あれよあれよ
読んでいて気持ちいい文章があります。思いつくままに挙げると、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』、野坂昭如の『アメリカひじき』、蓮實重彦の『批評 あるいは仮死の祭典』、古井由吉の『仮往生伝試文』、井上究一郎訳 のマルセル・プルースト作『失われた時を求めて』 です。どうして気持ちがいいのでしょう。これは個人的な思いですから、自分で考えて答えるしかありません。
上記の作品に共通するのは、あれよあれよと読んでしまうという点でしょうか。意味とか内容とかストーリーなんてどうでもいい。少なくとも私にとってはそうです。だから理解とかは、あたまにありません。まして作者の意図なんて考えたことすらないです。で、あれよあれよですけど、これは読んでいて運ばれていく気分と言っていいかもしれません。「いまここ」しかない感じです。前も後ろも意識しません。それがあれよあれよなのです。あとは字面でしょうか。べたーっとした字面というか、すかすかはしていません。イメージとしては古文の原文に似た字面です。
私は古文が読めません。嫌いなのです。だいいち難しくてさっぱり分かりません。内容や意味は気にしないで読むほうなのですが、語句というか単語というか言葉のレベルで知らないものが続くと、読みようがありません。読んで気持ちのいいものしか読まないたちなので、古文は敬遠しています。
藤井貞和の『古典の読み方』という本が書棚にあってときどき手にするのですけど、ああ面白そうだとわくわくするのは一瞬で、五分もしないうちに「こりゃ駄目だ」と読むのをあきらめてしまいます。残念でなりません。いつか本腰を入れて読みたいという気持ちはあるにはあるのです。この本を読みかけたさいの瞬間的なわくわく感があまりにも強烈なので、いつかその快感が続いてくれればと望みをかけています。
センテンスレベルで言うと『コインロッカー・ベイビーズ』は完璧だと思ったことがあります。自分が小説を書くときに何度かお手本にしたほどです。読点なしの長いセンテンスが目立ちます。それでも難なく読めるのに驚きます。センテンス内の語句の配置が見事なのです。いつだったか、試しにいくつかのセンテンスをばらばらにして、それ以外の配置にして遊んだことがあります。何度も試みましたが駄目でした。たちまち読みにくくなるのです。元の配置がいちばんしっくりきて、それ以外にはないという感じでした。
段落レベルでも、各センテンスをつなぐ接続詞がきょくたんに少ないのに驚かされます。それなのにセンテンス間の違和を覚えません。然るべきところに然るべきかたちで収まっているとしか言いようがないのです。さらにセンテンスの長短のバランスが、まるで読み手の呼吸を計算したように巧みに加減されています。こういう文章が書けないものかと試してみましたが、なかなか真似ができるものではありません。
恐ろしい作家です。少なくとも私には。
私が持っている『コインロッカー・ベイビーズ』は新装版ではない講談社文庫版です。新装版を本屋で立ち読みしたことがありますが、別の作品かと思われるほどピンと来なかったのを覚えています。この失望感のまじった違和はなんでなんでしょうね。組版というんですか、レイアウトが違うと同じ作品が別の作品に見えるのは、私だけでしょうか。友達がいないので聞いたことはありません。この種の謎はそのままにしておくほうが心地よいので、追求するつもりはないです。
※「文供養」より。
この文章は、「文供養/文手箱」というマガジンに収めます。
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