第5話 大丈夫

「本当にいいんですか」

 店に備えてあるヘアカタログで髪型を指定すると、男性の美容師はハサミを入れる前に念を押した。気心が知れない初めての客に対するマナーの一つなのかと想像する。

「ばっさりとお願いします」

 わたしは努めて明るい表情を作りながら答えた。美容師の探るようなまなざしが瞬間的に笑顔に変わった。失恋後の気分転換に髪を思い切り短くする女には見られたくない。

 弟は亡くなる数日前に携帯電話でメールと画像を送ってきた。髪型を短くしたから見てくれというものだった。

『ちょっとレトロな感じだけど、ロンドンで流行っているんだって。気に入ってまーす』

 そんな内容のメールと一緒に送られてきた写真二枚には、それまでの長めだった髪をばっさりとカットした弟の澄ました顔が映っていた。一枚は正面から、もう一枚は左斜め上に自分で携帯電話を掲げて撮ったものらしい。


 弟は、普段はよく笑うくせに、カメラの前ではめったに笑わない。家にある写真のほとんどがそうだ。事故死したという知らせを聞いた直後、身内だけの葬儀で使う写真を選んでいたさいに気づいた。幼いころの写真もそうだ。弟と並んでいるわたしも笑っていない。

 一方で、学校の修学旅行や遠足に行ったさいに撮られた写真では、弟もわたしも笑っているものがある。家族写真に見られる笑いの不在――。改めて考えてみると不思議な話だ。今になって知った発見とも言える。現在、父が別居して実家にいないことの芽、あるいは兆候だったのかとも思える。振り返ってみると、わたしたち姉弟が幼かったころから両親の仲はぎくしゃくしていた気もする。これは、写真選びをしていて初めて意識したことだった。


 美容師はためらいのない自信に満ちた手つきで容赦なく長い髪をカットしていく。髪は黒いかたまりとなってぽたりと落ち、首から下を覆うビニール製のカットクロスの上を、生き物めいた動きで恨めしそうにズズっと滑り降りていく。

 美容師には、初めての客に対する礼儀と用心深さが感じられる。まだまだ日中は暑いですね――から始まって、カルテにはご紹介者が書かれていませんでしたが私をご指名くださったのはどうしてですか――、学生さんですか――、ご出身はどちらですか――と、手を休めずに尋ねてくる。初対面の気安さもあり、この店に二度と来ることはないだろうという気持ちも手伝って、わたしはいい加減に答えた。

 バックとサイドを刈り上げてもらい、シャンプーのために立ったとき、床に落ちている髪の量の多さに驚いた。

「前の状態に戻してちょうだいなんて、おっしゃらないでくださいよ」

 わたしの気持ちを察したのだろう、美容師が笑顔で言った。

「大丈夫です」と答える。


 シャンプー台で髪を流し鏡の前に戻って初めて、わたしは別人になった自分と対面した気分を味わった。髪が濡れたままの鏡の中のわたしはずいぶん幼く見える。懐かしい顔だった。懐かしさは弟との類似から来ていた。小学校の高学年ころの弟に似ている。

「島田様、少々お待ちください」

 ほかの従業員に呼ばれた美容師が離れた瞬間、わたしは密かにある顔を作った。眉を寄せて下唇をかむ。悔しいときや何かに熱中している最中に、弟がよく見せた表情だった。亡くなった弟の思い出の中で、一番好きなものの一つだ。どこか頼りなげで抱き締めたくなるような顔が鏡に浮かんでいる。

「どうかなさいましたか?」

 美容師の声がさっきとは反対側からして、わたしは驚いた。店内の造りが分からない。

「もしかして、イメージが違うとか?」

「いいえ、すごく気に入っています」

 本心だから、自然に笑みを浮かべることができた。

「島田香織様ですよね?」

「はい」

「ご親戚の方が、うちの店をご利用なさっているなんてこと、ありませんよね」

「…………」

 弟のことを話そうかどうか、わたしは迷った。

「失礼なことを申し上げているのかもしれませんが、同じ名字の方で、似たお客様がいらっしゃるんですよ」

「ばれました?」

「やっぱり」

 美容師はかん高い声になって両手を胸の前で合わせた。

「わたし、島田光太の姉です」

「うわあ、びっくり。いえ、本当は途中でそんな気がしたんです。まず、この髪型はヨーロッパでは最新のものなんですけど、少しレトロっぽいんで選ぶ人はあまりいません。カタログからこのスタイルを選ぶお客さんは、個性的なタイプの方ばかりです。で、名字を拝見してあれっと思ったんです。それに、カルテのご紹介者の欄に何も書いてないのも変だなと思いましたし、さきほどお尋ねしたさいにも、はっきりとしたご返事がいただけなかったので」

「怪しいなとか?」

「そうそう、そんな感じしました。ひょっとしてひょっとするんじゃないかなんて、カットしながら実は勝手に想像していたんですよ」


 きょう、弟の部屋を片付け終えたわたしは、化粧を落とし、長く伸ばしたうえにヤスリで形を整えていた爪を切り、上も下もすべて弟の衣類を身に着けて外に出た。アパートを管理している不動産屋を訪ねて用を済まし、電車と地下鉄を乗り継いで表参道に着いた。

 東京区分地図で確かめておいた目標のビルを探し、そこから番地の表示を頼りに電話で予約しておいた美容室に着いたときには、午後六時を過ぎていた。美容師は、弟の部屋にあった美容室のカードに記されているのと同じ人を指名してあった。


「うん。やっぱり似ていらっしゃいます」

「そうですか」

 ブローに入ると、美容師はひっきりなしに話し掛けてくる。『もうわたしたち、お友達でしょ』とでも言いたげな調子が気に入らなかったが、美容師の腕は確かだった。客の気持ちを読み取る感覚も鋭い。わたしが名古屋でいつも利用している美容院の二倍近い料金を取るだけのことはある。

「さっき、何か考えごとをされていませんでした? あの時の表情がそっくりでした。髪型を選んでいただくさいに、お客様にカタログをお見せしますよね。そんなときに、サンプルの写真を見ながら考えるじゃないですか。それとか、最後にこちらが、『いかがですか?』なんて尋ねると、お客様が鏡に向かってこんなふうに顔を左右に振って見栄えを確かめるじゃないですか。そんなときの弟さんの表情にそっくりなんで、余計に驚いたんです」

 ときおり作業の手を休め、身ぶりと手ぶりを交えながら美容師は早口に喋る。声と仕草が、急に女性っぽくなったように感じられる。それにしても、手際がいい。ドライヤーを当てていく髪に不揃いはまったくない。

 わたしは美容師の指の動きに見とれていた。形のいい指だった。弟の指の記憶がよみがえった。弟に生まれつき備わっている物のうちで、わたしがとりわけうらやましく思ったものが指だった。薄桃色に光る細長の爪を弟が持って生まれ、わたしには形の悪い短い爪しか授けられなかったことが理不尽に思えてならなかった。

「それとですねえ」と美容師はなおも口早に話を続ける。「髪を切りますよね。当然、お客様の頭に触れることになります。シャンプーの時なんか、もろにそうなんですけど、頭に触れていると手が覚えているってことがあるんです。ああ、このお客様の頭に以前触れた覚えがある。そんな感じがする場合があります」

「すごい。奥が深いんですね」

「いえいえ、奥が深いなんて大げさなものじゃないんですけどね。むしろ、こういうのは動物的な勘ですよ。で、香織さんの頭に触れたり指で押さえたりしているうちに、ぴんと来たんですよ」

「弟に似てるって、ですか」

「ええ。びびっと感じました」

「本当ですか? そんな話を聞くと感動しちゃいます」

 一瞬涙が出そうになったが、何とか抑えた。

「骨相学ってご存知ですか?」

「『こっそうがく』? 『骨』と人相の『相』に学問の『学』という字ですよね」

「はい。わたしが前にいた店のスタッフで、頭の形にものすごく敏感な人がいました。いろいろ勉強もしていたみたいで、結局、今は美容師を辞めて骨相学を基本にした占い師をやっているそうです」

「へーえ」



 頭蓋骨の像が目の前にちらつき、わたしは軽い吐き気を覚えた。それを察したのか、美容師は素早くに話題を変えた。

「ところで、光太さん、お元気ですか? まだうちにカットにいらっしゃるのには早いと思いますけど」

「元気にしていますよ。東京での予備校生生活をエンジョイしているみたいです。名古屋からわざわざ出てきて」

 とっさに、わたしはそう答えていた。弟は生きていて、今もあの部屋に住んでいる。夢と空想がそのまま口から出たのかもしれなかった。美容師は、あははと声を上げて笑った。

「そうかそうか」と、美容師は一人で納得したように、何度もうなずきながら言った。「確かにおっしゃっていました。やっと今になって、思い出しました。お姉さんが名古屋にいらっしゃるという話。すごく仲がいいとか――。ごめんなさい。こういうお客様にとって大切なことを、よく忘れてしまうんですよ。根がアホやから」

「アホ?」

「わたし、出身は関西なんです。向こうにも美容師を養成する学校はあるんですけど、どうしても東京に行きたいって、親に向かって土下座するやら、泣いて訴えるやら、脅すやらして、こっちに参りました」

「弟と一緒ですね。光太も、東京に行きたい、東京に行きたいって、わめきまくって親を説得したんです。東京はお好きですか」

「うーん。好きでした」と言った美容師の目とわたしの目が鏡の中で合った。「どうして過去形なのかというと、年ですかね。こういう仕事は、最終的には自分の店を持つことが目標です。そのための貯金も、組合で強制的にさせられています。その目標が、だんだん具体的というか現実的に感じられるようになってきますよね。そうなると、考えちゃうんです。東京で勝負できるか? なんて感じで。えらい深刻な話になってしまいました。弟さんなんか、毎日が楽しくて仕方ないんじゃないですか。第一若いんだもの」

「予備校生ですよ」

「そうでしたね」

 わたしたちは同時に笑った。この東京どころか、この世に光太がもういないとは信じられない。わたしは鏡の中の自分を見る。


『光太は女にしても美人だけど、香織は光太の出来損ないみたいね』

 そんな無神経な言葉を吐いた親戚の女がいたことが思い出される。あれは確か、光太とわたしが七五三か何かの祝いでよそ行きの格好をさせられていたときだ。あの日に撮った写真が、家にあるはずだ。

 鏡に映っているのは「光太の出来損ない」だが、本物のちゃんとした光太があの部屋にまだ住んでいるような気がしてならない。


「人生で一番楽しい時期に憧れの東京にいる。それだけで幸せですよ」と美容師は言い、急ににやりとした笑みを浮かべた。「お姉さんだという身元が割れたところで、一つ質問させてください。どうして、髪を切る気になったのですか」

 そう尋ねられたわたしは、言葉に詰まった。自分でもよく分かっていない。光太の部屋でこの美容室のカードを見つけた瞬間、光太が送ってきたメールと画像が頭に浮かび、深く考えることもなく予約の電話を入れていた。「あなた、今、生理前か生理中?」

 二日前に、岸川詩乃から言われた言葉が頭に浮かぶ。あの日にわたしは午前の早い時間に東京駅に着いた。

 すぐに電車を乗り換えて世田谷区にあるS警察署に出向き、事故死した弟の持ち物を受け取った。しぶる刑事を強引に説得し、事故の背景についての説明を受けた。

 午後からは、東中野にある弟の住んでいた部屋の引っ越しの見積もりを業者にしてもらい、翌日に荷物を運ぶという段取りをつけて即座に契約をした。疲れのためにぼんやりとした状態で荷造りに取り掛かり、弟の携帯電話の電話帳検索を見ていて男の名前ばかりだなあと思ったりしているうちに、夜になった。

 すると突然、携帯電話に詩乃からの通話があり、会う約束をしていたらしいと気づいた。迎えに来てくれると言うので、東中野の駅に向かおうとした。途中で引き返して、引っ越しのキャンセルと延期を業者に告げた。

 駅の改札口で待っていた詩乃が、わたしを見るなり小声で口にしたのが、「あなた、今、生理前か生理中?」だった。

「ううん、そんなことない」

「顔色が悪いよ。きょうは、ずいぶん無理なスケジュールだったらしいから疲れたんじゃない?」

「ううん、そんなことないよ。大丈夫だってば」

「強い頭痛薬でも飲んでるんじゃない? ろれつが回らない感じがするけど」

「それより、わたし、お腹がすいちゃった。ぺこぺこ」

 その夜、高田馬場にある詩乃のアパートに泊めてもらった。翌日の早朝まで話し込んだ。その時に、心療内科で処方された薬を飲んでいることも話した。

 確かに、このところ、体だけでなく心も疲れている感じはする。でも、気分を落ち着けるらしい薬を毎食後に飲んでいるのだから大丈夫だと思う。時々意識がぼんやりしたり、自分でもあれよあれよという感じでびっくりするようなこともするけど、きっと大丈夫だ。


「――一つ質問させてください。どうして、髪を切る気になったのですか」鏡の中の美容師が言っている。

 どうしてだろう? 

「――久しぶりに会ったから、記念にツーショットの写真を撮ろうということになったんです」

「わざわざ同じ髪型で、同じような格好をしてですか?」

「そうです。その乗りで――。ご存知だと思いますけど、弟はすごく能天気ですから」

「そりゃ傑作だ」

「今度お店に来たら、思い切りからかってやってください」

 すらすらと嘘が出てくるのが快い。弟と並んでカメラに収まるという考えも楽しい。空想ってわくわくする。鏡の中で美容師もわたしも、声を出して笑っている。楽しそう。自分のことなのだけれど、他人事みたいにも思える――。でも、大丈夫だ。