【掌編小説】反・少女

「ここ、よく来るの?」

 店から出ると、横で男の声がした。真琴は立ち止まった。男が笑みを浮かべて、今真琴が出てきた店を顎で指している。男の顔は平均以下だが、歯並びが妙にきれいだ。年は二十歳前後だろうか。ダークグリーンのコーチジャケットの下に、薄手の淡い草色のフリースジャケットを重ねて着ている。フリースのファスナーは首まで引き上げられている。

 外は寒い。真琴は身震いしそうになるのを堪える。

「何か用ですか?」

 補導員だろうか? 繁華街を見回っているPTAの役員にしては若い。それともナンパ?

「やっぱり、女の子か」と男が言った。


 紺のダッフルで体の線を隠しているのに、どうして分かったのだろう。髪型も、ついさっき勇気を奮ってアピタの男子トイレに入り、洗面所の鏡で最終チェックしてきたばかりなのに。歩き方で分かったのかな? 練習が足りなかったのかも――。真琴は思う。

「少し話さないか? 別にあやしい人間じゃないつもりだけど」

「だから、何か用ですかって聞いているんじゃないですか」

「いやあ、別に用ってわけでもないけど、ただ女の子なのに、ああいうのを買うなんて珍しいと思っただけ」

 そのまま振り切ろうと思ったが、相手の思惑も知りたかった。それにきょうは日曜日だ。時間もある。少し様子を見ようと真琴は下手に出ることにしたが、敬語で通すのもしゃくに思えて、わざと「おじさん」と呼んでみる。

「おじさんも、よく来るの?」

「いや」

 男は少し考えるような顔つきをした後、そのまま立ち去ろうとする気配を見せた。路地だが人通りはある。路上で突っ立っている二人に周囲の視線が集まり始めている。

「ねえ、おじさん、いきなり失礼じゃない?」

 男は眉をしかめた。話し掛けたのを後悔しているようにも見える。真琴の言葉を無視する気なのか、男は視線を下に向けて来た道を戻り始めた。


「ちょっと待ってよ。声を掛けておいて何よ、その態度は?」

 真琴は追いかけた。怖いが、いざとなったら声を上げればいい。周りには人もいるし、品物を店外の道にまで広げている八百屋も近くにある。

「大きな声、出すわよ」と脅すと、男は「しょうがねえなあ」と言い、真琴が出てきたばかりの店の斜向かいにある、雑居ビルを指さした。

「あの中へ入ろう」

 真琴は不安になった。

「嫌だったら断ればいいんだよ」

 男はにやにやしている。

「当たり前じゃん」馬鹿にされていると感じた真琴は、意地になった。「嫌だったら断るよ」

 一瞬、男は鋭い視線を真琴に向けた。真琴の頭の中では、胸ぐらをつかまれて、どこか人けのない所へと引っ張られていく想像の中の少年の姿がちらつく。女だとばれてよかった――。心の奥に、そんな安堵があるのを感じる。


「それ、よく買うの?」

 にやにやした表情に戻った男が言い、真琴が手で押さえているショルダーバッグに目を注ぐ。どうして知ってるのよ、という言葉が出掛かったが抑えた。男の思うままに操られている気がして、無性に悔しい。

「おれと一緒に来るの? それとも帰るの?」

 男は相変わらず、薄笑いを浮かべたまま言う。

 バッグは兄のもので、普段なら外出時には足を入れることのないスニーカーを履いている。そこまでしてあの店に入ったのに、こんなところで足止めされている自分が間抜けに感じられる。だが、このバッグの中にあるものと関係のある話なら興味がある。

「ちょっとだけなら」

 気になる質問には直接答えず、男が指さした雑居ビルを顎で示した。

「じゃあ、行こう」

 男は平然とした表情でさっさと歩き出した。


 ひょっとして、かなりやばいやつかもしれない、と真琴は思う。だが、ここで逃げるのもしゃくだ。それより、なぜバッグの中身を知っているのだろう。恐怖心より、その疑問のほうが大きかった。

 男の後ろ姿を見て歩きながら、売春をしている同じ学校の女子生徒たちのことが頭に浮かんだ。彼女たちは地元のS市だけでなく、静岡にまで出かけて「お仕事」をしているという。真琴は自分がそういう生徒たちの一人になったような気分を味わっていた。

 悪い気持ちはしなかった。むしろ誇りに似ている。それが意外だった。男の背中に「売春」という二文字が書かれているような気がした。あの子たち、こんな気持ちでやっているのかな? 真琴は早足で進む男の後を追った。


 五階建ての雑居ビルの三階に、その部屋はあった。オフィスらしい。応接セットのソファに座るように言われた真琴は、男の行動を見守った。男は、ソファから離れたデスクに置かれたノート型パソコンのモニターを眺めている。真琴のいる位置からはモニターは見えない。

 このビル全体は静かだが、隣のビルとの間が狭く、外から女性たちの話し声が聞こえてくる。こちらの窓は曇りガラスで閉まっているのに対し、境を隔てた向こうのビルの部屋は、窓を少し開けているらしい。ときどき、会話の断片がはっきりと聞きとれる。

 部屋では、沈黙が続いている。屋内にいる男は思ったより年上に見えた。髪型や格好は若作りをしているが、案外三十くらいは、いっているのかもしれない。部屋のあちこちに目を走らせる振りをしながら、真琴は男を観察した。


「どこに住んでるの? 市内?」

 男が口火を切り、ソファに腰掛けている真琴に視線を投げた。

「いきなり、失礼じゃないですか」

 真琴は相手の目をまっすぐ見て言った。

 にらまないように無表情を作る。いつも突っ張っているクラスメートの雰囲気を真似る。むすっとするのでもない。相手の存在を無視する。それでいて頭の中で、『ばーか、ばーか……』と何度も言い続け、ほんの少しだけその気持ちが顔に表れるように念じる。

「そりゃそうだ」男はあっさりとした口調で言った。「いきなり、どこに住んでるの、はないよな。話題を変えよう。きみ、高校生? ごめん、また、お巡りみたいな口をきいてしまった――。やっぱり、女の子は話しにくいなあ」

 男は声を出して笑った。


「質問していい?」真琴は単刀直入にいくことにしたが、男は真琴の問いを無視してラップトップへと視線を戻した。「どうして、このバッグの中身のこと知ってんの?」

「おまえなあ、やっぱり、ここから出て行け」と、男は低い声でゆっくりと言った。

「馬鹿にしないでよ。入れって言ったのは、あなたじゃない」

 自分でも驚くほどの声を上げていた。隣のビルから聞こえる女性たちの声が、自分の度胸を支えてくれているような気がした。

「おまえが勝手に入ってきたんだぞ」と、男は押し殺した低い声で言った。

 男が声を抑えているのは、隣のビルを気にしているらしい。真琴は、脱がずにいるダッフルのポケットから防犯ブザーを取り出し、男の目を見ながら、リングチェーンを引っ張る真似をしてみせた。

「て、てめえ、とんでもねえやつだなあ」

 男と真琴は、ほとんど同時に立ち上がった。

「とにかく、邪魔をしないでくれ」

「さっきから、何を見てるの?」

 真琴は、デスクに近づいた。慌てた男が、ノート型パソコンを閉じようとしている。真琴は、再び防犯ベルのチェーンを引く動作をした。

「待て――」

 男は片手を差し出し真琴の行動を制すような振りをした後、閉じかけたパソコンを開いた。真琴はさらにデスクに近寄った。二人とも立ったまま、モニターの画面に見入る形になった。


 真琴のショルダーバッグ内には、DVDが3枚入っている。さきほど出て来たショップで買ったものだ。その店内の様子が、モニターに映し出されている。インターネットに接続するものだと真琴が思い込んでいた、パソコン脇の小さな器械に、アンテナがついている。どうやら、あの店の防犯カメラとパソコンとを、その器械が無線でつないでいるらしい。だが、どこかが変だった。

 モニターを見ていて、真琴は気づいた。画面には、店の奥の一角だけが映し出されている。裸体や、それに近い格好の男性や男性同士が被写体になっている商品専用のコーナーだ。

 あの店には、成人向けのビデオやDVDばかりが売られている。防犯カメラの位置は、店内に入ってからちゃんとチェックしておいた。ああいう特殊な商品だけが置いてあるコーナーだけを写しているカメラなど、なかったはずだ――。隠しカメラに違いない。


 真琴はしばし言葉を失っていた。男も押し黙っている。真琴は、急に尿意を催した。ここのトイレは借りたくない。部屋から出たい。でも、何と言えばいいのだろう。

「一つ聞いていいかな――」真琴は、無意識のうちにそんな質問を口にしていた。「どうして、女だって分かったの? わたしが店にいるのを見ている時には分からなかった。だから、声を掛けてきたんでしょ」

「声を聞いて分かった。声だけは、ごまかせないもんだよ」

「じゃあ、いちおう、どっちかなって迷ったわけだ」

「まあ、そういうことだな」と男は言い、笑みを浮かべた。


「帰る」と真琴は言った。

 男は、しばらく考えるような表情を見せ、「おまえ、高校生だろ。生徒手帳はないか」と低い声で言った。

「ない。けど、これならある」

 尿意を我慢できなくなってきた真琴は、歯科医院の診察券を見せた。男は、医院の名と真琴の氏名をメモした。

 外に出た真琴は、トイレのあるデパートの方角に急ぎ足で向かい始めた。そのとき、背後から声がした。

「失礼ですが、お話を聞かせてください」

 男が二人立っている。背の高いほうの男が、上着の内ポケットから黒い手帳を差し出す。もう一方の男はしきりに、真琴の胸あたりを見つめている。


        *


「それで、わたし、いったんトイレに行かせてもらって、それでもって駐車場に連れて行かれて、その刑事さんたちが停めていた車の中で、あのビルにいた男のことをいろいろ聞かれたわけ――」

 真琴はそう言って、五杯めのウォッカ・トニックを飲み干した。私もそれに合わせて、ペリエ・レモンを口に含んだ。店内がだいぶ混んできた。カウンター席で並んでいる私たちの背中に、時折ほかの客の肩や腕が当たる。真琴の高校生時代の話はまだ終わっていないようだ。

「もう一杯、飲む?」

「おごってくれるの?」

「飲みすぎじゃなければ」

 真琴がアルコールに強いのは承知しているが、礼儀上、そう言っておく。私は真琴が好きだ。男女間の友情を信じる私にとって大切な人の一人だ。顔見知りになって、もう七年近くになる。だが、こんなに長く話しているのは初めてだ。

 男装とまではいかないが、真琴の髪は短めで、いつも中性的な服装をしている。きょうは、肩パッドが目立つ、ダークグレイのスーツを着ている。シルエットは明らかにレディースものらしく仕立ててある。胸が豊かなのは隠せない。と言うより、隠す気などないに違いない。そんな人だ。

 ドリンクが来た。乾杯をする。

「恐喝していたのよ、あいつ。店の経営者と組んで――」

 真琴はそう言って、リップクリームだけを塗っているらしい、小さなホクロのある唇をグラスにつけた。