今ここで
2021/04/02 08:20
ここはどこなのでしょう。
考えれば考えるほど不明になります。PCの前にいる、居間にいる、住所を番地まで付けてきちんと口にしてみる、各種の地図で見当をつけてみる。住所をグーグルで検索するとストリートビューでうちの様子が映像として出てきます。
ストリートビューは面白いですが、考えようによってはとても怖いですね。いろいろな意味で恐ろしくなります。画像を操作していると、写真が地図になったり、その縮尺を自由に変えたり、さらに拡大すると上空から見た写真になります。
衛星写真を頼りに一軒家を見つけて現地を訪ねていく番組がありますが、あれも詮索好きでお節介な話です。詮索好きな私は、高校生の時にホームステイした家や見学したハイスクールなど(今後ほぼ絶対に再訪できないであろう場所です)をストリートビューで検索してみたことがありますが、懐かしいどころかどきどきしました。知り合いの住所でも試してみたことがありますけど、後ろめたいです。
ストリートビューで「世界旅行」を楽しんでいる人もいるみたいですね。私は知らない土地だと後ろめたさが薄れて、道を進みながらの景色を楽しむことができます。
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ここはどこなのでしょう。
世界地図や衛星写真や地球儀で、このあたりかなとポールペンの先でこつこつと突いてみる。ここは日本国にある〇県〇市〇町〇番地。ここは地球。ここは太陽系。ここは銀河。ここは宇宙。
言葉でしか知らないのに客観的と言われている「何か」をどんどん「広く」「大きく」していくと、それにつれて抽象度が高くなる気がします。それだけ体感では確認できないものになり遠ざかっていくという意味です。
ここは宇宙(あるいは地球)であることだけは確かだ。間違いない。事実だ。真実である。そんなふうには思えないのです。飲み込みが悪いのでしょうか。昔からとろいとは言われてきました。偏屈だとも言われてきました。確かにそうだと思います。異議はないです。
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恥ずかしい話なのですが、私は未だに天動説を信じています。「未だに」と書いたのは、子どもの頃には太陽や月や星が動いていると信じて疑わなかったからです。まして地球が丸いなんて思いもしませんでした。
「恥ずかしい」と書いたのは、揺れているからです。その時の気分で地動説と天動説の間を行ったり来たりしています。地球が丸くて太陽の周りを回っているという話は学校で習って知っていますが、地動説をどうしても体感できません。そんなわけで、二つの説の間で揺れています。
丸いという意味の「地球」ですが、その地球がどんな形をしているかは見たことはないし知らないけど、夜のうちに地球の反対側をまわるような形で、太陽が地球の周りをまわっているように「見える」。でも、「本当は」、地球のほうが太陽の周りをまわっている。そう習ったのだから、そうなのだ。うんうん。
そんなふうに自分に言い聞かせます。これが昼の思考です。恥とか外聞とか世間体に縛られているのが昼間の自分だと言えるでしょう。夜になると、まして夜中に目が覚めた時には、恥も外聞も世間体も気にしない境地にいるので、堂々と天動説を信奉しています。これが夜の思考です。
人は子ども時代に天動説を信奉し、やがて地動説に改宗するが、その後も密かに天動説の信者であり続けるとも言えそうです。これに類したことは、他にもたくさんあるに違いありません。
さらに言うなら、人は夜には子どもになります。夜は体感が人を支配するからです。それを退行だと言う人がいるのは知っています。
体感できない「事実」や「真実」と呼ばれるお話を、私は抽象と呼んでいます。私にとって抽象とは絵空事とほぼ同義であり、これが事実だとか真実だとか普遍的なものだと、体感を裏切る形で頭の中で「言い聞かせる」しかない類のものだと考えています。
「言い聞かせる」を「そうだと信じる」とか「そうだと妥協する」とか「そうだと決める」と言い換えても事態は一向に変わりそうに思えません。
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ここはどこなのでしょう。
時間と場所つまり空間は一緒だなんてお話を聞いたり読んだりした覚えがあります。信じがたいお話なのですが、そうらしいのです。
ここはいつなの?
そう考えたことはありません。試しに「ここはいつなのか」と今考えているのですが、面白いには面白いです。話として面白いのです。PCに向かっていると、画面の右下に西暦、月日、時刻が表示されます。それがここにおける「今」であり「現在」なのでしょうか。分かるようで分からない不思議な気持ちになります。やや引っかかりはありますが、いい気持ちでもあります。
自分の年齢を思い出してみる(よく忘れます)。唯一の家族だった母の享年と、今生きていれば何歳なのかを考えてみる。日頃よく読んでいる作家の生年月日や没年月日を調べてみる。そうやって自分のいる位置を確認してみる――。ずいぶん抽象的なことをやっているなあと思う自分がいます。
今ここで、今とここについて考えてみる。時間と空間、時空。時間と空間について考える際には、どうやら自分の体感を裏切ったり無視する必要があるようです。昼の思考の下にいるから、そう思うのかもしれません。体感、頑張れ。
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今とここについて考えてみる時には、どうしても自分というものを念頭に置かずにはいられない気がします。
自分とは何ぞや、私は誰なの?、私とは何なのか、こういった疑問をいだくことはありません。考えたことはないとは言い切れませんが、考えた記憶はないです。興味がないのかもしれません。
自分とは何か、人間とは何か。こうした問いを見聞きすると、嘘っぽさを感じます。愛とはなにか、真理とはなにか、神とはなにか――。笑いそうになります。
眠いです。先ほどから眠くて仕方ないのです。この辺で失礼して、少し横になります。体感だけの世界に入ろうと思います。
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