恐るべき敬体小説(言葉は魔法・第3回)

2021/04/20 08:02


 あれは「です・ます調」で書かれていた、とはっきり記憶している小説があります。童話や昔話を除いての話です。どんな文体だったかを覚えている小説はそんなには多くないのですが、敬体で書かれた小説として、それが特に印象に残っているのは、お手本にしたからなのです。


 私はエッセイのたぐいはだいたい「です・ます体」で書いていますが、ある文章をすべて敬体で通しているかと言うとぜんぜんそうではなく、常体をまじえて書きます。これは意識的にそうしているのです。もっとも段落ごとにけじめをつけるとか、ある種の効果を計算して混ぜます。


 印刷物やネット上にある文章を観察すると、基本が敬体で、そこに常体をまじえるという書き方は、プロアマを問わず広く行われていることに気づきます。ただし、その塩梅は決して簡単ではありません。


 もっとも敬体に常体を忍びこませるというのは、作文上の工夫の一例であり、敬体で書く際の文章の呼吸(句読点の打ち方や改行や段落分け)、単調にならないための語尾の処理(体言止めを含む)、丁寧さの度合い、漢字とひらがなやかたかなのバランスなど、注意点はたくさんあります。


 こうしたものは見よう見まねで要領を覚えていく必要がありそうです。多読が必要ですね。


 敬体で文章を書く際の手本にした小説で忘れられないのは、カズオ・イシグロの『日の名残り』 です。翻訳なのですが、私は訳者の土屋政雄さんの大ファンであり尊敬もしていて、土屋訳の本を買い集めていた時期があり、しかも勉強のためにその原書まで入手していたのです。その頃には翻訳家を志していて、その対訳の本たちは今も二階の書棚や段ボール箱に入っています。


日の名残り-ハヤカワ・オンライン

著 カズオ・イシグロ 訳 土屋 政雄 ISBN 9784151200038 短い旅に出た老執事が、美

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 もちろん土屋さんの訳書のすべてが敬体で書かれているわけではありません。土屋さんによる訳書の数々や経歴については、ウィキペディアの解説がそこそこ詳しいので、そちらをお読みいただくのがよろしいかと思います。「ああ、これは読んだことがある」という発見があるのではないでしょうか。


土屋政雄 - Wikipedia

ja.wikipedia.org

 同業者である翻訳家だけでなく、小説家や編集者からもその卓越した訳業は高い評価を受けています。なお、邦訳『日の名残り』の解説は、日本語についてはとりわけうるさいことで知られ、作家で名翻訳家でもあった丸谷才一氏による読みごたえのあるものなのですが、そこでもこの土屋訳が激賞されています。


 今手元に『日の名残り』があります。英国の執事が話者である一人称による語りになっているため、日本語にする際には敬語をきちんと処理する必要があり、これを敬体で訳すとなると日本語の達人でない限り、悲惨な翻訳になるのは必至です。


 何しろこの作品に登場するのは、話者が仕える貴族をはじめ、その貴族が屋敷に招いた他の貴族や政界のお偉方たちなのですから。そのため、語り手文章の文体が単なる敬体で済むはずがなく、日本に華族や貴族がいた時代のやや古めかしい日本語を再現する必要が出てきます。


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 青天の霹靂とでも申しましょうか。突然のことで、どうお答えしてよいものかわからず、ご配慮に感謝したのは覚えておりますが、おそらく、行くとも行かないとも煮えきらない態度だったと存じます。ファラディ様は、つぎにこう言われました。

「本気だよ、スティーブンス。ぜひ骨休めしてきたまえ。ガソリン代はぼくがもつよ。(後略)

(『日の名残り』カズオ・イシグロ著/土屋政雄訳・ハヤカワepi文庫p.10)

 どうでしょう。想像してみてください。現在の英語には原則として敬語はないのです。それなのに、まるで最初から日本語で書かれたかのような、滑らかで正確な敬語を使った文章になっていることに驚かされます。さらに言うなら「煮えきらない態度」という訳語は少なくとも私の頭にはない表現で、原文ではどうだったのだろうと首をかしげざるを得ません。


 Coming out of the blue as it did, I did not quite know how to reply to such a suggestion. I recall thanking him for his consideration, but quite probably I said nothing very definite for my employer went on:

‘I'm serious, Stevens. I really think you should take a break. I'll foot the bill for the gas. ...

―― Kazuo Ishiguro "The Remains of the Day" (faber and faber) p.4

拙訳:

(前略)ご主人が配慮してくださったのは覚えていますが、おそらく私はそれほどはっきりした返事はしなかったのでしょう。というのは、ご主人は次のように続けておっしゃったからなのです。

「本気だよ、スティーヴンス。君は絶対に休むべきだと思うね。ガソリン代はわたしが出すから。(後略)


 土屋氏は、センテンス単位ではなく、おそらく段落単位で、あるいは段落の前や後ろの展開を汲んで日本語を組み立てていらっしゃるにちがいありません。さもなければ、あのような自然な日本語は書けないでしょう。受験英語に毒された直訳癖のある私は、その足もとにもおよばないのは明らかです。


 カズオ・イシグロ作、土屋政雄訳『日の名残り』恐るべし。


 私が土屋氏の訳文で感心するのは、まず英語の読解力がネイティブ並みであること、次に日本語の達人であること、この二点に尽きます。あっさり書きましたが、この二つを兼ね備えた訳者はめったにいません。


 たとえいたとしても、文芸翻訳という経済的に恵まれることはまずないであろう世界に身を置く人は少なく、他の分野に進むに違いありません。好きでなくてはできない職業のようです。この点については、記事の最後に詳しい資料をいくつか挙げますので、ご興味のある方はお読みください。


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 ところで、英語と日本語で見た "The Remains of the Day" と『日の名残り』からの引用箇所を眺めていると、日本語の文章として比類のない完成度を持つ土屋訳と、英国で教育を受け英文学を糧とし英語で小説を書いているイシグロの原文とを同列に扱っていいのだろうかという疑問を私はいだいてしまいます。だいいち階級差が言葉に表れるといわれる英国の英語と日本語の敬語や丁寧語は別物なのです。


 英文学に反映されている階級については、新井潤美さんの『階級にとりつかれた人びと』と『不機嫌なメアリー・ポピンズ』が具体例が多く詳しいです。後者には「マイノリティたちのイギリス」という章があって、その中でカズオ・イシグロの『日の名残り』についても興味深い考察がなされているのですが、とても勉強になりました。


 新井潤美さんのお書きになった啓発的な著作を読む度に、私は外国文学を翻訳で鑑賞する際の限界を感じないではいられませんが、素人である一個人の読書においては致し方ないことだとも思います。もちろん学術論文や批評であれば言及する箇所は逐一原文に当たってみる配慮が不可欠ですね。


 翻訳と原著は別物だというのは、突拍子もないたとえかもしれませんが、夏目漱石の『我輩は猫である』の東北弁訳と関西弁訳を想像してみると分かりやすいのではないでしょうか。そんな「翻訳」が二つあったとして、原文というものがあり、その翻訳は原文と「等価なもの」であるはずだ、と頭で理解していても、原文を含めた三者が同じものであるとは日本語の語感が許さないのではないでしょうか。


 語感とは体感にきわめて近く、身体的なものだと思います。理屈や知識でねじ伏せるわけにはいかないという意味です。


 話を戻します。語弊のある言い方になり恐縮ですが、素晴らしい日本語で書かれた作品として土屋訳を読むというスタンスもあっていいのではないかと、土屋訳の大ファンのひとりである私は考えています。


中公新書 階級にとりつかれた人びと—英国ミドル・クラスの生活と意見

庭のある、郊外のこぎれいな家に住み、夫は毎日電車で通勤、妻は家事をしながら夫の帰りを待つ。週末は庭いじりかドライブ…。「典

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平凡社新書 不機嫌なメアリー・ポピンズ—イギリス小説と映画から読む「階級」

われわれはイギリス小説を読む。その映画化作品も見る。だが、本当にその面白みを理解できているだろうか?スノッブで、イジワルで

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 もう一冊、土屋政雄氏の訳である恐るべき敬体小説、いや敬体で書かれた小説を紹介させてください。カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』です。


『わたしを離さないで』の敬体は、『日の名残り』とそれと異なる気がします。上で触れたように『日の名残り』は英国の階級社会が舞台になっているために、翻訳の際には上下関係を適切に日本語に置き換える必要があります。日本語の「財産」ともいえる敬語や丁寧語を駆使すれば素晴らしい訳業になることは、土屋氏の訳書が証明しています。


 一方、『わたしを離さないで』で描かれているのは、1990年代末という設定ではありますが、十分に近未来的な細部を持つパラレルワールドめいた現代の英国の恐ろしい社会です。あえて土屋氏が敬体という文体を選択して訳したからには理由があるはずだ。そんなふうに私は想像しないではいられません。なぜ、敬体が選ばれたのでしょう。


 作家は出だしに心血を注ぐものです。敬体が選ばれた理由が、ひょっと『わたしを離さないで』の冒頭にあるのではないか。私はそう考えて、冒頭を英語と日本語で比べてみました。


 なお、日本語訳は、カズオ・イシグロ著土屋政雄訳『わたしを離さないで』(早川書房)から、英語の原文は "Never Let Me Go"  (Vintage International))by Kazuo Ishiguro から引用させていただきます。


 わたしの名前はキャシー・H。いま三十一歳で、介護人をもう十一年以上やっています。

 My name is Kathy H. I'm thirty-one years old, and I've been a carer now for over eleven years.

 親しみやすい出だしですね。対訳で読んでも、うんうん分かるという感じです。次にいきましょう。


確かに。でも、あと八ヵ月、今年の終わりまではつづけてほしいと言われていて、そうすると、ほぼ十二年きっかり働くことになります。

That sounds long enough, I know, but actually they want me to go on for another eight months, until the end of this year. That'll make it almost exactly twelve years.

 もうため息が出ます。私みたいな者には絶対に出てこない訳文です。学校の英語の時間にやる英文和訳と翻訳の違いが、これでよく分かると思います。英語の文章には英語の呼吸が、日本語の文章には日本語の呼吸があることを痛感します。


ほんとうに長く勤めさせてもらったものです。わたしの仕事ぶりが優秀だったから? さあ、それはどうでしょうか。仕事がとてもよくできるのに二、三年でやめさせられる人がいますし、まるで役立たずなのに十四年まるまる働きとおした人も、少なくとも一人知っています。ですから、長いからといって自慢にはなりません。

Now I know my being a carer so long isn't necessarily because they think I'm fantastic at what I do. There are some really good carers who've been told to stop after just two or three years. And I can think of one carer at least who went on for all of fourteen years despite being a complete waste of space. So I'm not trying to boast.

 明らかに土屋さんの頭の中では、センテンス単位ではなく、段落、場面、章という具合に、もっと広くとらえながら、文章を組み立てていらっしゃるのでしょうね。さもなければ、こういう文章は出てこないと思います。


 短いですが、ここに話者の性格上の屈折が表れていますね。日本語訳でも、それがさりげなく出た文章になっていると思います。この「さりげなく」が大切です。屈折がもろに出ては読者の反感を買うでしょう。何しろ、この文は長編小説の冒頭の段落にあるのですから、訳者も心血を注いだはずです。小説は商品なのです。


 この小説の日本語と英語の文章を対訳で読む進めるにつれ、翻訳と原著は別物、別の作品だという感がいや増しに強くなっていきます。


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 それにしても、土屋政雄氏はどうしてこの作品をあえて敬体で訳したのでしょう。その謎の鍵を冒頭に求めたわけですが、次のような理由を考えました。


 語り手が女性である(安易な根拠です)。長い手紙にも読めないことがない。(ネタバレになりそうなので抑えた言い方になりますが)この作品は現代の英国社会における――もちろんフィクションですが――一種の「告発」をおこなっている(告発は「です・ます調」でした方がドスが効いて迫力が出ます)。冒頭の引用箇所にも見られる(全体には随所に見られます)、語り手の当てこすりや、じらした言い方や、皮肉っぽい口調をやわらげるため。


 要するに、「あのさあ、大きな声では言えないだけど、実はこの国でこんなことがあったのよ」という感じの、長い告げ口の手紙にも読める「わたし」の語りをストレートに響きがちな常体で書くより、日本語の丁寧語を使うことによって、話者の皮肉っぽい性格や、意地が悪いとも取れるじらしをオブラートに包むことが可能な敬体が選ばれたのではないか。


 要するに、語り手の好感度を高めるためです。屈折した物言いをする嫌な性格の「わたし」の長話など読者は読みたくありません。まして愚痴なんか聞くのはご免でしょう。


 大切なことなので繰り返しますが、小説は商品なのです。お客さまは神さまなのです。


 さらにいうなら、敬体で語る口調のほうがサスペンス(時には扇情)をいや増すという訳者の計算があったのではないか(谷崎や乱歩や太宰、そして宇能鴻一郎や湊かなえの作品が思い出されます)。そんなふうに勘ぐっています。


 この妄想じみた勘ぐりを他人のせいにする気持ちはないのですが、新井潤美さんの上記の本を読んでいると、英国の小説が一癖も二癖もあるものに思えてきて、つい想像をたくましくしてしまいました。


 以上は、あくまでも、素人である個人の意見および感想です。


 いずれにせよ、日本語訳『わたしを離さないで』は敬体の抑制がサスペンスを盛り上げ、実に読みごたえがある作品に仕上がっています。土屋訳、おそるべし。ぜひ、お読みください。


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 ここで一つ指摘しておかなければらないのは、『日の名残り』と『わたしを離さないで』に限らず、イシグロの小説では事実や思いを遠回しに語ったり、真実を曲げて語る話者が目立つということです。話者ではなくも、ストレートにものを言わない登場人物が多い気がします。


 それが英国の小説っぽさなのかもしれません。さっと読んで意味を取ろうとしても、一筋縄ではいかないのです。英国製の小説を読んでいて、ある箇所で詰まってしまい、考えこむことが私にはよくあります。いったい何を言いたいのだろうと裏の意味を考えているのです


 白を白と素直に言わない屈折した人物の心の機微を表すには、陰影に富む言い回しが可能な敬体が適しているのかもしれません(これもまた個人の感想であり意見ですけど)。さらにいうなら、だからこそ、私は敬体に惹かれるのかもしれません。


 ほのめかしの多い言い方で申し訳ありません。


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 次に敬体で書く際の注意点を挙げてみます。


 よく言われることですが、です・ます調で書くと語尾がどうしても単調になり、それを避けるための工夫が必要です。センテンスを長めにするのも一つの手ですね。


 例を挙げましょう。


・第一段落:「思います。」「違いない。」「思われますから。」

・第二段落:「変わっていました。」「ことになります。」「していたのです。」「でした。」「過ぎなかったのです。」

・第三段落:「からなのでしょう。」「と云うのでした。」「投じました。」「のです。」「のです。」

・第四段落:「にします。」「いました。」「ありません。」「ないのです。」「でした。」「でした。」


 尊敬してやまない谷崎潤一郎の『痴人の愛』の冒頭から、語尾だけを引用しました。


 こうやって『痴人の愛』の文章を改めてじっくり見てみると、文体を考える場合には敬体と常体という分け方よりも、口語体と文語体というくくり方のほうが適切ではないかと思えてきます。つまり話し言葉っぽい文章と書き言葉っぽい文章ということですね。前者は読者に宛てた手紙っぽい文章ともいえるかもしれません。


 上で見た『わたしを離さないで』の日本語訳もそうですが、『痴人の愛』では語り手の屈折した性格がその口調ににじみ出ている印象を与えてくれます。まさに手紙っぽい文章です。


 読む人は、自分だけにこっそり告白されているように感じるのではないでしょうか。それがぞくぞくわくわくの秘密ではないでしょうか。


私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思います。それは私自身に取って忘れがたない貴い記録であると同時に、恐らくは読者諸君に取っても、きっと何かの参考資料となるに違いない。殊にこの頃のように日本もだんだん国際的に顔が広くなって来て、内地人と外国人とが盛んに交際する、いろんな主義やら思想やらが這入って来る、男は勿論女もどしどしハイカラになる、と云うような時勢になって来ると、今まではあまり類例のなかった私たちの如き夫婦関係も、追い追い諸方に生じるだろうと思われますから。

(谷崎潤一郎『痴人の愛』の冒頭より引用)

谷崎潤一郎 痴人の愛

www.aozora.gr.jp

谷崎潤一郎 『痴人の愛』 | 新潮社

きまじめなサラリーマンの河合譲治は、カフェでみそめて育てあげた美少女ナオミを妻にした。河合が独占していたナオミの周辺に、い

www.shinchosha.co.jp


 ところで、この作品をじっくり書き方に注意しながら読むと、敬体小説ではなく、敬体と常体が同居する文体で書かれていることが分かります。そう感じさせないところが、大谷崎の芸なのです。谷崎、恐るべし。


 具体的には、読点を上手に使う、「が、」を頻用しない、時に丸括弧で文を挿入する、体言止めを句点で終わらせずに――なぜなら「。」で終わらせると体言止めが目立つから――文に忍ばせる、適宜に用いられたダッシュ、こんなふうにさりげなく工夫をしています(このセンテンスではその技巧を使ってみたのですが、お気づきになりましたでしょうか)。


 この記事を書くために冒頭に目を通した私は、『痴人の愛』を再読する気になりました。谷崎のこの名作を未読の方は、挑戦してみませんか。言うまでもないことですが、谷崎の恐るべきところは、文体だけではなくその内容にあります。ぜひお読みください。


 なお、エッセイの類を敬体で書く習慣のある私が、常にそばに置いている本があります。


・三島由紀夫『文章読本』(中公文庫)

・渡辺一夫、鈴木力衛著『フランス文学案内』(岩波文庫)

・下條信輔著『サブリミナル・マインド』(中公新書)


 どれも地の文は小説ではないので、エッセイを書く際には参考になります。明晰で論理的な文章を敬体で書きたい方にお薦めします。私のようなぜんぜん学習しない利用者もおりますけど。


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 今回の記事の関連図書を紹介します(以下は特に翻訳に関心のある方々に向けて集めたやや専門的な内容の資料です)。


 未読で恐縮なのですが、かつて出版翻訳家を志し勉強をしていた私には痛いほどよく分かる話が満載の本のようです。お世話になった人たちがいるので(その人たちに罪はありません、構造的な問題があるのです)、あまり強い言葉は使いたくないのですが、この業界はブラックだと言わざるを得ません。


出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記—こうして私は職業的な「死」を迎えた

30代のころの私は、次から次へと執筆・翻訳の依頼が舞い込み、1年365日フル稼働が当たり前だった。その結果、30代の10年

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ベストセラー本の翻訳家は、どうして出版業界を去ってしまったのか? | ダ・ヴィンチニュース

『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』(フォレスト出版)の著者・宮崎伸治さんは約30冊の翻訳書を出している。その中には

ddnavi.com

後進のため経験つづる 『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』 出版翻訳家・宮崎伸治さん(57):東京新聞 TOKYO Web

一般の人から見れば、出版翻訳の世界は謎に満ちていることだろう。だからからか私は知人友人からさまざまな質問を受ける。一冊訳す

www.tokyo-np.co.jp

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 手前味噌で恐縮です。以下の拙作には出版翻訳修行中の主人公が出てくるのですが(苦労話です)、細部には私の実体験が投影されています。


【掌編小説】バット・スキン・ディープ

【注意:この作品には残虐な描写があります。】 ——Beauty is but skin deep.(美は皮膜にあるのみ)

namaewanamae.blogspot.com

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 土屋政雄氏関連のお薦めサイトです。特にインタービューは、翻訳家を目指す人にとって目から鱗が落ちるような卓見に満ちた内容だと確信しています。翻訳が横のものを縦にする単純作業ではなく、言葉を組み立てる創造的な行為だとよく分かります。翻訳は創作なのです。


「翻訳とは」~カズオ・イシグロ作品への理解~ 土屋政雄氏インタビュー | 読書ログプラス

「翻訳とは」~カズオ・イシグロ作品への理解~ 土屋政雄氏インタビュー 11月の課題図書『わたしを離さないで』(カズオ・イシ

tokushu.dokusho-log.com

カズオ・イシグロ「名翻訳家」の意外な過去。『日の名残り』に出会うまで |BEST TiMES(ベストタイムズ)

カズオ・イシグロ作品の翻訳家が明かす秘話。ふたりはどうやって出会ったか。

www.kk-bestsellers.com

12~13。カズオ・イシグロを“数字”で読む。「名翻訳家」が出した数字の意味とは? |BEST TiMES(ベストタイムズ)

カズオ・イシグロ作品の翻訳家が文章を分析。キロバイトとフォグカウント。

www.kk-bestsellers.com

カズオ・イシグロ「名翻訳家」の意外な過去。『日の名残り』に出会うまで (2017年10月18日) - エキサイトニュース

カズオ・イシグロ「名翻訳家」の意外な過去。『日の名残り』に出会うまで カズオ・イシグロの陰に名翻訳家あり——。ノーベル文学

www.excite.co.jp


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 私が土屋氏の訳文で感心するのは、まず英語の読解力がネイティブ並みであること、次に日本語の達人であること、この二点に尽きます。あっさり書きましたが、この二つを兼ね備えた訳者はめったにいません。


「ドナルド・キーンのライフワークの一つに「日本文学史」というシリーズがあるんだけど、そこに訳者として名前を連ねている人たちには注目したほうがいいよ。あのキーンが信頼を置いた人たちで、英語と日本語の両方に秀でているだけでなく、古今東西の文学に通じたすごい人物ばかりなんだ。只者じゃないよ」


 翻訳家を志していた頃に、ある先輩からこういう意味のことを聞きました。以下の資料に名前が明記されていますが、徳岡孝夫、角地幸男、新井潤美、土屋政雄(敬称略)です。この人たちの手掛けた翻訳や研究書は信頼できると私も思います。


検索結果|中央公論新社

www.chuko.co.jp

ドナルド・キーン - Wikipedia

ja.wikipedia.org

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 土屋政雄氏の正確で美しい敬体は以下の翻訳でも楽しめます。カズオ・イシグロの新作ですね。


クララとお日さま-ハヤカワ・オンライン

著 カズオ・イシグロ 訳 土屋 政雄 ISBN 9784152100061 ノーベル文学受賞第一作

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2,750円

ハヤカワ・オンラインで購入する

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 ↓ この動画が好きです。若い頃のイシグロですが、なかなか興味深いインタビューだと思います。






【※この記事は「言葉は魔法」というマガジンに収めます。】


 *ヘッダーにはメザニンさんのイラストをお借りしました。




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