見る、見える、眺める、見つめる、見入る、見られる
星野廉
2020/12/12 19:28
タイトルの文字がむなしく見えます。
見る行為について、言葉を連ねるしかない、つまり思考停止におちいっている自分にもどかしさを覚えます。
視覚の優位という言い方がありますが、人間において見る行為が特権的な意味を持っていたり、位置を占めていることは日々経験しています。読み書くことすら、見るに支えられているのです。
目をつむった状態で、読み書きができるでしょうか。ひいては聞く、味わう、触れる、嗅ぐ、感じるが、目をつむらない状態と目を開けた状態で変わらないと言い切れるでしょうか。
見るが当たり前になっている。この当たり前が見えなくしているように思えます。見るという行為を具体的に生きているかに見えて、じつは見えていない気がしてなりません。
こうした思いは、言葉を持ってしまった人間の宿命なのかもしれません。本来思いわずらう必要のないことに思いわずらう。これはおそらく言葉の仕業です。
世界は見るを用いた比喩と言い回しに満ち満ちている。世界は見るであふれかえっている。いや、見るという言葉であふれかえっていると言うべきだろう。あるのは言葉だけ。実際には見ていない。見えていない。言葉が見えなくしているから――。
ああ、こんなのはすべてが言葉の遊びだ。むなしい。
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いま私はうろたえています。
自分が日々経験しているはずの見るという行為が揺さぶられるような(少なくとも私にとって)、noteの記事を読んだからです。
「撮るとは何か?」というタイトルにはっとしました。
そうだ、私たちが見ているものは「撮られている」のだ。撮影されたものを私たちは目にしている――。当たり前のことなのですが、この気づきは私には衝撃でした。
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いま「見る」は、ゲーム、写真、カメラ、インターネット、動画、絵画、漫画……という多岐にわたる媒体や機器・機材や装置や技術によって複雑きわまりない様相を呈しています。こうしたものについて知り、思考することなしに、「見る」を語ることは言葉の遊びにしかならないのではないか。そんな気がします。
まわりを見わたしてみると、「見る」が作られている、仕組まれている現実があります。言葉が作られ、仕組まれるのとは異なる次元の出来事という感じがします。こうしたことはいま始まったことではないのかもしれません。無知な私には分かりません。勉強したいです。
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見るについて、いまの私は言葉を失いかけています。できることなら、沈黙したいくらいです。見るについて言葉を連ねることがつらいのです。
考えすぎなのかもしれません。いや、思考が停止していることは確かです。それでもかまいません。もっと見たいと思います。うろたえ、途方に暮れた自分を見届けたい自分がいるからです。
そして、いつか見るについて――性懲りもなく――また言葉を連ねたい。私には言葉しかないからです。
いまは言葉を連ねる気力すら失いかけています。
私には言葉しかない。言葉の遊びしかできない人間。言葉だけの私。言葉だけの男。
言葉だけ? ん? これじゃ、今日投稿した記事の、ちゃら男と同じじゃないですか。⇒ 言葉は魔術 【言葉は魔法・010】 自分の投げた石は自分の頭の上に落ちてくる。ブーメラン、ブーメラン。ちょっと元気が出ました。
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ジョニーさんの記事をご紹介させていただきます。
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