隅にいて、隙間から外を覗き見たり隙間を覗きこむ【モチーフ&断片集】
星野廉
2021/01/14 08:19
何かが少なくなったり無くなれば、補充する。補充するものがなければ、何か別のもので代用する。日常的に経験していることではないでしょうか。個人的な経験をもとに今述べたことをお話しすることから、今回の記事を書きたいと思っています。少なくなって、いつか無くなるかもしれないもの。それは、自分の場合には聴力です。
聴力は、ある聞こえの周波数の部分がいったん、低下したり、失われると、それを回復することは、きわめて困難、不可能に近いと言われています。早期発見、早期治療が決め手だとのことです。もし、お心当たりの方は、急いで耳の専門医を訪ねてください。
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さて、中途難聴者である自分の場合、「聞こえの検査」をするたびに、聴力は低下しています。良くなっていることはありません。文字通り「聴く」を補う器械である補聴器は、残念ながら万能ではありません。
で、もう戻ってこない聴力を何か別のもので補わなければならないのですが、それは何だとお思いになりますか? 視力なのです。幸いなことに、眼鏡にたよってはいますが、視力は極端に悪くはありません。ありがたい、と感謝しています。
私がよく感じるのは、聴力が低下するにしたがって、他の人の表情、目つき、仕草、身ぶりなど、身体が発している「信号」に敏感になってきたということです。川端康成の文章のなかに、自分の目つきについて、ある女性からあることを指摘されて、はっとしたという意味の一節があった記憶があります。家にある川端の本を、あれこれめくってみたのですが、どの本に書かれていたのか探せません。記憶が間違っていたら、許してください。確か次のような話でした。
相手が無遠慮または不躾(ぶしつけ)と感じるような目つきで、他人の顔をじっと見つめている。自分では意識したことのない、そんな癖を指摘されて大きな衝撃を受けた。これまで、無意識のうちに、どれだけの人に不快な思いをさせたかと思うと、つらい。
自分が、その川端の話を興味深く思ったのは、川端がその自分の癖について、分析しているからです。これもうろ覚えなのですが、確か、川端が少年時代までいっしょに暮らしていた――二人きりの生活だったと記憶しています――祖父の目が不自由だったために、じろじろ見ても分からない祖父の顔をじっと見る癖がついていて、それが無意識に習癖になってしまったのではないか?
その文章のなかで、川端はそう回想し、同時に戸惑っていたのです。それを読んで、考えさせられました。目の不自由な方は、誰もが完全な闇のなかにいるというわけではなく、明暗を感じとることができる方が多いということを聞いた覚えがあります。祖父についての川端の文章のなかでも、祖父が日の当たっている方向へよく目を向けていた、という思い出が語られていた記憶があります。思い違いかもしれません。でも、よく分かるような気がします。
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話はかなり飛びますが、フロイトの精神分析、つまり「精神を対象とする医学」は、ユダヤ人であるがゆえに医師になりたくても障害が多くてなかなかなれない、また、なったとしても排斥されるという時代背景の産物であったらしい。ユダヤ人は社会のふち、隅っこにいたわけです。そんなことを何かで読んだことがあります。それと似た事情があってか、たとえば米国でも、精神分析家にはユダヤ人が多いと聞きます。
精神分析医にかかることは、以前は西欧での流行でしたが、現在は下火だとのことです。かつては、ステータスシンボルでもあったらしいです。かなりのお金がかかるうえに、分析がえんえんと続くからです。それへの反発なのか、ブリーフセラピーとかいう、短期間での「こころの治療法」が登場したり、現在では、コーチングや、モチベーションを促す人、つまり、ファシリテーターがサポートするとかいう、新興の「いやし」の方法が流行っているそうですね。専門家ではないので、詳細は知りませんけど、話としてよく聞きます。
話を戻します。フロイトとその弟子たちや、米国の精神分析医たちは、マーケティングでいう、隙間市場、つまりニッチ市場を利用したわけです。いわば、
*隙をついた。
のです。この記事の冒頭に書いた、
*何かが少なくなったり無くなれば、補充する。補充するものがなければ、何か別のもので代用する。
と、どこか似ていませんか?
また、話を飛ばします。ロシア・フォルマリズムという文学研究の運動が、ロシア革命とほぼ同じころに起こりました。ソ連の共産党による一党独裁体制の確立と並行するかたちで、展開していきました。そうした状況下で文学を研究するのは冒険です。下手をすると命取りになります。
独裁体制にとって、言葉の芸術あるいは娯楽である、文学ほどやっかいなものはないのです。ちょっと目を離すと、体制批判をします。締め付けると、微妙なやり方で風刺する場合もありますね。でも、文学作品を研究したり、批評するさいには、たいていは、書いてある中身に触れないわけにはいかないじゃないですか。でも、ロシアのフォルマリストたちは「隙をついた」のです。彼らも社会のふち、隅っこにいることを余儀なくされていたわけです。隅っこにいて、隙間を覗きこみ、あるいは隙間から外を覗き見ていたとも言えるでしょう。
どうやったのかと申しますと、物語の内容やメッセージ、つまり「中身」ではなく、形式、つまり「骨と皮」に注目するという方法をとったのです。「何か」について語ると権力が言いがかりをつけてくる。そうであれば、「何か」という「器の中身」ではなく、「器自体」について語ろうという抵抗の仕方を選びました。あたまがいいですね。結果的に、ロシア・フォルマリズムは、文作作品の形式と手法を分析するための洗練された方法を生み出しました。
文学研究では、フェミニズム批評というのもあります(余談ですが、英語でいうフェミニスト、feminist というのは、女権拡張運動に賛同したり、実際に運動にかかわっている、勇ましかったり、時には過激な人を指し、日本語でのやわなイメージはぜんぜんありませんね)。フェミニズム批評は、主に米国での女権拡張運動のための援護射撃の産物として生まれたみたいです。
女権拡張運動も、アフリカ系アメリカ人を中心とした公民権運動と同じく、米国社会において激しい抵抗に遭いました。社会のふち、隅っこにいる人たちが中心となった活動だったからです。それが従来の「オトコの視線から見た作品」を「オンナの目から見直す」という、とてつもなく大きな仕事へと向かったのです。これも、ある意味では、「隙をついた」とか「ニッチをねらった」と言えそうです。「思いもしない出方をした」、要するに「意表をついた」という意味で、ですけど、あっぱれですね。
そう言えば、エコフェミニズムという、エコロジーとフェミニズムが合体した運動がありますね。あれも、意表をついた出方をしたものです。詳しくはありませんが、好感をもっています。
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ついでに申しますと、構造主義は、伝統と歴史という柵(しがらみ)にがんじがらめになっていたヨーロッパの閉塞状況(通時的)を打破しようとする過程での産物であったと言われています。わざと歴史を切り捨て「今ある状態と構造」に徹底してこだわる(共時的)というわけです。
まるで親への駄々っ子の反抗のような、抵抗をしたわけです。これも、ある意味では「隙をついた」のではないでしょうか。「こんなやり方もあったのか」という感じです。見事じゃないですか。
上記の運動に共通するのは、「反作用」という比喩でも語ることができそうな現象です。何か新しいものが生まれるときには、その下地となる背景があることは言うまでもありません。その背景が、「反発」や「抵抗」というかたちをとる場合が少なくない。
*ネガティブな事態を逆手にとり、ポジティブな状況へと転じる。
とも言えるでしょう。
*憤まんや怒りや不満が、新たなものを誘発する。
とも言えるでしょう。
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そこで「信号について考えること」の話に移りたいのですが……。
上述の、あっぱれで、見事な業績と並べるのは、おこがましいの極致であり、
*図々しい
の一言で済ませられそうです。それを承知のうえで、性懲りもなく、しかも図々しく、このブログでしこしこやっている「信号論」(簡単に言えば、身の回りに見えるものを信号と見なして観察することです)も、それなりに「隙をついて」いるとか「ニッチをねらった」試みだなどと言ったら、あきれ返ったフロイト先生からお叱りを受けそうです。とは言え、それなりに、やはり、隅っこにいて隙間から外を覗き見るとか、隙間を覗きこんでいるのです。
「きみ、ちょっとカウチ(寝椅子)に横たわりたまえ。あたまのなかを、診てあげよう。さあ、小さかった頃のお話から聞かせてもらおうか」なんて……。ナイン・ダンケ=ノー・サンキューです。精神分析医のカウチに身を横たえるくらいなら、棺(ひつぎ)に横たわったほうがましです。自分のこころのなかを、他人様に診てもらう余裕はありません。自分で看るだけで精一杯です。
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BBCというイギリスのテレビ局が制作した生き物の番組は、よくできていて、感動します。BSで、放映されていますね。ただ、解説があまりにも出来すぎている感じがしませんか? ちょっと、ヒトの思い入れが強すぎるように思えます。勉強になることは多いのですが、そこだけが気になります。あの番組も、ミュートで見ると印象が、がらりと変わります。言葉による解説から得られる情報とは、違った発見があるのではないかとも、思います。
生き物の番組に限らず、どんな番組でもかまいません。音を消して、ご覧になると、思いがけない発見がありますよ。バラエティー番組などをミュートで見ていると、登場する人たちのあいだの目配せや、ちょっとした表情なんかが、クローズアップされて見えます。スタジオ内の人の位置、雰囲気、隠された「 空気 」(KYの「 空気 」です )をはじめ、音を聞いていては、おそらく、音に気をとられて、見えない物や出来事が、きっと見えます、または「 読めます 」。目と耳の関係って、意外と奥が深いような感じがします。
バラエティー番組は、特にうるさいですね。画面の下に字幕もよく出ます。自分は、カレンダーの裏の白い面を折ってつくった、紙切れをもっています。それで字幕を隠し、音を消して番組を見ることがあります。もちろん、親がテレビを見ていないときですけど(※この文章は、母が生きていたころに書いた記事に加筆したものです、文章の勢いを殺がないために、手を加えていない部分があります)。
いつもとは、視点や、やり方を変えてみる。隅から見てみる。それで、世界が変わって見えたり、感じられる。おもしろいですよ。虫眼鏡をつかって、写真、新聞、雑誌、パソコンのモニターなどを拡大してみるのも、けっこう、いい気晴らしになります。だまされたと思って、ちょっと、試してみませんか?
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上で触れたテレビの楽しみ方は、今でも続けています。気が紛れます。でも、テレビ番組だけでなく、自分にとって、毎日の生活そのものが、そんな感じなのです。補聴器は両耳装用していますが、hear できても listen できない。つまり、人の声が「単なる音」としては聞こえても、「意味の分かる音声」としては認識されない場合が多いのです(音楽は昔聞いた曲なら記憶が補ってくれるので楽しめます、初めて耳にする曲はまず聞き取れません)。ですから、人が話しているさいには、その人の
*「顔色をうかがう」
ような形になります。表情からその人の気持ちをくみ取ろうとするのです。聴力が著しく低い、ろう者のなかには、話している人の口の形と唇の動きに注視して、話し言葉を読みとろうとする方もいるそうですが、現実には至難の業だと聞きました。で、相手の表情を読もうとすることですが、とにかく、疲れます。ストレスになります。
自分の場合には、肩がばんばんに腫れて凝ります。でも、そうするしか仕方がありません。何度も聞き返される目に遭う相手の方も、ストレスを覚えるにちがいありません。そう思うと、つい気を遣い遠慮してしまいます。いわゆる空返事をしたり、うやむやに会話を済ませることも多いです。マスクで相手の口の動きが見えないと、苦労は倍加します。
*
話を戻します。このところ、「信号」というツールであり道具であり玩具を手にし、いろいろ遊びはじめてみて、ふと、これは、
*何かが少なくなったり無くなれば、補充する。補充するものがなければ、何か別のもので代用する。
および、個人的な、
*隙をつく。
*ニッチをねらう。
ではないかと思い立ったわけです。見るくらいしか、やることがないからだと言えば、身も蓋もありませんが、隅っこ暮らしの私にふさわしい身振りではないでしょうか。
「信号」というものと同時に、その「信号」で重要な役割をもつ「めくばせ」「合図」といった、「視線」にまつわる比喩的な言葉の仕組みについて、しばらく考えてみるつもりです。
※かつてのブログ記事を切り詰めて削り落とし、モチーフだけの残った断片にしてみました。「モチーフ&断片集」というマガジンに収めます。
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