【掌編小説】たぶん面白半分
週末とその種の雑誌の発売日とが重なり、本屋の中は込みあっていた。明は初めて見るその男に注目した。雑誌を読んでいるふりをして、明は男を観察した。年は三十五歳前後。ごく普通のサラリーマンに見える。高くも安くもなさそうなビジネススーツ。ネクタイは紺系で地味。靴は新しく、磨いてある。カバンは持っていないから車で来ているのかもしれない。年の頃といい、格好といい、初心者のキャサリンがアタックするにはぴったりだと思う。
「ぼくもストリート・ボーイになる」
唐突にキャサリンがそう言ったのは、その日の午前、五丁目のコインランドリーで明が乾燥をかけているときだった。明とキャサリンは、前日の夕方から二丁目内をあちこち歩き回った末、ゲイサウナの大部屋でくっつき合って眠った。高校二年生で、神奈川県の南端から来ているキャサリンにとっては初めての夜の新宿だった。
明は男の死角に立ち、そいつを狙えと顎で示してキャサリンに合図する。華奢な体つきで女の子にも見えるキャサリンは男の前に移動して、平積みされた雑誌に手を伸ばした。寝不足のため瞼を腫らしたキャサリンに、男は見向きもしない。明のほうにチラチラ視線を送ってくる。キャサリンには悪いと思ったが、明はその男をもらうことにした。
奥にいる男と出入り口近くにい明との間には三人の男がいる。明は雑誌を手にして男の行動を待った。男が雑誌を元に戻し、接近して来るのが目の端に見えた。純情っぽく見えるように、わざと身を固くする。男が隣に来たら、雑誌を支える手を小刻みに震わせるつもりだった。男は明の後ろを通り過ぎた。明が振り返ると、男は外へ出ようと目配せしている。明は男の後に従う。店を出るとき、ふてくされた顔をして明をにらんでいるキャサリンに軽く頷いて謝る。
通りに出た二人は、最初のうち、間隔を空けて歩いた。やがて男は歩く速度を緩めて、明と並んだ。
「この辺には、よく来るの?」
男の言葉には関西弁らしい抑揚があった。
「ときどき」
「学生?」
「はい」
「お茶でも飲む?」
「ボク、あんまり時間がないんで」
「どこか、行く?」
『どこか』とは、たいていはホテルだが、公衆便所だったり、人のあまり来ないビルの階段の踊り場のこともある。それはそれでいい。金さえくれれば。
「あのう、ボク、小遣いが欲しいんですけど、いいですか」
これだけは、最初からはっきりさせておかなければならない。さもないと、そんなことは聞いていないとかいって、あとで騒がれることがある。
「なあんだ、売ってんのか」
「すみません」
あくまでも、しおらしくする。このへんの呼吸についても、一通りキャサリンに教えてある。あいつ、大丈夫だろうか。自分だけで、客になりそうな奴を見つけられるか。またケチなオヤジにナンパされて、タダでやらされたあげくバイバイなんてことになるんじゃないか。
「別にいいよ。いくら?」
男はあっさり言う。
「二時間で前金の二万です。それから、バックは駄目です」
「わかった。こっちも、あまりゆっくりできないから、場所は安いところでいいよ」
値切られることを予期して提示した額がすんなりと受け入れられて、うれしかった。あとでキャサリンに自慢してやろうと思う。明は男をホテルではなく、レンタルルームへと案内した。
*
三十分ほどで終わった。男は煙草に火をつけ、ベッドであぐらをかいた。少し休んでいくからと、男はテレビの横に付いている小箱の料金口に百円玉を入れた。照明を落とした室内がテレビの光でポッと明るくなる。二時間で三千五百円のレンタルルーム。ホテルに比べて数段安い。部屋は六畳もなく、シングルベッド一台が大きく感じられるほどで、トイレは共同で部屋の外にある。
いつものように前もって金はもらってあった。お先に、と断ってシャワールームに入る。用心のため、折りたたみ式のドアは開けたままにしておく。ポケットに財布が入ったジーンズは、シャワールームの中から見える位置においてある。水が外に飛び散らないように気をつけながらシャワーを使い始める。
男がテレビのボリュームを上げたらしく、次々と流れてくるCMがうるさい。備え付けの小さな石鹸を泡立て、股の間で男が出した精液を洗い流そうとする。陰毛に糊のように固まった精液が、なかなか取れない。男は自分が出しただけで満足したのか、明には出すことを要求しなかった。ただ、精液のついた手で明の髪に触れてきたため、その部分だけを洗わなければならなかった。
鏡についた湯気の曇りを手で拭い、精液がついた部分を映してそっと湯で濡らす。いったん手を休め、鏡の表面が湯気で再びかすんでいくのを眺めながら小便をし始める。シャワーの水に混じって、黄色みを帯びた小便が排水口へと流れ込んで行く。風呂やシャワーの最中に小便をするのは、幼い頃からの癖だ。テレビの音がうるさい。
突然シャワールームの電灯が消えて、ガシャッという音とともにドアが閉まった。驚いた明は声も出ない。再びドアに何かが当たり、明は冷たいタイルの壁にへばりついた。地震、停電、火事、暴力――。いろいろな想像が一瞬のうちに頭の中をよぎる。ドアの曇りガラスを通して光がちらつく。
テレビの音は依然として聞こえている。ドアの向こうで人の動く気配がする。ハメられたと、ようやく気づく。声を出そうと思うが、恐怖が先に立つ。裸でいることが、これほど無防備でみじめなことだとは思いもしなかった。ただ早く男が部屋から出て行くことを願う。
しばらくして部屋のドアが開閉する音がした。続いて男が廊下を歩いていく靴音が聞こえる。速足だが逃げるような速さではない。完全に馬鹿にされている。明は思う。足音が聞こえなくなったところで、シャワールームのドアをそっと引く。ドアが開かない。折りたたみ式の簡単なドアに錠は付いていない。ドアを引けばアルミの枠が折りたたまれてドアは開くはずだ。
押したり引いたりするうちに、ようやくドアが開き、何かが下に落ちる音がした。シャワールームを出ると、部屋に備え付けのプラスチック製のハンガーが落ちていた。男はそれをドアの外側の取っ手にはさんで、つっかい棒にしておいたらしい。明のジーンズは沓脱ぎに放ってある。確かめてみたが、もちろんポケットに財布はない。
急に体が震え出した。男を追いかけることができない自分が情けなかった。財布の中には、男からもらった金を含めて五万三千円くらいが入っていた。男は二万と部屋代の三千五百円を元手に三万儲けたわけだ。しかも、一発抜いたうえで。
せめて金だけを抜き取って財布はその辺に捨ててないかと、明は部屋の中を隅から隅まで探したが見つからなかった。
部屋のドアの鍵を内側から掛け、シャワールームに再び入った。男の体液のついた体を洗い直すために、もう一度石鹸をつける。たった今起こったばかりの出来事を思い出すと、膝ががくがく震えてきた。歯までががちがち鳴る。シャワーの口から噴き出す冷水を顔面に受けながら、明は泣いた。
思えば男の手口は巧妙だった。こういうことを、しょっちゅうやっているに違いない。根拠はないが、金に困ってやったとは思えなかった。たぶん面白半分にやったという気がした。それだけに悔しかった。精液のついた手で髪に触れてきたのも、シャワーを浴びるのに手間取るようにと計算したうえでのことかもしれない。
こんな時に相手を探して仕返しをしてくれたり、相談に乗ってくれる男がいる。暴力団とつながっているという噂の男だ。借りを作って、それをきっかけに人から管理されたくはない。まあ、いい。金なんて、すぐにまた稼ぐ。面と向かって脅されなかっただけましだ。
シャワーを浴び終わり、部屋を出ようとして、靴に足を突っ込んだ明はそのまま転びそうになった。ご丁寧に左右の靴の紐が結んである。悔しさの代わりに、笑いが込み上げてきた。明はドアの前で座り込んだ。ちょうどそのとき、テレビの電源が切れ、室内が暗くなった。
【※この作品は、現在は休刊中の文芸誌「鳩よ!」(マガジンハウス)主催の掌編小説コンクール第1期の第2回「今月の当選作」となった小品に加筆したものです。直木賞作家の島本理生さんは、『ヨル』という作品でこのコンクールの第2期10月号の当選者となり、年間MVPを受賞しました。15歳での快挙です。
私のこの作品は、第1期の年間MVPの候補2作に残りながら、受賞を逃しました。当時は、複数の文芸誌系の新人賞に何度も応募していた時期でした。そうしたなかで「すばる文学賞」の最終候補5作に残ったものの落選した時に、私は作家デビューに最も近いところにいたのではないか(この辺の詳しい経緯については「あなたなら、どうしますか?」という過去の記事に書いたことがあります)。今になって、そう思います。ずいぶん昔の話になってしまいました。】