語り得ないものについては、錯覚しなければならない。

星野廉

2020/12/14 11:30


 私たちは毎日何かを見て生きていますね。「見る」という言葉で、何を見ることをイメージしますか? 空、空の雲、星……。足もとに目を向ければ、石、コンクリート、土、畳、カーペット……。たしかにそうでしょう。ここでお話ししたいのは、ちょっと違う「見る」です。私たちが目覚めている一日の大半を費やしているとも言えるような「見る」の話です。


 テレビ、スマホの画面やキーボード、パソコンの画面やキーボード、ゲーム機の画面やコントローラー、本や雑誌や新聞(読むも見るですね)、屋内外の広告写真(バスや電車内の広告も含む)、駅や公共施設の標識や表示……。こうしたものは、すべて人が撮影したり、制作したり、執筆したり、案出したり、さらには編集したり、加工したり、印刷したものばかりです。要するに、作ったものです。いや、作られたものなのです。


 人は何かを作る際には、何らかの意図や企みや目的を持って臨むのが普通だと思われます。綺麗な言葉を使えば、何かを「伝えたい」から作ると言えるでしょう。もっと綺麗に言うと、何かを「込める」わけです。ネガティブな響きのある言葉を使えば、何かを「企んで」「仕組む」わけです。


      *


「作る」は「でっちあげる」とも言えます。こうなると、ありもしない物を作る意味になります。白は黒であるという話を「でっちあげる」のがとてもうまい人がいます。「語る」が「騙る」だという具合に、語るに落ちる場合もあります。つまり、「かたる・語る」がだましたりでっちあげることである、と「騙る」という表記がぽろりとかたってしてしまうという馬鹿みたいな落ちの話です。


 ややこしい冗談はさておき、私たちが目覚めている間に見る多くのものが、作られたものであるとしたら、のんきに構えているわけにもいかない気がします。誰だって、普通は騙されたくないはずです。カモにされるなんて嫌ですよね? 人間は面白いもので、騙されるのが趣味じゃないかと思われるような人をときどき見かけます。私のまわりにもいます。また、テレビの通販の番組とか、デパートなんかの実演販売を見ていて、必要のない商品を買ってしまうという、わけの分からない快感もありますね。


(※お断りしておきますが、こうした商法や販売方法が詐欺だと言ってるのではありません。巧まれたり仕組まれたもの(すべての宣伝や広告は巧み仕組みます)にほぼ意識的に、あるいはほぼ無意識のうちに乗ってしまうという人間の心理を問題にしています。)


 明らかに要らないのに買ってしまった。私にも経験があります。何度もあります。


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「これを買ったら、今月は大赤字になるに決まっているって分かっていたんだけど、〇〇を買っちゃったのよね」、「おかあちゃんに叱られるに決まっている、いや叱られるかも、いや叱られてもいいや――、あ、買っちゃった」、「寂しかったのよ~、なんか、こう切なくて、何かで気を紛らせたかったの、いま思えばね」、「いいえ、世間に負けた」、「あれを買ったのは、別の私です」、「あのさー、もうそのことは言わないでくれる?(かなり不機嫌)」


「結果として、あの人の話術に負けたと言うことでしょうか」、「魔が差したとしか申せません」、「これはぜったいに必要だ、これがあれば幸せになる、これがあれば天国に行ける、本気であの時にはそう信じていたの」、「〇〇が家に十個あることは、ちゃんと分かっていたのですけどね、どういうわけか……」、「こう見えても、わたしは頭脳明晰で冷静な人間なんですよ」、「俺、後悔はしてない、うん絶対にしてないよ(泣きそうな顔)」


 身につまされます。決して他人事とは思えません。


「企む」や「仕組む」に乗る快感。相手に動かされる幸せ。騙される喜び、悦び、慶び、歓び。カモにされる楽しみ、愉しみ。


 こういうものは多かれ少なかれ誰にでもあるのではないでしょうか。ちょっとした自己破滅願望、治りかけの傷口を爪でひっかきたい願望、うーんもー、どうなってもいいわという自暴自棄、この一線を越えたらどうなるのだろうというアバンチュールを求める妙な好奇心、せっかく砂場で作ったお城を壊したくなる抑えきれない衝動、うさんくさいあの人について行きたくなる不安と期待が混じった変な感覚、行っちゃ駄目と言われているのになぜか無性に行きたくなる心理、このままおしっこを漏らしていい、いやいっそのこと漏らして叱られたいという逆らいがたい欲求。


 話を戻します。


 人の心には、「企む」や「仕組む」に乗ってしまう線路が敷かれているとしか思えません。まるで条件反射のように、ふらふらとそっちに行ってしまうのです。それだけではありません。興味深いことに、同時に、その線路に入りこんで突っ走らないように抑えるブレーキも備わっているようなのです。


 ところが、そのブレーキがきかない事態が頻発しているのがきわめてゆゆしき問題であると言えそうです。


 心理学とか行動科学に詳しい人なら、もっともらしい用語と理屈を使ってうまく説明するのでしょうが、私はその方面には暗いのでできません。


 それで思い出しましたが、心理学とか行動科学なんかは、広告や宣伝や行政・政府の広報やプロパガンダによく利用されているみたいですね。きっと愉しんで仕組んでいるのでしょう。いっひっひ、なんて具合に。愉快犯。ひょっとすると罪の意識なんかまるでないのかもしれません。確信犯かうっかり犯かちゃっかり犯かじんぎスカン? またはソシオパスかサイコパスかさろんパス?  


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 話を戻します。


 テレビ、スマホの画面やキーボード、パソコンの画面やキーボード、ゲーム機の画面やコントローラー、本や雑誌や新聞(読むも見るですね)、屋内外の広告写真(バスや電車内の広告も含む)、駅や公共施設の標識や表示……。こうしたものは、すべて人が撮影したり、制作したり、執筆したり、案出したり、印刷したものばかりです。要するに、作ったものです。いや、作られたものなのです。


 人が作る行為はだいだいにおいて、騙すことなのです。「騙す」と「作る」は紙一重なのだとも言えます。それを解く鍵は、錯覚なのです。


 想像してみてください。たとえば、テレビ画面を指して「これは何?」と聞かれれば、「富士山」と答えるのが普通です。「画素だよ」とか「テレビですけど何か?」なんて答えると、変人か何かだと思われます。スマホやパソコンの画面でYouTubeを見ていて、「これは誰?」と尋ねられたら、「ヒカキンです」とか「乃木坂46だべさ」と言えばいいのであって、これまた「画素」とか「液晶」とか「ディスプレー」とか答えると険悪な空気になります。本当のことを口にしてはいけないのです。


 このように映像も文章も音でさえも、作られたものを、私たちは見たり読んだり聞いたりしています。


「何を読んでいるの?」⇒「noteの記事」(O)、「文章」(O)、「活字」(X)、「文字」(X)、「画素」(X)


「何を読んでいるの?」⇒「文春文庫」(O)、「星野源のエッセイ」(O)、「インクの染み」(X)、「活字」(X)


「何を聞いているの?」⇒「あいみょん」(O)、「音楽」(O)、「かんけーねーだろ」(△)、「音」(△ or X)、「デジタル化された音」(X)、「スピーカー内の振動」(X)、「空気の振動」(X)、「デジタル化されたあいみょんの音声を受信したスマホのスピーカー内の振動によって生じた空気の振動」(X)(X)(X)(X)


 上の例では、「O」のように答えるのが普通であって、「X」はお勧めできません。そんなこと分かっているとか、当然でしょと、お思いの方にお聞きしますが、なぜですか? なぜ本当のことを答えてはいけないのでしょうか?


 鍵は錯覚だと思われます。ヒトという種は、錯覚――しかも壮大な規模で――を利用してしたたかに生きているというわけです。愚かと言えば愚か、賢いと言えば賢い。言葉を使えば、何とでも言えます。もっとも、もうこうなってしまっているのですから、正しい、正しくないとか、いい、悪いの問題ではないという気がします。ということは、善悪の彼岸? というよりも、善悪のお彼岸、または善悪の悲願とか善悪の悲丸とか善悪の飛雁かも……。ちょっとシュールですが、言えている気がします。言葉はジャズ。言葉はアドリブ。言葉を使えば、何とでも言えます。


 話を戻します。


 時空をまたがるこの壮大な規模の錯覚の利用なしに、たとえば小惑星の観測や探査なんてできません。絶対に無理です。錯覚を利用して、あんなに遠く離れたところにある探査機を操るのですよ。すごすぎます。魔法みたいです。いや、魔法じゃないでしょう。やはり錯覚だと思います。


 遠くにあるものを近くにあるものように知覚する、あるいは錯覚する。


 語り得ないものについては、沈黙しなければならない。

(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言葉)

 語り得ないものについては、人は錯覚しなければならない。と言うか、錯覚しまくっている。


 知識は力なり。

(フランシス・ベーコンの言葉)

 錯覚は力なり。


 我思う、ゆえに我あり。

(ルネ・デカルトの言葉)

 我、錯覚する、ゆえに我あり。


 上の駄文にある「錯覚する」の主語である、「我」って誰でしょう。ホモサピエンスでしょうか。人間様だけでしょうか。いえいえ、地球上のあらゆる生き物が錯覚しているみたいです。ご本人に聞いてまわったわけじゃないので推測するだけなのですけど。


 自分のまわりにあるものを何らかの形で情報化して生きているのが、生き物だとすれば、それは錯覚しているのにちがいありません。情報化とか知覚機能とか信号化とかデータ化とかデジタル化とか、よく知らないのですが、おそらく「何か」を「その何かではないもの」に置き換えているみたいです。私に言わせれば、それは錯覚以外の何ものでもありません。ひとさまがどう考えているのか知りません。あくまでも個人の感想であり意見です。ここでは学問なんかしていません。私ごときド素人にできるわけがありませんもの。


 生き物みんなが錯覚する、ゆえにみんながあるのだし、いるのだ。


 みみずも、おけらも、あめんぼも、ぺんぺん草も、始祖鳥も、うるめいわしも、こびとかばも、大腸菌も、みんな錯覚している、あるいはしていたみたいです。ご本人に聞いてまわったわけじゃないので推測するだけなのですけど。思えば、錯覚なんて言葉を使っているのも、「置き換え」にほかなりません。


 わけの分からないものやことを前にして、人は慣れ親しんだものやお馴染みのものやことに置き換えます。そして安心します。恐怖や不安やショックをやわらげるためでしょうね。これが思考停止や判断停止ではないとは、私は言い切れません。たぶん、そうでしょう。


 いったい「これ」はどういうことなのか? ⇒ ああ、あれね。うん、【これ】だわ。(※「これ」と【これ】は明らかに違います。「何かをその何かではないものに置き換える」。)


 もっとわかりやすく説明しましょう。


「いやーん、何これ!? そっか、錯覚ね。錯覚ちゃんだわ。錯覚ちゃんだと考えたら、何だかすっきりしたし、このわけの分からないものがちょろいものに見えてきた。勇気も湧いてきた。私ってすごいかもしれない。天才かも。錯覚、万歳!」


「こんな」感じでしょうか。


        *


 では、まとめに入ります。


 語り得ないものを前にしてヒトが錯覚するのは、他の生き物たちと同じく生存し種を存続させるためでしょう。それが自然を相手にするだけなら、話は簡単であり、地球や他の生き物たちに迷惑をかけたり被害をおよぼす度合と規模はずっと小さかったはずです。ところが、どこかで途方もなくズレてしまったのです。


 ヒトが自ら企み仕組んで作ったものを対象に、見て、聞いて、触って、嗅いで、味わって、感じて、錯覚するようになる。こうなったとすれば、いかがなものでしょうか。とんでもない事態につながるのではないでしょうか。ヒトは自分で自分の首を絞めるような状況に自分を追いこんでいるとしか、私には思えないのです。これが杞憂であり妄想であることを切に願っています。


 もしズレが起こったとするなら、それは言語の獲得あるいは発生、言語の使用、言語の使用の複雑化と肥大化に深くかかわっている気がします。ここでの言語とは、広義の言語であり、話し言葉と書き言葉にかぎった狭義の言語ではありません。


 専門家ではないので詳しいことは知りませんが、文字言語と音声言語に加えて、視覚言語、手話、指文字、手文字、ホームサイン、点字、指点字、身ぶり言語(ボディーランゲージ)、さらには非言語コミュニケーションと呼ばれているものも、広い意味での言葉であり言語に含めていい。いや含めない限り、ヒトの言語活動および表象を用いた行動の実相と実態には迫れないと感じています。


 上で挙げたすべての言語(もっとある気がします)を含めた広義の言語を使って、ヒトは日々企み仕組んでさまざまなものやことを作り、その作られたものやことを見たり、聞いたり、触れたり、嗅いだり、味わったり、感じたりするという形で言語活動および表象行為をしている。その根底には「錯覚する」、つまり「何かをその何かではないものに置き換える」がある。そう考えています。


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 ヒトは語ることによって騙るという行動のパターンを身につけてしまった。その騙りの対象はヒトに他ならない。自らが騙り騙られているのである。それだけならいい。他の生き物たちも、そしてこの星までも巻き添えにして無理心中の道へと歩んでいる、ひょっとすると突っ走っているのかもしれない。


 分かってはいるのだけど、やめられない。

 何だか、そっちへ行ってしまう。行ってしまいたくなる。

 やっちゃ駄目だと、何となく分かるんだけど、やってしまう。

 どうにもとまらない。

 何となく、そうなっちゃった。


「これを買ったら、今月は大赤字になるに決まっているって分かっていたんだけど、〇〇を買っちゃったのよね」、「おかあちゃんに叱られるに決まっている、いや叱られるかも、いや叱られてもいいや――、あ、買っちゃった」、「寂しかったのよ~、なんか、こう切なくて、何かで気を紛らせたかったの、いま思えばね」、「いいえ、世間に負けた」、「あれを買ったのは、別の私です」、「あのさー、もうそのことは言わないでくれる?(かなり不機嫌)」


「結果として、あの人の話術に負けたと言うことでしょうか」、「魔が差したとしか申せません」、「これはぜったいに必要だ、これがあれば幸せになる、これがあれば天国に行ける、本気であの時にはそう信じていたの」、「〇〇が家に十個あることは、ちゃんと分かっていたのですけどね、どういうわけか……」、「こう見えても、わたしは頭脳明晰で冷静な人間なんですよ」、「俺、後悔はしてない、うん絶対にしてないよ(泣きそうな顔)」


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 以下は、付録というか、余興というか、異化というか、脱肛築というか、景気づけというか、口直しみたいなものです。よろしければ、お付き合いください。


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