言葉は言葉(言葉は魔法・第5回)
2021/04/25 08:03
言葉は物。
言葉と物。
『言葉と物』
ミシェル・フーコー、渡辺一民/訳、佐々木明/訳 『言葉と物〈新装版〉—人文科学の考古学—』 | 新潮社
ベラスケスの名画「侍女たち」は、古典主義時代における人間の不在を表現している。実は「人間」という存在は近代に登場したもので
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ミシェル・フーコーがNHKテレビに出た時のことを覚えています。渡邊守章氏がインタビューをしたのです。
フーコー著の『言葉と物』がフランスで「プチパンのように売れた(飛ぶように売れた)」ことに渡邊氏が触れるとフーコーが「きっきっ」とまるでお猿さんのような声を上げて笑ったのでびっくりしました。哲学書がベストセラーになる時代がフランスにあったのです。日本でも思想書がよく売れていた時期です。
あれはいつだったのかと気になって調べてみると、フーコーが二度目に来日した1978年のことだと分かりました。
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渡邊守章氏が逝去されました。大学院を中退した私は、非常勤講師として渡邊氏が受け持たれていた講義に数回出ただけで終わりました。講義のテーマはマラルメと演劇でした。ご冥福をお祈りいたします。
仏文学者、演出家の渡辺守章さん死去 多彩な舞台演出:朝日新聞デジタル
フランス演劇・文学の深く幅広い研究と翻訳、多彩な舞台演出で知られるフランス文学者、演出家で東京大名誉教授の渡辺守章(わた
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渡邊守章 - Wikipedia
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以下の、ウェブサイトに慎改康之氏による素晴らしい文章が掲載されていて、その中でフーコーと日本との関係が詳しく書かれています。また、フーコーの思想だけでなく、フーコーという人間を知りたい方には――決して興味本位ではなく、生き方の選択の問題です――きわめて貴重な資料ではないでしょうか。
フーコーの日本(新書余滴)
慎改康之 このたび岩波新書の一冊として上梓した『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学』は、20世紀フランスの哲学
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「フーコーの日本」(新書余滴) - 講義日誌 yasuyuki shinkai
『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学』(岩波新書)刊行にあわせて、岩波新書編集部のウェブサイト「B面の岩波新書
amidelasagesse.hatenablog.com
上の文章では、モーリス・パンゲさんについても触れられていてどきっとしました。パンゲさんはフーコーとロラン・バルトの共通の友人だった方です。パンゲさんにフーコーやバルトについて聞いておけばよかったといまになって思いますが、パンゲさんは友人についてべらべら話すような人ではありませんでした。温厚で、とても優しく素敵な方でした。
モーリス・パンゲ - Wikipedia
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『自死の日本史』(モーリス・パンゲ,竹内 信夫):講談社学術文庫 製品詳細 講談社BOOK倶楽部
日本精神の光輝と陰影を描き出し、日本人の「運命への愛(アモール・フアテイ)」を讃える フランス最高の知性が透徹した眼差しで
bookclub.kodansha.co.jp
ひとりの人間としてのフーコーについて、さらに知りたい方には(これも興味本位ではなく)、エルヴェ・ギベールによる、次の小説をお薦めします。フィクションですが、フーコーがモデルだったとされる人物が出てきます。小説の形式も斬新です。私はエルヴェールの小説の書き方から多くのことを学びました。
ぼくの命を救ってくれなかった友へ/エルヴェ・ギベール/佐宗 鈴夫 | 集英社の本 公式
哲学者ミッシェル・フーコーとの関わりや、人気女優イザベル・アジャーニとの愛憎…。HIVに感染し、若くして散ったフランス人作
books.shueisha.co.jp
第1回目FBN読書会を終えて:エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』(1992) - French Bloom Net
記念すべき第1回目の FBN 読書会は課題本にエルヴェ・ギベールの『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』を選び、2018年7
www.frenchbloom.net
ロラン・バルト(1915-1980)、ミシェル・フーコー(1926-1984)、モーリス・パンゲ(1929-1991)、エルヴェ・ギベール(1955-1991)。それぞれ死因は異なりますが、人文学と創作の領域で独創的なお仕事をなさっていた、この四人の――非業と言うのでしょうか無念であったにちがないない――最期を想うと、いたたまれない気持ちになります。自分の生き方についても考えさせられます。合掌。
※以下は悲しい動画です。ご注意ください。
*
(※以下の引用の出典は後述します。)
第二次エピステーメー(1984-86)II-0号、1984年12月、 「緊急特集=ミシェル・フーコー 死の閾」
【I 思考の芯へ】
・ ミシェル・フーコー「幻想の図書館」(工藤庸子訳) 〔『幻想の図書館』哲学書房(ミシェル・フーコー文学論集)、1991.4→『ミシェル・フーコー思考集成2』筑摩書房、1999.3、pp.17-59→『フーコー・コレクション2』ちくま学芸文庫、2006.6、pp.158-215. 〕
(Michel Foucault, «Un "fantastique" de bibliothèque», Flaubert, G., Die Versuchung des heiligen Antonius. (Frankfurt a/M: Insel, 1964); Cahiers Renaud Barrault, 1967, no.57, pp.7-30. DE, [20])
・ ミシェル・フーコー「J=P・リシャールのマラルメ」(兼子正勝訳) 〔『ミシェル・フーコー思考集成2』筑摩書房、1999.3、pp.205-219→『フーコー・コレクション2』ちくま学芸文庫、2006.6、pp.264-285.〕
(Michel Foucault, «Le Mallarmé de J.P. Richard», Annales, 5, September 1964, no. 19, pp. 966-1004. DE, [28])
・ ミシェル・フーコー「ニーチェ、フロイト、マルクス」(豊崎光一訳) 〔;大西雅一郎訳「ニーチェ・フロイト・マルクス」、『ミシェル・フーコー思考集成2』筑摩書房、1999.3、pp.402-422.〕
(Michel Foucault, «Nietzsche, Freud, Marx», lecture and discussion at the VIIth 'Colloque de Royaumont' (July 1964), in: Nietzsche, Cahiers de Royaumont, Philosophie no. 6 (Paris: Minuit, 1967), pp. 183-200. DE, [46])
・ ミシェル・フーコー「『対話』への序文」(松本勤訳) 〔『壁のなかの言葉:ルソーの『対話』への序文』哲学書房(ミシェル・フーコー文学論集)、1990.11〕 〔;増田真訳「ルソー『対話』への序文」、『ミシェル・フーコー思考集成1』筑摩書房、1998.11、pp.213-239→『フーコー・コレクション1』ちくま学芸文庫、2006.5、pp.204-243.〕
(Michel Foucault, «Introduction», Rousseau, J.J., Rousseau juge de Jean-Jacques Dialogues. Texte présenté par Foucault, M (Paris: Collin, 1962), pp. VII-XXIV. DE, [7])
・ ミシェル・フーコー「第七天使をめぐる七言」(豊崎光一・清水徹訳) 〔『幻想の図書館』哲学書房(ミシェル・フーコー文学論集)、1991.4、pp.142-157、訳文修正、『ミシェル・フーコー思考集成3』筑摩書房、1999.7、pp.309-326→『フーコー・コレクション3』ちくま学芸文庫、2006.7、pp.272-298.〕
(Michel Foucault, «Préface», = «Sept propos sur le septième ange», Brisset, J.P., La grammaire logique suivie de la science de Dieu (Paris: Tchou, 1970), pp. VI-XIX. DE, [73])
・ ミシェル・フーコー「「父親」の《否定(ノン)》」(東宏治訳) 〔;湯浅博雄訳「父の〈否(ノン)〉」、『ミシェル・フーコー思考集成1』筑摩書房、1998.11、pp.240-261→『フーコー・コレクション1』ちくま学芸文庫、2006.5、pp.244-276. 〕
(Michel Foucault, «Le "non" du père», bookreview, Critique, mars 1962, no 178, pp. 195-209. DE, [8])
・ ミシェル・フーコー「かくも残酷な知」(横張誠訳) 〔『幻想の図書館』哲学書房(ミシェル・フーコー文学論集)、1991.4→『ミシェル・フーコー思考集成1』筑摩書房、1998.11、pp.281-198→『フーコー・コレクション2』ちくま学芸文庫、2006.6、pp.33-59.〕
(Michel Foucault, «Un si cruel savoir», Critique, juillet 1962, no. 182, pp. 597-611. (cit. SL) DE, [11])
・ ミシェル・フーコー「『啓蒙主義の哲学』書評」(鷲見洋一訳) 〔;増田真訳「無言の歴史」、『ミシェル・フーコー思考集成2』筑摩書房、1999.3、pp.373-378.〕
(Michel Foucault, «Une histoire restée muette», (bookreview of Cassirer, E., Le siècle des lumières), La quinzaine litteraire, juillet 1966, no. 8, pp. 3-4. DE, [40])
【II 起源の虚へ】
・ ミシェル・フーコー「距り、アスペクト、起源」(豊崎光一訳) 〔『パイデイア』11号、1972年春号「特集=〈思想史〉を超えて:ミシェル・フーコー」→本訳稿→清水徹・豊崎光一編訳『作者とは何か?』哲学書房(ミシェル・フーコー文学論集)、1990.9〕 〔;中野知津訳「距たり・アスペクト・起源」、『ミシェル・フーコー思考集成1』筑摩書房、1998.11、pp.355-374→『フーコー・コレクション2』ちくま学芸文庫、2006.6、pp.128-157.〕
(Michel Foucault, «Distance, Aspect, Origine», Critique, novembre 1963, no. 190. Repris dans Theorie d'Ensemble (Paris 1968), pp.11-24. DE, [17])
・ ミシェル・フーコー「ニーチェ、系譜学、歴史」(伊藤晃訳) 〔『ミシェル・フーコー思考集成4』筑摩書房、1999.11、pp.11-38→『フーコー・コレクション3』ちくま学芸文庫、2006.7、pp.349-390.〕
(Michel Foucault, «Nietzsche, la genealogie, l'histoire», Bachelard, S. et al., Hommage a Jean Hyppolite (Paris: PUF, 1971), pp. 145-172. DE, [84])
【III 透明な死へ】
・ ミシェル・フーコー「カントについての講義」(小林康夫訳) 〔『ミシェル・フーコー思考集成10』筑摩書房、2002.3、pp.172-184.〕
(Michel Foucault, «Qu'est ce que les Lumières?» = «L'art du dire vrai» (first lecture at the Collège de France on 5 January 1983, Un cours inédit), Magazine Littéraire, mai 1984, no. 207, pp. 34-39. DE, [351])
・ ミシェル・フーコー「真実への気遣い フランソワ・エヴァルトによるインタヴュー」(湯浅博雄訳) 〔『ミシェル・フーコー思考集成10』筑摩書房、2002.3、pp.154-171.〕
(Michel Foucault, «Le souci de la verité», interview by Ewald, F., Magazine Littéraire, mai 1984, no. 207, pp. 18-23. DE, [350])
【IV 散乱の渦へ】
・ ミシェル・セール「狂気 伝達不可能なものの幾何学」(竹内信夫訳) 〔豊田彰・青木研二訳『コミュニケーション』法政大学出版局、1985〕
(Michel Serre, «Géométrie de l’incommunicable... la folie», Hermès I, la communication, Éditions de Minuit, 1968.)
・ 豊崎光一「交差と非両立 ミシェル・フーコーにおける見ることと言うこと」
・ 蓮實重彦「視線のテクノロジー 《別の歴史》への接近」 〔改題「視線のテクノロジー フーコーの「矛盾」、『表象の奈落』青土社」、2006〕
・ 清水徹「フーコーの文芸批評をめぐる覚え書」
・ モーリス・パンゲ「ミシェル・フーコー、修業時代の」(大久保康明訳)
(Maurice Pinguet, «Michel Foucault, les années d’apprentissage», 1984. Repris dans Maurice Pinguet. Le texte Japon introuvables et inédits, ed. Michaël Ferrier, Paris: Éditions du Seuil, 2009.)
・ 海老坂武「フーコーの眩暈 フーコーを非フーコー的に読むことへの誘い」
・ 豊崎光一「二通の手紙 ルネ・マグリットからミシェル・フーコーへ」
・ 養老猛司「脳の中の過程 フーコーの斜め読み」
・ 八束はじめ「不完全な機械と自由」
【V 速度の論へ】
・ ジャック・デリダ「NO APOCALYPSE, NOT NOW 〈地獄の黙示録〉、そうではなく、今ではなく」(庄田常勝訳) 〔;藤本一勇訳「黙示録でなく、今でなく 全速力で、七つのミサイル、七つの書簡」、『プシュケー 他なるものの発明1』岩波書店、2014〕
(Jacques Derrida, «No apocalypse, not now à toute vitesse, sept missiles, sept missives» (Pas d’apocalypse, pas maintenant), (conférence prononcée en avril 1984 à l'université de Cornell). Repris dans Psyché: Inventions de l'autre, Galilée《La Philosophie en effet》, 1987, nouvelle édition augmentée, 1998, pp.395-417.)
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なお、上の雑誌「エピステーメー」の「緊急特集=ミシェル・フーコー 死の閾」の目次は以下のnoteの記事から引用させていただきました。これも貴重な資料です。
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上の目次を見ると、この号だけも取っておけばよかったと悔やまれます。
パンゲさんだけでなく、蓮實重彦氏や、豊崎光一先生の名前も見えます。宮川淳氏の名前がないのが残念でなりません。豊崎光一先生(1935-1989)と宮川淳氏(1933-1977)は、もっと広く評価されていい研究者だと思います。もっともっと長く生きて、もっともっとお仕事をしていただきたかった。合掌。
豊崎光一 - Wikipedia
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豊崎 光一 - Webcat Plus
Webcat Plus: 豊崎 光一, 豊崎 光一(とよさき こういち、1935年12月20日 - 1989年6月12日)
webcatplus.nii.ac.jp
沈黙の向こう側—豊崎光一追悼集
沈黙の向こう側 豊崎光一追悼集 豊崎令子(監修)/岩嵜誠、佐久間和男、中村裕、平山規子(編)/2013年
www.shumpu.com
宮川淳 - Wikipedia
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宮川淳(みやかわ あつし)とは - コトバンク
デジタル版 日本人名大辞典+Plus - 宮川淳の用語解説 - 1933−1977 昭和時代後期の美術評論家。昭和8年3月
kotobank.jp
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言葉は物。
言葉と物。
『言葉と物』
言葉は言葉
「これはパイプではない」
これはパイプではない - Wikipedia
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美術館・アート情報 artscape
現代美術用語辞典ver.2.0は、artscapeサイト創設15周年を記念して制作されました。1,581語を収録。2012
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イメージの裏切り - Wikipedia
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簡単に言うと、「これはパイプではない」というタイトルのルネ・マグリットの描いた絵には、パイプが描かれていて「これはパイプではない」という文字がパイプの下に書かれている、ということです。
パイプの絵は、パイプそのものではない、という意味ですね。
でも、あれをパイプそのものだと思うのが人間なのです。テレビに映った富士山を富士山だ、あるいは、テレビに映った木村拓哉を木村拓哉だ、と思うのと変わりません。絵と物、テレビの画像と物(あるいは人物)、言葉と物を錯覚しているとも言えますね。
え? 錯覚と知覚は違う、ですか? そうとも言えますね。座布団、一枚。
でも、そうやって錯覚――しかも壮大な規模で――を利用して、したたかに生きているのが人間なのです。愚かと言えば愚か、賢いと言えば賢い。言葉を使えば、何とでも言えます。
時空をまたがるこの壮大な規模の錯覚の利用なしに、たとえば小惑星の観測や探査なんてできません。絶対に無理です。錯覚を利用して、あんなに遠く離れたところにある探査機を操るのですよ。すごすぎます。魔法みたいです。いや、魔法じゃないでしょう。やはり錯覚だと思います。
遠くにあるものを近くにあるものように知覚する、あるいは錯覚する。
錯覚の上に成り立っているのが文化であり文明なのでしょう。良い悪いの問題ではありません。
以上はあくまでも個人の意見であり感想です。マグリット作の「これはパイプではない」についてはいろいろな人がいろいろな意見を述べています。人それぞれです。正解はないと思います。
*
言葉は魔法。
餅は餅。
言葉は絵。
言葉は絵みたいなもの。
言葉は絵に描いた餅。
言葉は絵に描いた餅みたいなもの。
お餅はお好きですか? 私は大好きなので、お正月が楽しみです。べつにお正月でなくても食べればいいのですけど、お正月のお餅は格別に美味しいのはなぜでしょう。餅は餅なのに。
お餅はお好きですか? 私はテレビでお餅を見ると美味しそうに見えて食べたくなります。テレビに映った餅の映像なのに。
お餅はお好きですか? 食品サンプルのお餅は見た記憶がないのですが、見たらやっぱり美味しそうだと思うに違いありません。
お餅はお好きですか? 私は絵に描かれた餅を見ると美味しそうに見えて食べたくなります。絵に描かれた餅なのに。
それにしても、よく考えるとシュールな話ですね。ギャグみたい。でも、人間として生まれて良かった。現物がないのに、美味しそうだと感じるなんて――。こんな素晴らしい錯覚が楽しめるのですから。
*
ここからは、ちょっとシュールな話、つまりナンセンスというか馬鹿みたいな話になります。
「餅・もち・mochi 」という言葉はたまたま付いているだけで、べつにカメでもウサギでもよかったわけですね。昔々に「ウサギ」と呼ばれたのであれば、いま餅をウサギと呼んでいるでしょう。
こういうことを理屈として学問的に論じた人がいたそうです。たしかスイスの人でしたが、名前は忘れました。歳を取るとややこしいこはどんどん忘れるのです。有り難いことでもあります。
餅という言葉と餅との間には、必然はない。何と呼ぼうと餅は餅。そんなことをややこしく言ったスイスの人の名前が出そうなのです。催しているので、そのうち出るでしょう。
*
言い換えれば、言葉とその言葉が指しているものごとの間に必然性、因果関係、因縁、切っても切れない関係、つまり腐れ縁などない。
要するに、両者の関係は、でたらめ、でまかせ、テキトー、恣意的、気まぐれ、こじつけだ、というわけです。
お分かりになりましたか? ややこしいですね。
ぺらぺらの薄っぺらい言の葉を、お大根の皮をかざせば透けて向こうが見えるほどに超薄切りにする板前さんみたいに、「意味すること」と「意味されること」にわけるなんて、ある意味とってもシュール、イッツ・ソォ・シュール。あ、出ました。フェルディナン・ド・ソシュールです。
フェルディナン・ド・ソシュール - Wikipedia
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ややこしいこと、とくにわけが分からないことってありますよね。ここに書いてあることみたいに。「ん?」とか「???」とか「……」という感じ。そういうことを、シュールということがあります。
哲学とか論理学とか現代詩とか宣伝文句とか禅問答とか本のタイトルって、ときにシュールに思えることがあります。
言葉は絵に描いた餅。
言葉は無。
*
語り得ないものについては、沈黙しなければならない。
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言葉)
ウィト先生、そんなシュールでネガティブな言い方だと人間さまは満足しませんよ。何しろヒトという種はお鼻が高いんですから。そこで持論を紹介させてください。
語り得ない事や物を前に、ヒトは錯覚しなければならない。てか、現に錯覚しまくっている。
どうでしょうか、ウィト先生? 沈黙するよりましじゃないですか? このほうがいくぶん救いがある気がするんですよ。ヒトという種には舌があるんですから。二枚も。いや、一枚でしたっけ? それに錯覚しまくっているのは事実ですし。沈黙より錯覚を選択したヒトはすごいと思っています。
語り得ないものについては、錯覚しなければならない。
※この記事は「言葉は魔法」の番外編です。 私たちは毎日何かを見て生きていますね。「見る」という言葉で、何を見ることをイメ
kotobawamaho.blogspot.com
*
言葉は沈黙。
言語と沈黙。
『言葉と沈黙』
『言葉と沈黙』(ジョージ・スタイナー著)は、由良君美が、当時気鋭の専門家を集めて翻訳させた贅沢な批評集でした。いま書棚で埃をかぶっているのを確認したので、きれにしてやりました。
言語と沈黙—言語・文学・非人間的なるものについて
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ジョージ・スタイナー - Wikipedia
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由良君美 - Wikipedia
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スタイナーと江藤淳との対話もNHKで放映されたのを見ました。調べてみると1974年だったとのことです。
内容はすっかり忘れました。あ、一つ覚えています。あなたの著作を読んでいたら(それとも、日本での講演を聞いてだったかな?)自分が以前に書いたことが、まるでそのまま英訳されているようだった――。うろ覚えで恐縮ですが、そんな意味のことを、江藤淳が冒頭でスタイナーを相手に言っていました。
対戦が始まった直後の血気盛んで気の早いボクサーみたいだと感じたことだけが頭に残っています。
*
地図は現地ではない。
言葉は物ではないという発想を初めて知ったのは、S・I・ハヤカワ著『思考と行動における言語』を高校生時代に読んだ時だったと記憶しています。話の展開が図式的で、とても分かりやすかったような気がします。
思考と行動における言語
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言葉は地図。
言葉は現地ではない。
言葉は地図。
言葉はチーズ。
チーズはどこへ消えた。
言葉はどこへ消えた。
松鶴家千とせさんが好きでした。この人がテレビに出ると食い入るように見入って聞き入っていた時期がありました。いま聞いてもいいですね。詩の朗読のようです。ふわふわした気分に誘われます。
言葉は夕焼け小焼け。
言葉は松と鶴が来る家の千歳飴。
言葉は七五三。
アフロじゃ七三分けは無理。
意味と無意味の間寛平。シュールですね。あと、『ぼのぼの』とか、『伝染るんです。』とか、『ゴドーを待ちながら』とか……、脈絡を欠いた形で頭に浮かんできます。いい気分です。
シュールな話は、これで終わります。
*
話を戻します。
一番大切なこと。↓
言葉は物ではない。
言葉は言葉。
比喩を使うとこうなります。↓
言葉は絵に描いた餅。 ← 隠喩
言葉は絵に描いた餅みたいなもの。 ← 直喩
どちらも同じです。同じようなものです。比喩は気にする必要はありません。言葉の綾ですから。
*
ちょっと説明を加えます。
言葉って絵に描いた餅みたいなものなんです。言葉をお食べになってことがありますか? 餅という言葉も食べられませんね。餅という言葉は絵に描いた餅なんです。その意味では、石鹸という言葉も絵に描いた石鹸と言えます。
餅や石鹸の代わりに「餅や石鹸ではないもの」を使っている。つまり、代用しているわけです。「餅・もち・mochi」 や「石鹸・せっけん・sekken」 は言葉であり、代理なのです。
言葉は代理。
言葉は魔法。
ここまで、お読みいただきありがとうございました。
*
ここからは、ややこしいので、ここで読むのをストップなさっても一向にかまいません。
◆
*「何か」の代わりに「何かではないもの」を用いる。つまり、代用する。
今書いた、あきれるほどシンプルなフレーズを、さらに短くすると、次のように言えそうです。
*代理の仕組み
これだけです。
*
単純に考えましょう。
ヒトは知覚し認識する。
何を?
自分の周りを。
どんなふうに?
詳しいことは知りません。ただ、代理として、みたいです。
代理って何?
たとえて言えば、饅頭の中身ではなくて饅頭の皮だということです。具体的には、言葉やお金が、典型的な「饅頭の皮」です。
皮の中身は分からないってこと?
たぶん、分からないと思います。
皮だけってこと?
そうみたいです。
うそー。
同感です。
*
どうやら、饅頭の中身には絶対にたどり着けないようです。皮だけで満足するしかないみたいです。もちろん、これは比喩です。お忘れなく。
*
少しややこしく考えましょう。
ヒトは「代理」しか、知覚や認識や思考や体感や理解や習得や学習や記述や伝達できない。
何の代理?
分かりません。「『何か』の代わりに『その「何か」ではないもの』を用いる。つまり、代用する」=「代理の仕組み」を採用している限り、分からないようになっているからです。
「何か」とか、「その『何か』の代わり」って、何だか謎めいて神秘的に聞こえるんですけど。
神秘的ですか? いや、そんなたいそうなものではありません。「何か」とは「餅」で、「その「何か」ではないもの」とは「絵に描いた餅」と考えると分かりやすいかもしれません。比較的モチがいいと言われる餅ですが、カビは生えるし、いつか腐敗するし、だいいちモチあるきにくいので、ヒトは絵に描いてモチ運ぶのです。でも、ヒトはそれが絵だということをすぐに忘れます。
「絵に描いた餅」って笑えますね。モチがいいとか、モチ運ぶとか、真面目な顔をしてしらっとダジャレを言うなんて、あなたはすごく性格が悪そう。
ありがとうございます。で、この餅はクジラであっても宝石であってもヒトであってもミミズであってもオケラであってもアメンボであっても山であっても総理の椅子であっても宇宙であっても、それが絵に描けるなら「何か」なのです。餅を、気取って事物や現象、あるいはおおげさに森羅万象なんて呼んでも、それでヒトの気が済むのならよろしいかと思います。また、絵に描いた餅を、表象・象徴・記号と呼んでも事態はいっこうに変わりません。
もう少しゆっくり話してもらえません?
申し訳ありません。では、ゆっくりと……。大切なことは、餅の絵が餅だと錯覚したり、餅の絵が餅ではないことを忘れたり考えないようにするのが、ヒトの常だということです。取り違えとか取り替えのギャグみたいで、お茶目ですね。モチろん、故意に、あるいはすっとぼけて、この錯覚や忘却を利用する、身モチが悪いじゃなくて、鼻モチならないやからがいるので、気をつけなければなりません。
鼻持ちならないやからですって? それ、あなたのことじゃないんですか?
そうかもしれません。
あっさり認めるんですね。「『何か』の代わりに『その「何か」ではないもの』を用いる」って、話からそれてきていません?
そんなことはありません。説明の仕方が悪いみたいなので、別のたとえをします。「何か」とは「あそこ(ヒトぞれぞれですので、お好きな「あそこ」を想像なさってください)」、そして「その「何か」ではないもの」とは「あそこの映った写真とか、テレビの映像とか、ネット上に出回っている写真や動画」と考えると、すごく切実=リアル=ガッテン=あら、いやだ、に感じられるかもしれません。
ちょっと、あなたったら。あら、いやだ……。
ああいうものを見ていて、そこにはない=それ自体ではないにもかかわらず、燃えて=萌えて=催してきません? この場合には、燃えないほうが、きわめて危うい=ヤバいかと存じます。燃えてこそ、ヒトなんでしょうね。あれを見て燃えないなんてヒトでなしかもしれません。お分かりになりましたか?
ええ、何とか。――ところで、「意味されるもの」と「意味するもの」とかいう話を聞いたんですけど。
それは聞いた記憶があります。その理屈を考えた人に質問してください。信じがたい話だとしか申せません。
あたまがこんがらがってきたわ。話をもどします。もう一度聞きますけどね。絵に描いた餅とか、あそことか言って、煙に巻かないでくださいよ。とにかく単刀直入に答えてください。「『何か』の代わりに『何かではないもの』を用いる。つまり、代用する」の「何か」って何なの?
ヒトには、「絶対に分からないもの」「絶対に直接的に出あったり、触れたり、知覚したり、悟ったり、まして認識したりできないもの」とでも申しますか――。
ペシミスティックですね。
はあ、まあ。
夢も希望もないじゃないですか?
はあ、まあ。
そんなんじゃ、元気出ませんよ。頑張れませんよ。
そうでもないですよ。開き直るとか、居直るとか、はったりをきかすとか、都合の悪いことは忘れるとか、自己催眠をかけるとか、妄想するとか、幻想を見るとか、幻想を信じるとか、幻覚に陥るとか、すれば元気も出ますし、頑張ることもできるみたいです。
夢も希望もないより、ましじゃないですか。
そうお思いになる方が、圧倒的に多いようです。さもないと、ヒトは生きていけません。
↓(拙文「代理だけの世界(1)」より引用)
倉庫A・哲学系
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◆
まとめましょう。
言葉は物ではない。
言葉は言葉。
言は言。
事は事。
物は物。
言葉は錯覚、なんて言いません。
錯覚するのは人。
あくまで、人。
以上だけは押さえておきたいのです。
言葉と物とを混同するのが、人間の習性だからです。混同しないと人ではなくなります。この習性のために起こる誤解や混乱や争いはきわめて多いです。ややこしくて、きな臭い話になりがちなので、今回はここでやめておきます。
それにしても、今回の記事は長かったですね。追悼の意味もあったのです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。言葉は魔法。合掌。
フーコーそして/あるいはドゥルーズ (1975年) (叢書エパーヴ〈5〉)
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【※この記事は「言葉は魔法」というマガジンに収めます。】
*ヘッダーにはメザニンさんのイラストをお借りしました。
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