思われます。とくに作家やライターと呼ばれたり、自称作家あるいはライターである人に、表記上のこだわりがあるのは当然ではないかという気がします。


     *


 現在、ネット上にはプロかアマを問わず、さまざまな書き手の文章がありますね。これは、本や雑誌や新聞といった印刷物しかなかった頃とは明らかに異なる時代の特徴だと思います。本が売れる時代に戻ることは、おそらくないのではないでしょうか。それはさておき、いわゆる「アマチュア」がネット上で文章を発表したり発信する機会とそのデータとしての量はうなぎ登りに増えていくはずです。


 しがらみや過去の約束事・ルールにはとらわれる必要はない。自分が好きなように書けばいい。自信がなければ、見よう見まねでいい。他人にとって読みやすいか読みにくいかという問題だけが残る。「他人」とは一様ではない。いろいろな読み手がいる。読みにくい文章は読まれないだろう。一部だけの人に読まれる文章があってかまわない。もちろん、不特定多数の人に向けて書くスタンスがあってかまわない。


(中略)


 昔々の日本語の文章には、「、」や「。」や「」や『』がなかった。――や……もなかったらしい。そういう「かつてなかった」ものを約物と呼ぶ人がいるようですけど、そもそもこの言葉を知らない人のほうが多いのではないでしょうか。


「かつてはなかった」のであれば、「いまもなくてもいい」気が個人的にはします。でも、いま現に使っていますね。ここまでの文章で使いまくっています。これを使うなと言われると、うーむ、正直言って困ってしまいます。「慣れている」からかもしれません。誰もが慣れ親しんだものを変えることには抵抗を覚えるのでないでしょうか。


       *


 もともとなかったのです。


 文章の書き方のルールや小説の書き方も同じです。


 話し言葉レベルの言葉遣いや、書き言葉レベルでの表記の揺らぎは、いつの時代にもあったのです。いつの時代にも統一なんてできなかったのです。だからこそ、ルールブックが書かれてきたのです。ルールブックがあるのは、「正しいものがあった」の証拠にはなりません。むしろ逆です。「正しいものなんかなかった」の証拠なのです。


 その言い方は「本来の(もとの)言い方とは違う」から「間違っている」つまり「正しくない」とか「乱れている」、みたいな言い方がまかり通っていますが、「本来の(もとの)」っていつのことなんでしょう。昭和? 戦前? 大正? 明治? 江戸時代? …… まさか平安時代の言い方が「本来」とか「もと」とか「正しい」とか「乱れていない」じゃないでしょうね。「正しい」と「乱れていない」を探して、どこまでさかのぼれば気が済むのですか? 


 百歩、いや、一歩だけ譲りますが、いわゆる「誤用」、「勘違い」、「転用」、「訛って」、「転じて」、「字を当てて」があって日本語はここまで来たのです。どの言語も同じです。私はそれを変化としか呼びませんけど。


(「言、葉、は、魔、法。【言葉は魔法・008】」より)

 

     *


 杳子・妻隠、夜の香り、親、山躁賦、グリム幻想、明けの赤馬、眉雨、「私」という白道、フェティッシュな時代、日や月や、ムージル 観念のエロス、長い町の眠り、楽天記、魂の日、半日寂寞、陽気な夜まわり、白髪の唄、山に彷徨う心、夜明けの家、ひととせの 東京の声と音、白暗淵。


 上の書名たちをPCの画面で見ながら、近くにあった紙のうえに書き写してみました。とりわけ「日」「月」「白」「目」というかたちをゆっくりとなぞるさいに、火照りを覚えて顔が上気してくるを感じることがありました。生前の古井由吉は何度も何度もそのかたちをペンであるいは鉛筆でなぞっていたはずです。こんなことを書くと、酔狂だとか単なる感傷だとか、あるいはちょっとここが変じゃないのと言われそうですが、それでもかまいません。ある種の供養だと思っています。


     *


 供養という言葉でしんみりしてきましたので、『聖耳』という短編を眺めてそこに並んでいる言葉に遊んでもらいましょう(単行本で見開き二ページです)。上で取り上げた「日、月、白、明」、そして「見、目、耳、自」だけでなく、「口」にも注目します。『聖耳』が声と音に耳を澄ます身振りに満ちた作品だからに他なりません。圧巻は冒頭の『夜明けまで』という短編でしょう。声と音だけの世界を言葉にしているのですが、凄味を感じます。短編集全体のタイトルが『聖耳』であり、耳と口が同居する「聖」がもちいられていることは無視できません。


「日、月、白、明、見、目、口、耳、自」という「文字ではなくかたち(顔)」に目が行ったところで、一瞬でかまいませんので、立ち止ってみましょう。文章を書き写すのが大変なので、第一行から順に目につく文字(かたち・顔)だけを拾ってみます。


1行目.曙

2行目.指、薔、薔

3行目.誰、昨、肌、昇、明、白

4行目.部、脆、眠、日、明、堵、息、吐

5行目.眠、(据)、同、時、日、始、日

6行目.復、自、者、明、繰、尋、過

7行目.

8行目.昇、朝、曙

9.行目(身)、明、郭、(血)、(滴)、部、暗

10行目. 味、朝、目、(覚)、(苦)

11行目. 息、呼、曙、(褪)

12行目. 明、(潰)、晴、曇

13行目. 陽、高、(頃)、部、(面)、者

14行目. 膳、同、朝、取、者、階、口、喫、服、

15行目. 者、(廊)、朝、口、眠

16行目. 散、(開)

17行目. 遠、(道)

18行目.(賑)


※『聖耳』(『聖耳』所収の表題作・講談社・単行本 p.248-249)


 あなたもひとつ試してみませんか。同じ短編から美味しそうなところを選びました。上の続き(19行目から)です。


 昨夜、担架車に載せられて帰るのを、下の渡り廊下から見たよ、と話すのが聞こえる。

 雨の夜明けにも曙光らしきものを見た。暗天のままに、降りしきる雨の、雨脚がほんのりと染まった。一瞬のことだった。目を瞠ればその名残りもなかったが、身体の内で後れて薄紅がふくらんで、顫えながら天を指して昇った。呆れて窓から離れ、休憩所の椅子に座りこみ、まだ明けようともせぬ廊下をただまっすぐに眺めて、格段思うこともないのに考えこむようにしているうちに、むこうはずれの病室から起き抜けの寝間着の老女が現われ、ゆらりゆらりとこちらへ歩き出し、洗面所の前を過ぎて、配膳室にも入らず、急用の電話に起きたのかと思うと、まっすぐに寄って来て、年の程のちょっと分からぬ顔になり、黙って隣の椅子に腰をおろした。人には構わず背をまるめて頭を前後に揺すり、早目に破れた眠りをここで取り返そうとするのか、今にも寝息が立ちそうに見えたが、右手は膝から浮かせて、宙にゆるく握りしめ握りしめしていた。


※『聖耳』(『聖耳』所収の表題作・講談社・単行本 p.248-250)



     *


 お疲れさまでした。かたち・顔を拾うと、たぶん次のような感じになると思います。


19行目. 昨、担、架、(廊)、見、話、聞

20行目. 明、曙、見、暗、脚

21行目. 瞬、目、瞠、名、(身)、顫

22行目. 指、昇、呆、憩、椅、明、(廊)

23行目. 眺、格、別

24行目. 間、(着)、現、(面)、前、過

25行目. 膳、話、寄、程

26行目.(顔)、椅、腰、背、頭、前、早、目

27行目.破、眠、取、息、見、右、膝

28行目.(握)、(握)


 こじつけもありますが、ご容赦願います。遊びであり、気分の問題ですので。 


※『聖耳』(『聖耳』所収の表題作・講談社・単行本 p.248-250)


 上の文字・かたち・顔たちを目を瞠り――目を見張り、ではなく、眼を大きく開け、ではなく――眺めていると、目に映るのは紛れもなく古井由吉の文章のかたちであり、顔に見えてきます。それほどよく見かけるのです。こんにちは、またお目にかかりましたね。その節はどうも……。懐かしさすら覚えます。執筆時にワープロ専用機もパソコンも使わなかった古井がこうしたかたちをペンや鉛筆で一つひとつなぞったのだと考えると、私の指は顫えてきます。震えて、ではなく、ふるえて、でもなく。


 ある日ある時の古井由吉は、多くの可能性と選択肢の中から、あえてその言い回しをもちいたのであり、その文字を選んでつかったのです。それは意図や思いや癖などという抽象を超えた具体的な行為であったはずだ。かたちを取っているのだから、もはや「物」と言うしかない動きと身振り。そう信じています。私はそれをなぞるだけ。それが私なりの供養。来る二月十八日は古井由吉の一周忌です。瞑目合掌。 



【ここまでが、『仮往生伝試文』そして/あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』【中篇】です。】 ⇒ 【前篇】




現代日本文学の最高峰「古井由吉」の遺稿を『新潮』5月号で発表!

株式会社新潮社のプレスリリース(2020年4月6日 14時24分)現代日本文学の最高峰[古井由吉]の遺稿を『新潮』5月号で

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※この文章は「文供養/文手箱」というマガジンに収めます。






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