第11話 符合

 わざと錆付かせたらしい洒落た鉄のドアを松長が引くと、音楽と幾重にも重なった声が耳に飛び込んで来た。松長の後から店内に入ると、煙草のけむりと人いきれの混じった粘り気を帯びた空気が顔をなでる。細長く奥に伸びた内部からたくさんの視線が一斉にこちらに向けられている気がする。

 静かな路地からいきなり騒々しい場所に入ったために、自分がかなり動揺しているのを感じる。きょろきょろしそうになるのを抑え、フロントでメニューを見ながら、松長にリードされて飲み物を注文する。

 注文が終わると、松長はわたしを前にして斜め後ろから肩に軽く手を置き、あちこちにいる知り合いの客に会釈したり声を掛けながら、店内をどんどん奥へと進んで行く。

 右はカウンター席、左は間隔を空けて細長いテーブルだけが据えられ、その上に飲み物や灰皿が置かれている。どの席も、どのテーブルも埋まっているように見える。

 いったいこれだけの数の男がどこから集まって来たのだろう? 仲通りに面した奇妙な店の前に立っていた男たちとは、少し違った雰囲気の客が多い気もする。不安と期待と疑問でのぼせそうになったわたしは、恐ろしく深い洞くつに入っていくような錯覚に陥った。

 途中で松長が年齢不詳の短い髪をした人に呼び止められ、わたしたちはいったん立ち止まった。二人は英語で話しているが、速すぎて聞き取れない。二人とも英国風の発音で話している。わたしは大学で英語だけで行われる授業を取っているが、それを受け持っている男性教師の神経質そうに響く話し方を思い出した。

 店内が暑いのか、わたしが興奮しているからなのか、額に浮かんだ汗が玉になってくるのが分かる。客全員が男。それもさまざまなシーンで今流行している服を身に着けた若者が目立つ。

 英語でのやり取りを済ませた松長の手が、再び肩に触れる。わたしたちはさらに奥へと視線の中を泳いで行った。

 一番奥のカウンターに腰掛けていた少年たちが松長を見て、わたしたちに席を譲り、向かい側のテーブルだけのスペースへと飲み物を手にして移動していく。

「悪いね」

「お年寄りは大切にしなきゃ」

「いい心がけだ。五年後に、誰かに恩返ししてもらえるよ」

「五年後? 十年後の間違いでしょう」

 松長とそんな会話を交わした十代後半に見える少年が、わたしの体に上から下へと視線を走らせる。わたしも負けずに横目でにらみ返す。

 わたしたちは譲られた席に腰掛けた。カバンは、ほかの客たちに習い、テーブルの下に設けられた出っ張りに突っ込む。注文したドリンクが来た。グラスをくっつけて乾杯したころには、わたしもようやく落ち着き、店の造りの細部を観察する余裕ができた。


 細長い店の内部は実際にはそれほど広くはない。長い洞くつを通ってきたような気がしたが、フロントからの距離も思ったほど長くはなかった。壁の所々に張られた大型の鏡が、広い錯覚を与えている。間接照明を使った柔らかな明るさの中で、天井に設置されているらしいブラックライトに照らされた客たちの衣服の白い部分と笑ったさいに覗く歯が蛍光を放つ。音楽は洋楽ばかりだ。

 わたしは目の前にあるジントニックの入ったグラスと、テーブルの上に置かれた灰皿やブックマッチに入っている文字に目をやる。デザイン化された文字で「DISTANCE」とある。ディスタンス、距離、隔たりと言葉が頭に浮かぶ。

 隣の松長がわたしの目線に気付いたのか、ブックマッチを手に取った。

「ばらばら」

「えっ?」

「公園のそばで、君は言った。人は言葉や場所やネットでつながっているように見えるけど『みんなばらばら、ひとりっきり』だって」

「ええ、そう思う」

「ここも、そう?」

 わたしは、肩越しにフロントのほうに目をやり、店内を一望する。

「ええ、そう見える」

「ぼくも、同じように考えている。人は言葉や集団ではくくれない。みんながそれぞれの自分をかかえて生きている。それが現実だし、それでいいとしか言いようがない」

「寂しい」

「だから、集まるんだ。そうやって、つながろうとする。それも事実だ。受け止めるしかない」

「松長さんの話って難しい」

「難しくはないさ。体で現実を受け止めろって言ってるだけ。人には五感があるし、第六感ってものまであるそうじゃないか。だったら、それを総動員して現実に立ち向かえばいい」

「でも、それで他人を傷つけたり、逆に自分が傷つくことがあるとしたら?」

「甘えちゃいけない。戦えばいい。それができないなら、戦えるだけの力を養う努力をすればいい。それまで他人に頼っちゃだめだと、ぼくは思う。戦う力をつけるために、他人の助けを借りるくらいなら構わない。でも、最後に戦うのは自分だ」

「戦う?」

「そうだよ。戦う。誰かと一緒に戦うこともできる。好きになるとか愛するというのは、その一緒に戦う相手を求めることだとも言える」

「少しだけ分かったような気がする。ほんの少しだけだけど」

「よかった」

 わたしははっとした。ディスタンスには、ばらばらな状態の意味もあるのではないか。だから、松長は急に「ばらばら」なんて話を蒸し返したのではないだろうか。今いる店の名と自分が口にした言葉との符合に驚く。同時に、わたしは、さっき公園脇の歩道で松長に上体を抱かれたことを思い出した。

「最初、ぼくは君が単なる個人的な趣味から男の子の格好をしているのだと思った」と、松長はジントニックを飲み干した後に語り始めた。「そうした女性を、この辺りでもたまに見掛けるからね。そういう格好と関係があるなしは別にして、女性同士の交際を求める人たちの店も、この近くに何軒かあるらしい。ぼくは、よく知らない。ただ、君は、そういう女性に持てるタイプにも見える」

「そうですか」

「たぶんね。いずれにせよ、ぼくは中性的な人に引かれる。男っぽさを過剰に意識した男や、自分が女性であることに安住している女性には引かれない。こういうのは、男に引かれる男よりも、中性的な少年に関心のある一部の女性のほうが理解してくれるんだけど」

 音楽と周りの声がうるさいため、松長はカウンター上でわたしに顔を寄せて喋っている。時にはその距離が近すぎはしないかと思うこともあるが、嫌な気はしない。むしろ周りの目を意識して、意味もなくほほ笑み返している自分がいる。二人して何か秘密のドラマを演じているような共犯めいたときめきを覚える。

 松長は店の中の客の大半を知っているようで、時々店内を見回し、そのたびに誰かと目礼を交わしたり、手を上げたりする。中には松長を見つけてわざわざ近寄り、「松長さん、また違った子を連れて来ている」と言う若い人もいる。

 そんな言葉を聞くと、わたしはほおがほてるのを感じる。平気を装っていいのか。怒った振りをすればいいのか。曖昧な立場に置かれた自分を感じる。わたしは亡くなった弟の格好をした島田香織、つまり島田光太のイミテーションである女としてここにいるのか、それとも、単に男の格好をした島田香織という女としてここにいるのだろうか。

 そうした迷いがあるため、作る表情を決めかねる。松長というワルにナンパされ、だまされているお馬鹿な男の子だけには見られたくない。でも、周りはそう見ているにちがいない。

 ただ、自分が自分以外の存在を演じているという思いは心地よい。できるなら、このままずっとその思いに浸っていたい。今ある自分を消してしまいたい。自分が演じている役柄に侵されたい。

 甘美な夢のような時の中で、わたしは弟のことを次第に忘れつつあった。わたしはその危うさに気付き、話題を弟へと移した。

「あの子もこの店に来ていたらしい」

 わたしは再び店のネーム入りのブックマッチやグラスの話をした。

「その子を見たことはあるよ。でも、はっきり言って興味はなかった」

 昼間にこの街に初めてやって来たような「掘り出し物」を松長が求めていることは、既に聞いている。松長の話では、この街で光太を最初に見掛けたのは今年の四月だったように思うという。予備校に入るために、光太が上京して間もないころだ。短期間のうちに、光太はこの界隈や、携帯電話でつながりあっている男や男の子たちのあいだで、よく知られる存在になったらしい。

「断っておくけど、これは噂として聞いただけだ。ぼくは知らない」

「やっぱり相当遊んでいたんだ、あの子」

 ちょうどその時、松長は知り合いから背中をつつかれ、わたしに断って席を立った。わたしは三杯めのジントニックに口をつけた。


 一人になったわたしに対し、松長と一緒にいたときよりも露骨に視線を投げてくる者もいる。男が女を見るさいの誘うような目配せもあれば、女が女をライバル意識を持って見るときの意地の悪そうな目つきもある。酔いも手伝い、わたしはわざと媚びた表情を作ったり、相手を小馬鹿にしたような視線を返したりして、ひとり楽しんでいた。

 会話の相手を失い、自分でもドリンクを飲むペースが速くなっていると感じる。うちの家系の女は誰もがアルコールに強い。それでも、少し心配になってきた。目の前のジントニックがブラックライトの下で透き通った南の海のように青く光る。

 激しい曲のリズムが充血した脳細胞を揺さぶる。酔いが回ってくるのを感じる。悪い気分ではない。男? 女? 光太? 香織? 自分が演じている対象がふと不明になる瞬間がある。男たちの視線ゲームに加わりながら、自分の性も名前も演じている役柄も今ある状況も忘れそうになる。

 ふと気付いたときには、静かな曲に変わっていた。心細さを覚え、グラスに残っているジントニックを氷と共に一気に口に含み、後ろを向いて松長を探した。

 松長はフロントに近いカウンター席の横に立ち、地味な格子柄のブレザーにジーンズ姿の男と話していた。相手はさっき松長を呼びに来た男とは違う。松長がわたしの目に気付き手を上げた。わたしは口に含んだ氷をがりがりいわせてかみ砕き、ふくれっ面を作り、再び正面を向いた。

 格子柄のブレザーを着た男を伴い、松長はすぐに戻ってきた。友達を紹介するからと言って松長はわたしの肩を抱いた。

 松長の口から漏れた突然のうそに驚く。わたしはカオルという名で、ブレザーを着た男に紹介された。男は上田と名乗った。面と向かっても目を合わせようとしない男だった。

「ねえ、カオル君って誰かに似ていない?」

 アルコールのせいで顔に赤みがさしているが松長は相変わらずの済ました表情で上田に言った。わたしは松長が何を言い出すのか見当がつかずはらはらした。

「眉や口の形なんか、そっくりだろう?」と、松長は続けた。

 シャイなのだろうか、上田はまぶしそうな目でわたしをちらりと見てから、再び視線をそらせた。

「誰に?」と、上田が間接照明の下でも真っ赤に見える顔をして尋ねた。

「おまえが好きだった子に決まってるじゃん」

「おれ――」

「おい、逃げるなよ」と、松長はわたしたちから離れようとした上田の腕をつかんだ。「似てるだろ? 会ってすぐにそう思ったんだ」

 上田がちらりとこちらに視線を投げた。

「もっとびっくりさせてやる」と、松長はポーカーフェースを崩さずに言った。

 目の前で松長が演じている「お芝居」に急に腹が立ち、松長に翻弄されている上田がかわいそうに思えてくる。わたしは、スツールに腰掛けたまま体を回し、松長の足を目がけて思い切り蹴った。

 松長が冷静にわたしの様子を観察していたのかどうかは分からない。酔っていたために、わたしが頭の中で描いていた動作と実際の動作が一致しなかっただけなのかもしれない。松長が身をかわし、蹴りは不発に終わり、わたしは片足を上げたまま仰向けに倒れそうになった。

「おいおい、ここはスケートリンクじゃないよ」

 松長がわたしの体を抱いて支えた。

「実は、カオル君は、ヒカル君の双子の兄弟なんだ」と、松長はわたしをスツールにきちんとした姿勢で腰掛けさせながら上田に言った。

 上田が顔をしかめた。

「松長、おれはそこまでおめでたくはないぞ。話が出来すぎだ。冗談はよしてくれ」

 はっきりとした口調で上田は言った。人の良さそうな上田は、これまで松長の冗談の犠牲に何度もされてきたに違いない。そんなことが想像される。

「もちろん冗談さ。でも、似ていることは事実だ。それは認めるだろう?」と、松長は平然と言った。

 場がしらけた。わたしは再度松長の足を蹴りつけたい衝動に駆られた。一連の出来事を目の当たりにして、わたしの酔いは冷めかけていたが、酔った振りをして松長に寄り添いながら、上田に聞こえるくらいの声で冗談ぽくささやいた。

「上田さんは、ヒカルの前の彼氏だったの?」

「いや、こいつの片思い」

「ふーん。ヒカルって持てたんだ?」

「大変なもんだったよな」と、松長が上田を横目で見ながら言った。

「おれ、上田さんのこと好きかも」と、わたしは思いもしない言葉を口にしていた。

 上田はハンカチで額の汗を拭いながらフロントへと向かい、店から出て行った。


 音楽と客たちの声でうるさいにもかかわらず、わたしたちの会話は、周りの者たちの耳に入っていたらしい。

「君って、本当にヒカルの双子の兄弟?」

 三人連れの少年たちが寄って来て、そのうちの一人が聞いてきた。

 とっさの判断ができかねて、わたしは松長の顔を見た。とぼけた表情でそっぽを向いている。いかにも松長らしい。

「そうだよ。おれのほうが兄」と、わたしは居直って答える。

「うそー。そんな話全然聞いていない」

「『聞いていなかった』だろ。もう過去の話じゃん」

「ホクロはないんだね」

 少年がわたしの目元に視線を当てる。

「右目の下のホクロだろ。同じ形のが背中にあるらしい。見たことはないけど」

 にやりと笑いながら、嘘がすらすら出てくる自分に驚く。わたしは光太の兄という新しい役柄に自分がなりきっているのを感じる。

「髪型と着ているものが似ているから、君が松長さんと入って来たときから、噂し合ってたんだ。ほおの感じと、髪の感じがちょっと違う。ジェル持ってる?」

「いいや」

「おれ、持ってる」と、もう一人の少年が言って、さっきまでいたらしいテーブルに向かい、角ばった革のカバンを手にして戻って来た。中からジェルのチューブとブラシを取り出す。

「そのままにしてろよ」

 わたしがカウンターを背にしておとなしくスツールに腰掛けていると、その少年はジェルをわたしの前髪の付け根に押さえるようにこすり付けた。

「これでも、ちょっと違うな。もっと全体的に髪を上げていたんだよ」

「おいで」

 言われるままに付いていくと、ジェルとブラシを持った少年はトイレのドアを開けた。当たり前のように、ドアを手で押さえている姿を見て、わたしはためらわずに中に入った。

 ドアが閉まり、手洗いの鏡の前に立たされる。少年は指を水道の水で濡らし、ジェルを手のひらにたっぷり付けて両手をすり合わせた。

「よし」と声を出し、「頭を動かすなよ」と断り、両手の指を開いて、器用な手つきでわたしの髪を撫で上げていく。

「髪が細いね。触っていると女の子みたい」

「女みたいで悪かったな」

「だから、じっとしてろってんの」

 わたしは光太が硬い髪質だったのを思い出した。美容室でカットされた髪を、ジェルやブラシを使って自分なりにアレンジしていたのだろう。この男の子は、それを再現しようとしている。

 カウンター席に戻ると、残っていた二人が拍手した。松長までつられて手を叩いている。

「そう、こんな感じ」

「写真、撮ってよ」と言って、わたしはポケットから光太のケータイを取り出した。

 最初に話し掛けて来た少年が、正面から二枚と左右から一枚ずつ撮ってくれた。

「これ、ヒカルのケータイじゃない?」

「うん。形見だよ。警察から返してもらったやつ。そういうこととか引越しとかあって、おれ、名古屋から来たんだ」

「形見か? よく戻ってきたな」と言いながら、少年は左手を差し出しケータイをわたしに手渡した。


 その少年の手首に、光太の持っていたのと同じ型のタグホイヤーがあった。光太は、物に対する執着心に欠けるところがあった。高価なものでも、飽きると平気で友達にあげてしまう。光太がその少年に腕時計をくれてやるさまが、頭に浮かぶ。『これ、あげるよ』という声まで聞こえる。


 光太の形見。ケータイなんか、形見じゃない。このケータイがあの子を奪ったんだ。


「おれ、あの日、ヒカルに薄手の革ジャンを貸してやったの。イタリア製のすげえ高いやつ。暑いからって言って、あいつ、タンクトップの上に着て出掛けていった。それっきり。あの革ジャンは、もう戻って来ない。上半身が、ずたずただったって話じゃない」

 わたしは突然、めまいと吐き気を感じた。渡されたケータイを思い切り床に叩きつけ、少年の手首にあるタグホイヤーを奪い取ろうと、手を伸ばした。きーんと耳鳴りがして体が傾いていく。重心を失った。誰かが、わたしを抱きすくめた。


 気が付いたときには、松長の胸元に顔を埋めて泣きじゃくっていた。