人は存在しないもので動く

星野廉

2021/06/04 08:20


目次

開いた窓

斜めから見る

人は有るものよりも無いものによって動いている

あとはレトリックだけの問題かもしれない

開いた窓



 ある少女が巧みな話術で、今はここにはいないある人物について語る。それに聞き入るあなた。そこにそのいないはずの人物がいきなり現われる。当然のことながら、あなたはびっくりして腰を抜かしそうになる。それほど少女の話はリアルだった、実在よりも不在のほうが――。


 その村には不気味な廃屋がある。肝試しに村の若者たちが一度は訪ねて一夜を過ごして帰ってくるのだが、そこを訪ねた若者は誰もが口ごもる。それほど恐ろしい目にあったらしい。何を見たのか。その村に、ある男がやって来て、その幽霊屋敷の話を聞きつける。男はその家に行って一夜を過ごし、「何も見なかったし何も起こらなかった」と笑う。男は村人に殺される――。


 以上の二つの話に共通するのは、有りもしないことを信じる人間の想像力の強さでしょう。二番目の話では、その有りもしないものの想像が打ち破られることへの怒りも表現されています。


        *


 人は有るものよりも無いものによって動いているのではないか。そんなふうによく思います。


 無いものは力を持っているとしか考えられません。今ここに無いのに力を持っているとも考えられるし、今ここに無いからこそ力を発揮するのだとも考えられます。いずれにせよ、不思議な話であり、恐ろしくもあります。でも、それが人の常態なのです。


「馬鹿な話だ。無いものが力を持つわけがないじゃないか」そうお思いの方もいらっしゃるでしょう。一方で、「そうそう、そのとおり。無いものこそが力を持っている」とうなずいてくださる方も、少なからずいらっしゃる気がします。


        *


 そういえば、ないものをめぐっての小説を書こうとしていたことがあります。連作というかシリーズです。


 自分にはない男性器を備えた「存在」に取り憑かれた女性の話(「存在」とは「人間」ではなく、小説や漫画やアニメや映画の登場人物のことなのです)――。


 自動車事故のために切断された足の痒みに悩まされたり、今はない足にまつわる記憶に耽る少年の話――。


 持ち主のない、つまり持ち主を失った物を見るとその物の来歴が頭に次々と浮かんできてとまらなくなる老女――。


 そんな具合に、ないものが登場人物を翻弄するという一連の話を書こうとしたのです。


 こういう書きかけの小説であったり、小説のアイデアにしかすぎないものについてあれこれ思うのが好きです。つまり、ないものをめぐって考えるというわけですね。


 私は本の広告が大好きです。朝刊の第一面から次々とめくっていって各紙面の一番下にある書籍の広告を見ていくと眠気がなくなります。そのために朝日新聞を購読していると言ってもかまいません。


 知らない本のタイトルやそれに添えられた短い説明を読みながら、その中身を想像、いや空想するのです。わくわくします。書評はたいてい長すぎて興ざめします。読んでもいない本のことをブログに書いていた時期もありました。


「架空書評」を書いているうちに、そこから小説ができあがるというきわめて安直な方法を編み出したこともあります。私の小説はほとんどがそうやって書いたものなのです。


 学生時代には文芸作品を読まずに文芸批評ばかり読んでいました。言葉に言葉をかぶせて重ねていく手際がスリリングだったのです。映画を観ないで映画評を見るのも好きです。


言葉に言葉をかぶせ重ねていく

 文芸作品そのものを読むよりも文芸批評を読むほうが好きでした。大学時代はちょうど文芸批評の全盛期みたいな雰囲気があり、従来

norenwake.blogspot.com

 また、自分では何一つスポーツをしないにもかかわらず、スポーツについての文章を読むとわくわくします。特に山際淳司と沢木耕太郎が書いたスポーツものは、一時期までほとんど目を通していました。ルールを知らない競技のものでも、おもしろいというか、読んでいて快いので読みました。


        *


 話を戻します。


「ないもの」シリーズを書こうとしていた頃に頭にあった作品がいくつかあります。たとえば、サキの『開いた窓』、パトリシア・ハイスミスの『黒い家』(ブラック・ハウス)、そしてW・W・ジェイコブズの『猿の手』です。


 この三編の作品はどれも解説するとネタバレになる恐れがあるので気をつけなければなりません。「ないもの」や「目に見えないもの」が人を恐怖や不安や悲しみにおとしいれる(期待や熱狂や幸福感を覚えさせる場合もあります)、とだけ言っておきます。


新潮文庫 サキ短編集 (改版)

ビルマで生れ、幼時に母と死別して故国イギリスの厳格な伯母の手で育てられたサキ。豊かな海外旅行の経験をもとにして、ユーモアと

www.kinokuniya.co.jp

黒い天使の目の前で - パトリシア・ハイスミス

www.aga-search.com

ニュー・ゴシック : ポーの末裔たち (新潮社): 1992|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

iss.ndl.go.jp

猿の手 - Wikipedia

ja.wikipedia.org

猿の手

イギリスの小説家W・W・ジェイコブズによる短編小説である。典型的なホラー小説の題材として良く知られる

dic.pixiv.net



斜めから見る



 上の文章を書いていてあることを思い出したので、確認のために二階に上がって書棚からある本を取り出してきました。


 スラヴォイ・ジジェクの『斜めから見る』です。


斜めから見る—大衆文化を通してラカン理論へ

理論化された高次の文化と、通俗的な大衆文化を重ね合わせ、そこから社会の見えない主体を浮かび上がらせる、ジジェクの透視図法。

www.kinokuniya.co.jp

654夜『幻想の感染』スラヴォイ・ジジェク|松岡正剛の千夜千冊

1000ya.isis.ne.jp

 スラヴォイ・ジジェクという人は、映画や小説や大衆文化や政治を題材に、とても面白いこと(あるいは、ぜんぜん面白くないこと)をめちゃくちゃ面白く語るので、YouTubeで検索してみるのもよろしいかと思います。


スラヴォイ・ジジェク - Wikipedia

ja.wikipedia.org

 私なんか動画に見入ってしまいます。話の内容よりも、ジジェクの仕草や表情に、です。そのレトリックだらけの話術に魅惑されないでいるのは難しいのではないでしょうか。






        *


 私が「ないもの」シリーズという連作小説を書こうと思い立ったのは、このジジェクの本を読んでひらめいたからだとも言えそうです。


 この本の文章は決して読みやすくはありませんが、具体的に映画や小説のタイトルや作家名が出てくるので、そこだけに目をやって各作品に当たる、あるいは当たらない、という読み方もできます。現に私はそうしていました。私の場合には、各作品には当たらないという意味です。


 とにかく面白いのです。後ろにある「原註」だけでも、読んでいてわくわくします。原註のほうが断然面白いと言ったら、ジジェクさんと訳者の鈴木晶さんに叱られそうですけど。


 映画、特にヒッチコックに関するジジェクの文章は、その訳が分からないところがとても刺激的かつ最大の魅力で、ついさっきも再読しながら酔い痴れていました。


「第二部 ヒッチコックについてはいくら知っても知りすぎることはない」にある「第5章 ヒッチコックにおける染み」が面白いです。ここから、ラカンに行くという手というか、道もあるでしょう。勉強にもなるという意味です。


(※「ヒッチコックについてはいくら知っても知りすぎることはない(One Can Never Know Too Much about Hitchcock)」なんていうタイトルを付けるところが、ジジェクの話術とレトリックのうまさのあらわれです。煽るのです。ちなみに、これはヒッチコックが監督した『知りすぎていた男』(The Man Who Knew Too Much)のもじりでしょう。こういう言葉遊びやアリュージョン(言及・ほのめかし)も、ジジェクは得意であり、かなりの芸達者と言えます。)


 この章の冒頭で、ジジェクはヒッチコックの「海外特派員」を取り上げ、チューリップ畑が続くオランダの田舎で「風車の一つが風向きと逆に回っている」ことに主人公が気づく場面に注目します。


 見慣れた風景(オランダの風車の並ぶ風景)に、ちょっとした特徴(風向きと逆に回っている、一つの風車)が加わったとたんに、その自然な風景が不気味なものに変わってしまう。そこには属さない場違いな、つまり何の意味も持たない細部が加わったのである。


 こんなふうに、ジジェクは指摘するのです。





海外特派員 (映画) - Wikipedia

ja.wikipedia.org


 その指摘に続く部分を引用してみます。


(中略)シニフィエを伴わないこの「純粋な」シニフィアンが、他のすべての要素にとっての補足的・隠喩的な意味の発生をうながす。それまではまったくありふれたものと見なされていた状況や出来事が、どこか奇妙に見えてくる。われわれはいきなり二重の意味の世界に入り、あらゆるものがなにか隠された意味をもっているように見えてくる。ヒッチコックの主人公――「知りすぎている男」はその意味を解読するのである。(後略)


(『斜めから見る』スラヴォイ・ジジェク著、鈴木晶訳、青土社 pp.168-169)

... This "pure" signifier without signified stirs the germination of a supplementary, metaphorical meaning for all other elements: the same situations, the same events that, till then, have been perceived as perfectly ordinary acquire an air of strangeness. Suddenly we enter the realm of double meaning, everything seems to contain some hidden meaning that is to be interpreted by the Hitchcockian hero, "the man who knows too much." ...

("Looking Awry: An Introduction to Jacques Lacan through Popular Culture" by  Slavoj Zizek The MIT Press p.88)

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 以上の見解は、映画だけでなく人の見る行為(ひいては五感を用いて知覚する行為)における不可避な錯覚を示唆しているように私には思えます。簡単に言えば、人は「見えないもの」を「想像して見る」のであり、「ないもの」を「ある」と錯覚し、さらにはその錯覚を強化して「ある」と決めるという仕組みがあるということです。


 ふつう人はそれに気づきませんが、何らかの「異化」によって気づきます(または、思い出します)。その「異化」が、このヒッチコックの映画では「風車の一つが風向きと逆に回っている」であり、ジジェクに言わせると「シニフィエを伴わないこの「純粋な」シニフィアン」なわけです。


 この「異化」に気づくのは、映画の主人公なのですが、さらには映画の観客の一人である、あなたも気づくことになり、その結果あなたもまた映画にまきこまれる――、ジジェクはそう指摘します。


        *


 人は「見えないもの」を「想像して見る」のであり、「ないもの」を「ある」と錯覚し、さらにはその錯覚を強化して「ある」と決めるという仕組みがある。


 それだけにはとどまらないと私は考えています。


 人は見えないが見たいものを見えると決めるために、その根拠となりそうなものを求めるのです(この「求める」を「欲望」とか「欲求」というもっともらしい言葉で作文することもできます)。


 こうも言えるでしょう。人はないものをあると決めるために、その根拠となりそうなものを求める。その根拠は何であってもかまわない。いわば、イワシの頭も信心からの「イワシ」は何でもあってもいいのです。


        *


 話を戻します。


 ジジェクは、上述の「風車の一つが風向きと逆に回っている」という映画のショットを、ジャック・ラカンがよく引き合いに出すホルバインの「大使たち」という絵画に関係づけます。真っ直ぐに見るのではなく、いわば斜めから見ると「染み」が「頭蓋骨」に見えるというわけです。(邦訳pp.172-173)


 これも人に気づきの「異化」をもたらすものと言えるでしょう。上述のヒッチコックの映画で、「異化」に気づくのが映画の主人公だけでなく、映画を観る人(つまり、あなた)であったように、あなたもこの絵画にまきこまれるということでしょうか。斜めから見ることによって。



大使たち - Wikipedia

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ジャック・ラカン - Wikipedia

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 このように、ヒッチコックを題材にラカンの考え――人が世界を解釈し、意味を生み出す生き物であること――を語るジジェクの話術とレトリックは巧みで迫力があります。映画好きの人にお薦めの本です。


 映画は、スクリーンに映写機で映し出された影、影絵、幻影を見るという仕組みです。影という「ないもの」を見ているとも言えます。そしてその影は作られたものです。カメラで撮影され編集されているわけですね。「ないもの」が「作られた」とも言えます。


(んなこたーない。映画に映っているエッフェル塔に感動したら、それは実在するエッフェル塔に感動したのと変わらんだろーが――。なんて幻聴が聞こえてきたので、お答えします。そういうことを言っているのではないのです。目の前にないもの、つまりエッフェル塔の映像、影、幻影を見て、人は感動するという話をしているのであり、それ以上でもそれ以下でもありません。エッフェル塔の実在は問題にならないのです。というか「実在」なんてややこしい話はしていません。バンビが実在しなくても、人はその幻影に感動します。あ、バンビじゃなくてオバケのQ太郎でも同じです。大切な点は、「実在するもの」の幻影に対する感動と「実在しないもの」の幻影に対する感動には質的に何ら違いはないことなのです。)


 映画は、「ないもの」を「あるもの」だと錯覚させる――「何か」の代わりに、「その「何か」ではないもの」をもちいる、つまり代用する――という、人のいとなみの集大成みたいなものなのかもしれません。テレビもネット上に飛び交う映像も、影絵の集大成である映画の焼き直しと言えるでしょう。


 映像の魔術師であるヒッチコックに、言葉の魔術師のジジェクが惹かれるというのは分かりやすい構図です。


 付け加えますが、おそらくジジェクはその華麗的かつバロック的なレトリックを戦術としています。魔術でも呪術でもなく、戦術です(だから私はジジェクの著作を読むのですけど)。魔術や呪術と受け取られることを計算に入れての演出に長けているのです。師であるジャック・ラカン譲りの戦略かもしれません。


 そういえば、最近パトリシア・ハイスミスの小説を読み返しているのですが、ハイスミス経由でラカン――この固有名詞の残したテキストの風味(思想ではありません、あくまでも風味です)は、マラルメの散文バージョン、またはマラルメの散文的口述筆記版に思えてなりません――という曖昧放置プレイの名手を思い出しました。ジャック・ラカン(1901 -1981)にはスラヴォイ・ジジェク(1949-)という人がついていて、精力的な活動をしています。


(拙文「言葉は外から来るもの」より引用)


        *


 私の好みの作家や作品を、この本の後ろにある索引から抜き出してみます。


・ロバート・シェクリイ

『夢売ります』(仁賀克雄訳『幻想の怪奇』1、ハヤカワ文庫)


・パトリシア・ハイスミス

『ブラック・ハウス』(鈴木晶訳『ニュー・ゴシック』、新潮社)(※『黒い家』in『黒い天使の目の前で』扶桑社ミステリ)

『見知らぬ乗客』(青田勝訳、角川文庫)

『池』(小倉多加志訳、『風に吹かれて』、扶桑社ミステリー文庫)


・ルース・レンデル

『死を誘う暗号』(小尾扶佐訳、角川文庫)

『ロウフィールド館の惨劇』(小尾扶佐訳、角川文庫)


・スティーヴン・キング

『ペット・セマタリー』(深町真理子訳、文春文庫)


 懐かしいです。持っている本もあれば、処分した覚えのあるものもあれば、行方不明のものもあります。私にとって、まさに「ないもの」同然の作品になりつつあるのは確かです。でも、「今ここにない」からこそ、力を持って今ここにいる私に迫ってくるのも事実なのです。


 あちこち話が飛んで申し訳ありません。話を戻します。




人は有るものよりも無いものによって動いている



 人は有るものよりも無いものによって動かされている、いや動いているのではないか。そんなふうによく思います。


 無いものは力を持っているとしか考えられません。今ここに無いのに力を持っているとも考えられるし、今ここに無いからこそ力を発揮するのだとも考えられます。いずれにせよ、不思議な話であり、恐ろしくもあります。


「馬鹿な話だ。無いものが力を持つわけがないじゃないか」そうお思いの方もいらっしゃるでしょう。一方で、「そうそう、そのとおり。無いものこそが力を持っている」とうなずいてくださる方も、少なからずいらっしゃる気がします。


        *


 今ここにないものには確かに力があるような気がします。今ここにないからこそ力を持つ。そんなふうに思われます。


 芸術、宗教、科学、哲学、数学、ビジネス、文学、報道といった分野では、今ここにないものを思考したり希求することで、そのないものがあるものになるように努力するという行為が繰り返されてきたのではないでしょうか。


 まとめてみましょう。


 芸術:ないものを創る・クリエーション・創作・捏造・模造・創ったものもほとんどの場合には複製という名のないものとして流通する。ところで、私たちは「作品そのもの」に出会えないのが普通です。お目にかかれるのはコピー(複製、ある意味で幻影)ばかりなのです。コピー数とかダウンロード数が多いほど、その「現物」の値段が高くなるのは皮肉でしょうか。


 宗教:見えないものに祈る、すがる・ないものを呼び寄せる・今はない状態の実現を願う・この世にないものを求める・あの世での便宜を願う。


 科学:(今)ないものを発見する・(今)ないものを発明する・(知覚でき)ないものを知覚する(観測・計測)・ないものをないままで、あるいはあることとして証明する。


 哲学:ないものである言葉を用いて、ないものをないものとしてもてあそぶ。


 数学:苦手なので分から「ない」です。考えてはいないことはないのですけど。数学批評(数学史ではないです)があれば、喜んで読むと思います。あるわけ、ないか――。


 ビジネス:そもそもお金は実体がないもの。ないものを欲する・投資する・投機する・生産する・成長させる。もともとないものを欲するわけだから、満たされない、切りがない。


 文学:そもそも言葉は実体がないもの。ないものを心の中で見えるようにする・ないものによって心を動かされる(フィクション)


 報道:(真実とか事実の検証という地道な作業がつきまとうはずなのにもかかわらず)声の大きさやレトリックや利害関係に左右されるのが報道の「真実」であり「事実」・「ある」か「ない」は保留して、あたかも「ある」ように見せかけるレトリックに長けたデマやプロパガンダやフェイクニュースが横行しているのは古今東西に見られる「真実」であり「事実」。


 以上は大雑把なメモですが、こうやって眺めてみると、ないものをめぐっての人の営みに共通するのは、ないものを想うことが、ないものを創る行為に発展するという身振りではないでしょうか。


 想像が創造に変わるとか、想像を創造に変えるという言い方もできそうです。自己啓発書みたいですね。いや、みたいじゃなく、そのものという感じがします。


        *


 いずれにせよ、大切なことはこうした身振りの根底にあるのは想像(あるいは思考)という、人の頭の中で起きることだという気がします。


 人の頭の中での出来事ですから当然のことながら「ない」のです。「ない」から自由自在にいじれるという意味で最強ではないでしょうか。実際に「ある」ものであれば、そう簡単にはいじれません。


 ない、最強。

 ない、恐るべし。


 人は、ないものの持つ力を利用して生きている。

 人は、ないものに依存(嗜癖)している。

 人は、ないものなしに生きられない。 


 これは、「あるもの」が手に負えないから、「ないもの」を「あるもの」と錯覚して手に負えるものとして扱うという、いわば魔法として人が身につけた身振りだという気がします。


 ややこしいですか。先ほど使った「想像」とか「思考」のことなんです。「妄想」とか「錯覚」といっても大差ないでしょう。「頭の中でおこなうシミュレーション」といえば格好がつくかもしれませんが、どう呼ぶかなんて趣味の問題だと思います。


 想像(妄想)、最強。

 想像(妄想)、恐るべし。


 頭の中では何でもできるという意味で最強なのです。また人は「ない」を「ある」と信じるとか思い込む、つまりその気になってしまうという意味で恐るべしなのです。


 まわりを見まわしてみてください。そんな気がしませんか。


 錯覚、最強。

 錯覚、恐るべし。


 語り得ないものについては、錯覚しなければならない。したがって騙るしかない。騙りまくるしかない――。


 それにしても、「ないもの」をめぐっての話をしているうちに、自分が「ないもの」を「あるもの」へと一向に創造していないことに気がつきました。想像ばかりで創造していないのです。


 やれやれ。どうやらこのまま終わりそうに感じられるこの頃です。



語り得ないものについては、錯覚しなければならない。

※この記事は「言葉は魔法」の番外編です。  私たちは毎日何かを見て生きていますね。「見る」という言葉で、何を見ることをイメ

kotobawamaho.blogspot.com


Much Ado About Nothing - Wikipedia

en.wikipedia.org




あとはレトリックだけの問題かもしれない



 ないものの力

 ないものの持つ力

 無いものの力

 無いものの持てる力

 存在しないものの力

 無の力

 無のパワー

 無の魔法


 存在しないものの力で人は動かされる。

 人は存在しないものによって動かされる

 人は存在しないものによって動く

 人は存在しないもので動く


 ないものを相手にする以上、それに自覚的であろうとなかろうと、レトリックを相手にしなければならない。


 レトリックだけが問題になるのかもしれない。


        *


 あることないこと

「ある」と「ない」

「有る」と「無い」

 あるということと、ないということ

 存在と無


 こういうふうに、ないことをめぐって言葉をいじることができます。レトリックで遊ぶとも言えるでしょう。


 言葉を使えば何とでも言えます。もちろん、読む人が乗ってくれるかどうかの問題は残ります。説得力があるかないかとも言えそうです。


「人は存在しないもので動く」という、この記事のタイトルも、あれこれといじった結果なのです。


「人はあるものではなくないものによって動かされる」では長たらしいなあと思い、

「人は「ないもの」によって動かされる」にしてみたところ、迫力に欠ける気がして、

「人は「無いもの」によって動かされる」でもイマイチなので、

思い切って「存在」なんていうあまり使いたくない漢語を持ってきて、

「人は存在しないものによって動かされる」でもまだるっこいので、

「人は存在しないもので動く」と縮めたわけです。


 きわめて地道で事務的というか、レトリックに翻弄されている、いや、もてあそばれているといいましょうか―。


 ないものを相手にすると、たとえば、こうなるという例でした。というか、私が言うレトリックとはこれくらいの意味です。要するに言葉をいじるわけですが、心がけているのはあくまでも「正確」であろうとすることなのです。意外に思われる方もいるかもしれませんが、本心です。


 以下は、ないものを相手にした場合の、レトリックに頼るしかない別の例です。


        *



 神秘的ですか? いや、そんなたいそうなものではありません。「何か」とは「餅」で、「その「何か」ではないもの」とは「絵に描いた餅」と考えると分かりやすいかもしれません。比較的モチがいいと言われる餅ですが、カビは生えるし、いつか腐敗するし、だいいちモチあるきにくいので、ヒトは絵に描いてモチ運ぶのです。でも、ヒトはそれが絵だということをすぐに忘れます。


(中略)


 あっさり認めるんですね。「『何か』の代わりに『その「何か」ではないもの』を用いる」って、話からそれてきていません? 


 そんなことはありません。説明の仕方が悪いみたいなので、別のたとえをします。「何か」とは「あそこ(ヒトぞれぞれですので、お好きな「あそこ」を想像なさってください)」、そして「その「何か」ではないもの」とは「あそこの映った写真とか、テレビの映像とか、ネット上に出回っている写真や動画」と考えると、すごく切実=リアル=ガッテン=あら、いやだ、に感じられるかもしれません。


 ちょっと、あなたったら。あら、いやだ……。


 ああいうものを見ていて、そこにはない=それ自体ではないにもかかわらず、燃えて=萌えて=催してきません? この場合には、燃えないほうが、きわめて危うい=ヤバいかと存じます。燃えてこそ、ヒトなんでしょうね。あれを見て燃えないなんてヒトでなしかもしれません。お分かりになりましたか?


(拙文「言葉は言葉(言葉は魔法・第5回)」から引用)





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