ねえまだなの?の永遠化という感じなのです。

星野廉

2020/12/22 11:37



 安心して身をまかせられるのが、夢の魅力です。夢は何でも肯定してくれます。夢には矛盾はありません。あると感じたら、それはむしろ覚醒ではないでしょうか。夢の後の記憶としては、いくらでも矛盾を指摘できます。一笑に付すこともできるでしょう。覚醒は、その意味で退屈きわまりない体験です。夢では退屈はあり得ません。あれよあれよが夢です。


 あれよあれよという感覚が好きです。夢はもちろんというか、夢が最高のあれよあれよですが、歌や映画や文章や生理現象や運動でも、あれよあれよを体験することがあります。いちばん分かりやすいのはテレビのCMでしょうか。音楽も映像も含まれていて、そして何よりも短い点が、あれよあれよ感を助長するみたいです。あっけにとられて見てしまうCMがあります。心地よいです。文章では野坂昭如の小説と蓮實重彦の批評の文体が、私にはあれよあれよです。難しくてもかまいません。理解なんてする必要がないのがあれよあれよですから。


 テレビのCMはあっと言う間に終りますが、野坂昭如や蓮實重彦の文章はセンテンスが長く、しかも改行が少なくて、決して読みやすいものではありません。でも、私にとってはあれよあれよなんです。考えるいとまがないのに読み進んでしまう。あたまのどこかで音読している自分の声と活字の字面、つまり聴覚と視覚の両面で酩酊している。そんな感じです。視覚はともないますが音楽や旋律を楽しむのに似ています。どこに連れていってくれるのだろうという、運ばれる心地よさがあります。なかなか逆らえないのです。徹底した無抵抗状態というか万事お任せ気分なのです。お腹を天に向けて寝っ転がる「へそ天」という格好をする犬や猫がいますが、それを思い出します。もーどーにでもして頂戴。


 古井由吉の文章も、私にはあれよあれよなのですけど、野坂や蓮實の場合とはちょっと違います。野坂や蓮實の文章が――顰蹙を買うのを覚悟で申しますと――快便や下痢であるなら、古井の文章は便秘に似ている感じなんです。古井の『水』という短編集の解説で「停滞」という言葉が使われていますが、停滞とは比喩的に言えば便秘ですよね。よどみ、とどこおるわけです。これを毎日体験する人がいます。私もそのひとりです。ああ、まだまだ。出ないよー。うーん、うーん。宙ぶらりんの忘我状態というか、要するにまだまだ感です。今しているのは抽象論ではなく、すごくリアルな感覚のお話なのです。まだまだ先を伸ばされる快感という意味ではサスペンスに通じるものがあります。体力がないと読めない気がする古井の文章ですが、何だか死にかけみたいな超脱力系の雰囲気がただようのが不思議でなりません。ああもう駄目、まだまだ、ねえまだなの?の永遠化という感じです。癖になります。一種の多幸感と言えば言いすぎでしょうか。


 まだまだという感覚には二つあるような気がします。一つは、まだなの?というふうに、どこかにたどり着きたい気持ちです。これは、最後に、どこか、あるいは何かにたどり着いて一件落着という、まだまだです。分かった、正解、やったね、ガッテン、はい、よくできました、ユリイカ、ゴール達成、スタンプ、押しましょうね、お疲れさまでした、ご褒美にチューしちゃう。これじゃ、悟りみたいではないですか。私は悟りたくはありません。そんな贅沢は言いません。もう一つの、まだまだは、終りがなさそうという感覚です。私の言っているのは、こっちのほうなのです。そもそも終りなんて考えないのが、私の好きな、まだまだ感だと言えるかもしれません。したがって、決して知的な行為ではないと断言できます。サスペンスにはちがいないのですが、ミステリーに不可欠な謎の解決という知的な喜びや満足感はありません。


 ミステリーにも、必ずしも謎の解決や見事な伏線の回収や大団円といったものを求めない楽しみ方がありそうです。というか、それが私の楽しみ方なのです。性格的なものなのでしょうか。私にはストーリーを味わう喜びが欠けている気がします。筋を覚えている小説が極端に少ないのです。小説に限りません。たとえば、幼いころに見たり読んだはずのテレビドラマや絵本や童話で、今筋を話せるものが思い当たりません。


 特に漫画が駄目です。漫画は見えますが、読めないのです。筋が追えないというのが正確な言い方かもしれません。理由は分かりません。ひょっとすると欠陥なのかもしれませんが、深くは追求しないようにしています。子ども時代に読んだ漫画のストーリーを嬉々として語ったり、同じ漫画のファンとかなり細かい点までを含む筋についての話に花を咲かせる人を見ると、感心もしますが、自分にはあり得ないことだと複雑な心境になります。


 話が飛んだのでもどしますね。江戸川乱歩、ルース・レンデル、宮部みゆき、パトリシア・ハイスミス、ローレンス・ブロックといった作家たちの小説を、たまに手に取って一部を読み返し、まだまだ感を楽しむことがあります。もっとも、ローレンス・ブロックなんて、謎解きを重視せずに心境小説みたいな筆致で作品を書いていますから、私と似たような読み方をする人がいるのではないでしょうか。田口俊樹さんの翻訳の文体が好きで、田口訳以外のブロックなんて考えられません。


 今挙げた広義のミステリー作家たちの作品を、辞書みたいにあちこちめくって楽しんでいます。文章を楽しんだり、情景を描いて思いに耽るのですが、ストーリーは意識しません。辞書は引くこともありますが、辞書を読むのが私の趣味の一つなのです。国語辞典、漢和辞典、英和、和英、英英、仏和、仏仏、独和、西和、伊和、ことわざ、類語、新聞用字用語、ドゥーデンの図解……。


 小説を読む楽しみと辞書を読む楽しみに、大きな違いがあるという気がしません。知識を得たいわけではなく、ただあるページやある箇所を読んでいたいというか、読んでもすぐに忘れるので、また来てしまうのです。言葉が好きだからと言えば、それで終りみたいな話なのですけど……。気持ちよかったことを覚えているから、そこにまた来るのでしょうね。


 あたまがではなくて、からだが覚えているのです。「また、来ちゃいました」という感じです。「あら、また来たの? いやだ、あんたも好きね」なんて本も辞書も言わないので救われます。そういう茶化した言い方をされると、私は赤面するだけでなく、かなり落ちこんで立ち上がれなくなるたちなのです。想像しただけで、汗が出はじめました。



※「文供養」より。

 この文章は、「文供養/文手箱」というマガジンに収めます。



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