文字の顔

星野廉

2021/05/06 10:19


 ある文章について思い出そうとしているのですが、なかなか出てきません。自分にとっては、とても大切な意味を持つ文章なので、書き進めながら、何とか思い出してみます。


 まずは、その文章の前提というか、背景となる話から書きます。


 ヨーロッパのある国に、日本映画、それも 一九三〇年代から五〇年代に撮られた作品が好きでたまらない女性がいました。その女性が、日本からその国の大学に留学して文学を研究している男性と、恋愛関係になり、結婚しました。


 これは想像ですが、ふたりの仲を取り持ったのは映画だと思います。なにしろ、その男性の映画好きは度を越していました。現在も、そうです。半端じゃありません。


「自分より映画を愛している他者を認めない」


 そんな意味の、挑発的なタイトルのウェブサイトをコーディネートしているくらいです。今、コーディネートと書きましたが、サイトにある言葉をそのまま使っただけです。「公式ウェブサイト」なのでしょうか。その辺の事情は、自分にはよく分かりません。


 かつて、「さよなら、さよなら、さよなら」と三唱しながらこの世を去った、黒縁眼鏡のおじいさんがいました。映画関連の世界の伝説として残る存在だ、と勝手に思っています。あの映画の化身みたいだった人の向こうを張ろうとでもいうのでしょうか。それだけでも、すごいです。


     *


 その男性は、夫人を伴って帰国しました。大学の講師になり、子をもうけ、やがて助教授――昔の話です。当時はこの名称が生きていました――になりました。


 その助教授は、所属する大学でのアカデミックな仕事以外に、文芸批評や映画批評を専門誌に寄稿し、一部の若者の間でカリスマ的な存在になりました。親衛隊みたいに、その助教授に付きまとい、非常勤講師として授業を行っている他の大学にまで押しかける。そんな熱烈なファンまでいました。


 独特の文章を書く人でした。書かれている内容ではなく、その文章の書かれ方の虜になる学生も、たくさんいました。そうした学生の中には、亜流の文章を書く者も少なからずいました。


 その意味では、「焼跡闇市派」を名乗り、「黒眼鏡」をトレードマークにしていた、往年の流行作家と似ています。その独特の文体を模倣した、亜流の文章の氾濫という点で似ています。ただし、その助教授とその追随者たちの場合には、「氾濫」の規模は、「焼跡闇市派」連中のそれとは、とても比較にならないほどごく局地的なものでしたが。


 この記事を書いている自分も、その助教授――自分の在籍した大学では、その人は非常勤講師でしたが――の文章に幻惑され、呪縛されたひとりです。思えば、長い間、その影響下にありました。今でも、その名残を強く感じることがあります。


 時折、読点つまり「、」は打たれるものの、句点つまり「。」になかなかたどり着かない、長いセンテンスを書き連ね、漢字を多用した改行の少ない文体が特徴でした。しかも、改行が極端に少ないために、改行なしのページすらありました。読み手による好き嫌いが、はっきりと分かれるたぐいの文体でした。いや、「文体です」と書くべきでしょう。総長という地位を経て名誉教授となった現在も、その人は息の長い文章を書きます。


 字面が悪い。日本語としての美しさに欠ける。悪文。そもそも、文が長すぎる――。


 その人の文章の書き方に批判的な向きから、そんな意見が出たこともありました。この国の言葉で書かれた文章で「、」と「。」が記されるようになったのが、「つい最近」だという事実をうっかりお忘れになった方々の錯覚だったのだろうと理解しております。


「 」や( )も、濁点も、主語という概念も、ましてや「?」とか「!」も無かった長い時代があったという、義務教育でお勉強したはずの「知識」を思い出しましょう。字面が悪いなんて、無知から出る言葉以外の何ものでもありません。


 いや、えらそうなことは申せません。なにしろ、この文章を書いているのは、児童・生徒・学生時代には、国語が大の苦手だった者です。この国の文章と表記に関する点で事実誤認がありましたら、どうか、ご容赦とご勘弁を願います。


     *


 さて、その助教授の夫人である、さきほど触れた女性ですが、この女性もまた、語学学校やアカデミックな場で語学の教師として働きながら、夫と共に子育てをし、日本での生活に満足しているようでした。でも、やはり日本語には相当な苦労をしていたとの話です。


 ひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字の混在する書き言葉。敬語の複雑さ。そうした日本語のややこしさに日々悩みながらも、その女性は日本語を覚えようと必死で努力を続けました。


 その女性が、ある文章を書きました。確かエッセイだったと記憶しています。その内容からして、おそらく、原文はその女性の母語で書かれていて、その女性の夫が日本語に訳したものだと想像しています。


 その文章について、冒頭から思い出そうとしているのですが、記憶が定かではありません。それを書いた女性の名も、その夫の名も知っていますが、その文章のタイトルや、何に掲載されていたのかが、どうしても思い出せないのです。グーグルで、検索してみましたが、キーワードが足りないか不適切らしく、その文章に関するデータが得られません。


 今、述べましたように、さまざまな点について不明な話であるため、やむなく固有名詞抜きで、この文章を書いている次第です。申し訳ありません。


 内容は、次のようなことであったと記憶しています。


 その女性は、まだ日本語がよく分からない。日常会話には、それほど不自由しなくなったが、読み書きとなると、心もとない。夫は、毎日書斎で机に向かって何やら書いている。デスクの上の原稿を、見たことはある。その文字の連なりなら、何度か目にしている。でも、何を書いているのかは、さっぱり分からない。


 今、思えば、日本人でも、その男性の文章の内容を「理解した」と言い切れる人は、それこそ数えるほどしかいなかったにちがいない文章の書き手です。異国出身の夫人が読めなくて、当然でしょう。


 でも、分かる――。


 読めはしないけど、夫の書いた文章が雑誌に掲載されていれば、ぱらぱらめくっているうちに、それだと分かる。読めないが、分かる。愛するあの人の書いたものだと分かる。


 その女性の文章には、そうした意味のことが書かれていたと記憶しています。エッセイのテーマとは関係なしに言及してあった部分を、こっちが勝手に拡大して思い出しているだけかもしれません。やはり、固有名詞は出さないほうがよろしいようです。フィクションとして、このままお読みくだされば幸いです。


 なぜ、あの文章が、今もなお、これほど気になるのか。自分でも、不思議です。夫婦間の美談でも、男女間の神秘的な体験でも、国際結婚についての「ちょっといい話」でもありません。書かれた日本語の字面を感知できるようになった、一外国人の苦労話でもなければ、言語の実相を垣間見るなどという、大そうな逸話でもありません。


 あえて、一言つぶやくとしたら「感動」かもしれない。「感傷」とは遠い「感動」、むしろ知的な興奮に近い「感動」です。


 少なくとも、かつて、その女性の文章を読んだときの自分は、文字通り心を動かされたのです。それだけは、はっきりと覚えています。


 読めない。でも、あの人の書いたものだと分かる。


 こんな夢のようなことが、他の言語でもあり得るのでしょうか。日本語の豊かさ? 美しさ? 言霊? まさか。そんな抽象的なことではないと断言できます。


 となると、言葉の物質性、言葉そのものとの遭遇、意味から遠く離れた言葉。そうした小ざかしげなフレーズが、次々と浮かんできますが、「感動」の代わりにそうした空疎な言葉をつづるのは、きょうはやめておきます。


 なかなか思い出せないあの文章についての記憶を、今、改めてたどろうとすると、やはり感動のほうが先に立ちます。夢を見ているような、うっとりした心もちです。それでいて、むずがゆい、鳥肌が立つような興奮をうなじから両肩辺りに覚えます。


 その皮膚の感覚を大切にしたいと思います。あの幻の文章について、これ以上、言葉をこねくりまわすのは止めておきます。


     *


 話はがらりと変わりますが、よく「人面〇〇」と言いますね。なかなかおもしろい話です。犬や野菜などの、動物や生物一般。岩や石などの無生物。ちょっと変わったところでは、「人面瘡(じんめんそう)」とか、「人面疽(じんめんそ )」などという、尋常ではない言葉もあります。瘡も疽も、できものや腫れ物を指しますから、穏やかではありません。


 いろいろなものに仲間の顔を見てしまう。どうやら、人間には、そうした習性があるようです。困ったものですね。いや、困ることはないのかもしれません。その想像力というか創造力に、「すごいなあ――」と素直に驚嘆するべきなのかもしれません。


 自分も頻繁にいろいろなものに「顔」を見ます。人間であるという証拠だと観念もし、また喜んでもおります。見慣れたものに「顔」を見る場合が多いような気がします。たとえば、トイレの壁の模様の一部が、そうです。見るたびに、どきっとします。あそこが目、あそこが鼻、あそこが顎、あそこが口――。そんな具合です。


 似たような経験はありませんか? そうですか、やっぱり、ありますか? よかった。トイレの壁だけではなく、見慣れた天井の染みでも、同じような思いをすることがありませんか? ありますよね。


「うん、ある、ある」なんて言っていただくと、精神的に落ち着きます。ああ、よかった。自分だけじゃなかった。そんな安心感を覚えます。


     *


 ところで、文字に「顔」を見るということはありませんか? 今、ご覧になっているモニター上に映し出されている拙文を構成している活字でも構いません。ぼーっと眺めてみてください。「顔」が見えませんか?


 さきほども触れましたが、この国の文字には幾種類かがあります。漢字にいたっては、おびただしい数になるようです。


 また、明朝やゴチックなどという言葉でおなじみの、書体とかフォントと呼ばれている文字の形の分け方があります。同じ書体でも、大きさや、印刷の方法、紙質、テレビの画像として見るか、パソコンなどのモニター上で見るかによっても、印象が違います。そうした違いを気にしていては、肝心の意味を取るのに支障が出ますから、普通は「文字の顔」など気にしません。


 ずいぶん昔のことですが、活字のデザイナーを志したことがありました。写植機(写真植字機)のオペレーターになろうとも思い、その操作を教える学校にも通いました。タイポグラフィーと呼ばれる分野の本、印刷会社や活字メーカーが出している書体見本を集め、虫眼鏡で書体ごとの特徴を鑑賞する楽しみも覚えました。


 文字にはそれぞれ「顔」があるみたいです。少なくとも、個人的には、そう信じています。


 一口に印刷物と言っても、紙やインクの質、刷り上り具合やレタッチ(写真製版の修整)の状態によって、普段は気にも留めない違いが生じるのを知ったのが、そうした時期でした。今でも、新聞・雑誌の文字や写真を、虫眼鏡で拡大して見る習慣があります。趣味と言ってもいいかもしれません。時々熱中しすぎて、時が経つのを忘れてしまいます。


 書道、書写、写経という経験をなさった方も多いと思います。また、パソコンのワープロソフトを使って文字を表示あるいは印刷しようとしてフォントの選択に迷う。手書きで年賀状の宛名を書こうとして緊張したり、逆に集中力が薄れてきて何を書いているのか瞬間的に分からなくなる。本や雑誌を読んでいてだんだん眠くなり、活字を目で追うのさえ億劫になる。


 ハングルやアラビア文字で書かれたメールや手紙が届いて戸惑う。パソコンのワープロソフトで文章を書いていて文字変換にてこずる。読みにくい手書きの文字で書かれた文章を苦労しながら判読する。眼鏡を外した状態で目にしたぼんやりとした文字を見る。虫眼鏡で拡大しなければ小さな虫のようにしか見えない文字を前にまばたきする。


 以上は、視覚によって文字を認識するさいに、「文字が文字として感じられなくなる」体験だと考えることができそうです。つまり、「文字」に備わっているはずの「意味」や「読み」が、曖昧になる。または、文字が、「かたち」や「もよう」に見えてくるというわけです。


 普段は「読み取る」とは「分かる・悟る・学ぶ」「理解する・納得する・習得する」へと向かう行為だと言われています。それに対して、「文字が文字として感じられなくなる」体験は、「ぼんやりしている」「書かれている内容に集中していない」「ちょっと変だ」と言われそうな気がします。


 でも、その「ぼんやり」や「集中していない」や「変」は、誰もが日常生活で頻繁に経験しているはずです。さもなければ、起きている間じゅう、ずっと神経を集中していなければなりません。それだけの集中力は、人間には備わっていないようです。


 授業中、仕事中、自動車の運転中でも、状況は変わらない気がします。無意識のうちに適度に気を抜いているからこそ、然るべきときに集中できる。そんな感じではないかと思われます。


     *


 ぼけーっとする。


 この言葉とイメージが好きです。ぼけーっとするとき、人間は、無意識にいろいろなものに「顔」を見てしまうのではないでしょうか。だから、安心してぼけーっとしていられる。仲間たちに囲まれているような落ち着きを得られる。人間は森羅万象に「人間」を見ている。そう思っていても、この文章では、そこまでは書きませんが。


 ぼけーっとした頭で、こんなとりとめのない文章を書いているうちに、目の前のパソコンのモニターに並んでいる文字たちがいろいろな顔に見えてきました。文字の顔、字面、人面字という感じでしょうか。


 前のほうで紹介した、「愛するあの人の書いたものだと分かる」、「読めない。でも、あの人の書いたものだと分かる」という字面についての経験は、ある種のぼけーっとした状態でなければ味わえないものだという気がします。「ぼけーっとする」という言い方に抵抗があれば、「リラックスする」とか「宇宙に身を任せる」とか「癒やされモードでいる」でもいいです。


 いつも見ているのに、実は見ていないもの――それが文字の顔です。真剣に見ても見えないけど、ぼけーとすれば見えるもの――それが文字の顔です。ぼけーっとしていないと出会えないのです。


 この駄文の内容や意味なんか忘れて、たまには文字の顔を見てやってください。モニターは目に良くないですから、きょうの朝刊でもいいです。虫眼鏡なんかで、見出しや記事を拡大し、前後関係など無視して、文字の顔を見てやってください。もちろん、普段のように裸眼で見ても構いません。顔を見てやってください。きっと喜びますよ。


 文字は、いつも控えめにしていて、表に出ないように気を遣っています。それでいて、意味やメッセージや思想や情報などを信号として送ってくれているのです。けなげで、いとおしくて仕方ありません。


 ぼけーっとしましょう。ふざけてなんかいません。お酒なんか飲んでもいません。考えちゃ駄目です。理屈も抜きです。トイレの壁の模様や染みを見る要領です。ぼけーっとしましょう。文字に限りません。辺りを見回してみてください。顔に出会えますよ。



        ◆



※この文章はかつてのブログ記事に加筆したものなのですが、固有名詞を省くなど、わざとぼかした書き方をしています。戦略だったのです。この文章の顔に出会っていただくためでした。


 固有名詞の放つ光はあまりにもまばゆく、文章の顔どころか、ともすると文章自体を読めなくします。書かれていることが読めなくなるばかりか、書かれていないことを読んでしまうことにもつながります。これが先生から学んだいちばん大切なことなのです。


 再投稿にあたり、省いた固有名詞をこの記事のハッシュタグにしておきました。


  今回、この記事を再投稿する気になったのは以下の動画(「2021/04/30に公開済み」とあるので公開されて間もないものです)をYouTubeで見つけたからなのです。懐かしくて懐かしくて何度も号泣しました。


 私が大学生だった頃に、先生が奥様と腕を組み、幼稚園の制服を着たご子息がそばで歩いていた――夫人はご主人と同じ曜日にフランス語の授業を受け持たれ、坊ちゃんは大学と同じ敷地にある付属の幼稚園に通っておられたのです――目白のキャンパスでの姿が思い出されます。


 動画に挿入された当時の日本の風景もそのままよみがえってきます。切なすぎて胸が苦しいです。





筑摩書房 反=日本語論 / 蓮實 重彦 著

筑摩書房のウェブサイト。新刊案内、書籍検索、各種の連載エッセイ、主催イベントや文学賞の案内。

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蓮實庵

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新潮 2019年2月号 | 新潮社

新潮社がお届けする『新潮 2019年2月号』の情報 立ち読み 蓮實重彥/「ポスト」をめぐって——「後期印象派」から「ポスト

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        *


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