【掌編小説】 リハーサル

 朋子の家に来ても、長沢時雄は食事をしていくことがない。店屋物をとることさえ嫌う。匂いに対し異常なほど敏感に反応する。それでいて、あのような仕事が務まるのが不可解だった。付き合う相手として時雄が自分を選んだのは、濃い化粧をせず香水の類も用いないからだと朋子は思う。

「何だか、ぼんやりしてるね」と、時雄が言った。

 気がつくと、CDラジカセの音楽が終わっている。

「ごめん」

 朋子はベッドから床に手を下ろしてリモコンを拾い上げ、FMに切り替えた。

「たっちゃんのこと?」

「そう。明日、何を作ってやろうかなって思って」

 朋子は正直に答えた。翌日息子の達郎が出張の帰りにこの家に寄っていくことは、時雄に告げてある。

 時雄が小さく笑った。

「おかしい?」

「おかしいよ」

 朋子は赤面する。

「たっちゃんは、どんなものが好きなの?」

 時雄が朋子のほうに向き直った。ベッドのマットが揺れる。時雄と触れ合っていた肩と腕の間に、エアコンの微風がさっと流れ込む。たちまち上体の火照りがさめ、汗が引いていく。

「何のこと?」

 朋子は天井に目をすえたまま尋ねた。曲げた肘を枕にした時雄が、視線を向けているのが目の端に見える。

「食い物に決まっているじゃない」

 時雄が食べ物の話をしていることを、朋子は不思議に思う。これまでに二人の間で、食べ物の話題が出たことが何度あっただろうか。

「あの子の好物ねえ……。小さいころは麺類だったかな。ほら、ケッチャップで味付けしただけのスパゲティーがあるでしょ。あれに目玉焼きを乗せたのが大好きだったの。だから一時は毎日食べさせてた。ひどい母親でしょ? でもね、そのせいか、たっちゃん、料理がとても上手なの。小学三、四年生くらいからかしら、あの子がひとりで夕飯を作るようになったのは――」

「きっと明日も、たっちゃんが作ってくれるんじゃない?」

「そうはいかないわよ。わたしが作らなきゃ」

「そんなもんかなあ」

「そんなものよ。これでも、一応母親なんだから」

「じゃあ、何か作ってみろよ」

「作るって、今から?」

「そう。おれが実験台になってやる」

 朋子は顔だけを左に向け、傍らにいる時雄の目をのぞき込んだ。やっぱり、いつもと感じが違う。別れる気なのだろうか。不意にそんな考えが浮かぶ。

「いいわ。作りましょう」朋子は上体を起した。「料理の本を買ってあるから、その中から好きなものを選んでみて――」


 かなり微妙な部分を含めて、時雄には達郎について話してある。朋子が十七歳の時に産んだ子であること。今年の誕生日で十九歳になること。三歳までは、朋子の母親が生前、この大きな家で育てていた。中学一年生の時の夏休みを境に、学校以外で化粧をしたり女性の格好をするようになった。中学卒業後に上京して以来、家に帰っていないこと。

 家出をしたわけではない。東京での就職先は決まっていた。上京の前夜に「これまで育ててくれて、ありがとう」と、朋子に向かって頭を下げた。就職した企業はすぐに辞めた。その後もずっと東京で暮らしていて、未成年なのに一時期は女装した男性が接待するバーで働いていたこともあったという。

 現在はその時の気分次第で女性系と男性系の格好をし分けながら輸入雑貨の店に勤務し、女性と同棲しているらしい。「友達じゃなくてパートナーなんだ」と達郎は言う。そうしたことを折に触れて、朋子は時雄に話してきた。


 二カ月前、達郎から朋子に電話があった。

「ねえ、ぼく近いうちにテレビに出るんだ。見てくれる?」

 達郎が唐突に言った。電話は年に五、六回ある。ぼくね、昨日R会に入ったんだ――。三年ほど前の電話で、達郎がある宗教団体に入ったと打ち明けた時のことを朋子は思い出していた。失恋したといって、泣きながら電話してきたこともあった。精神的に不安定になり、心理カウンセラーと定期的に面談をしていると聞いたこともある。半年くらい前には、ある人と出会い、幸せな毎日を送っているとも言っていた。

 声だけは聞いているが、今どんな顔をしているのかについては、見当もつかない。

 テレビの放送がある日を告げられた。カレンダーで確かめると、祭日の木曜だった。一時間四十五分の特別番組で、人物紹介のドキュメンタリーや、アンケート調査の結果発表、インタビューなどさまざまな企画が盛りこまれ、そのうちの討論のコーナーに出るのだという。

 朋子の勤め先は年中無休で、休みは一定していない。放送時間は午後七時からだ。「残業がなかったら見るわ」と返事をすると、録画をすればいいと言われたので、機械がないと答えた。

「DVDレコーダーくらい買ったら? そうだ、ぼくがプレゼントする。今週中に送るね。コードの接続とか、自分で出来る?」

「いいよ、そんなの送ってくれなくても。何とか都合をつけて、必ず見るようにするから」

「きっとだよ」

 朋子は緊張しながら放送を見た。番組の内容は、朋子には興味も共感も持てないものだった。セクシュアリティという言葉が頻繁に出てきた。八時を過ぎて、スタジオ内での討論会が始まった。

 二十人ほどの参加者たちが、なだらかな雛壇状の席に並んでいる。息子の顔はすぐに分かった。約四年ぶりで見るその顔は自分によく似ていた。それを確認しただけで十分だった。

 いったんテレビを切った。一分も経たないうちに、もう一度だけ、顔を見てから切ろうと思い、リモコンのボタンを押した。結局、最後まで番組を見てしまった。


 数日後、時雄に番組を見たことを話した。

「いろんな人がいるってことだけは分かった。でも、わたしには苦手だなあ、ああいう話題は」

「いい話じゃん」

「何が?」

「母親に自分を理解してもらいたいから、電話して来たんだろ?」

 朋子より三歳年下ながら、時雄は時としてもっと年長の男のような口をきく。結婚を前提としない自由な関係で二年以上も付き合っているのは、時雄のそうした老成とも受け取れる性格が働いているからだと朋子は思う。それでいて、子どもじみた言動も多い。その落差に引かれているのかもしれないとも思う。


     *


 庖丁を握った朋子の指先が震える。時雄がこんなに長くキッチンにいるのは珍しい。ボトル入りのミネラルウォーターを仰いでいる時雄の喉のあたりから、くぐもった低い音が聞こえる。料理をする姿を時雄から見つめられるのは恥ずかしいが、視線を浴びている自分を意識するのは殊のほか心地よかった。

 ただ、この初めての出来事が二人にとって何かの始まりになるとは、とうてい感じられない。逆に、何かが消えかけている。朋子はその直感を信じた。

「ああだめ。包丁がうまく切れてくれない。当たり前よね、出来た物ばかり買ってくる怠け者だもの」

「気をつけなよ。しゃべっていると指を切るよ」

「大丈夫。外科の先生がそばについていてくれるじゃない」

沈黙があった。時雄の機嫌を損ねたらしい。

 どうせ、終わりだもの、怒らせたって構わない――。先回りして結果を考えることで、後で味わう悲しさをやわらげようといている自分に気づく。こんなことが前の人の時にもあった。そう思うと、なぜか笑い出したくなった。

「大丈夫。後はピーラーを使うから」と、朋子は言い直した。「でも、不思議よね。あなたのために料理を作っているなんて」

「だから言っただろう、ぼくのためじゃないって。明日のリハーサルだよ」


     *


 ロールキャベツとポテトサラダが、テーブルに並んでいる。朋子は、ポテトサラダを口に運ぶ相手の顔を見守る。咀嚼(そしゃく)する口元に笑みが浮かんだ。

「どう?」

「うん、おいしい」

「本当に?」

「本当だよ。お世辞は言わない――。練習でもしたの?」

「まさか。能ある鷹は何とかって言うじゃない。今度はこっちを食べてみて」と言って、朋子はロールキャベツを指さした。昨日と同じメニューを前にして食欲は湧かない。ご飯だけを口に入れる。「ああ、おいしい。お米って、量が多いほどふっくらとおいしく炊けるんだね。びっくりしちゃった」

「変なの。そんなことに感心しちゃって」と達郎は言い、一瞬考えるような表情を見せた。「お母さん、ちっともおかずを食べないじゃない」

「なんだか、胸がいっぱい。わたし、お茶漬けだけにしておこうかな」 と言い、朋子は息子の頭越しに奥の部屋の窓に目をやった。

 半開きのカーテンの端から見える庭はもう暗い。さきほどの夕立を浴びた草木が、家からこぼれる明かりを受けて、所々が光を放っている。

「あなた何をつけているの。さっきから、聞こうと思っていたんだけど」

 顎をあげて朋子はくんくんと小刻みに息を吸い込んでみせた。

「匂う? これでも、いつもよりは弱めにつけているんだ」

 達郎は伏せ目がちに言った。髪こそかなり長いが、きょうの達郎は特に女性らしい服装はしていない。ゆったりとしたシルエットのグレイのスーツが細い体に似合っている。昼食を兼ねた商談は、うまくまとまったらしい。

 朋子は化粧気がない息子の肌の若さにあらためて驚いた。嫉妬に似た感情を覚える。

「いい匂い」

「これをつけるようになって運が向いたから、ずっと使ってんだ」

「小さいころから、あなたって縁起をかつぐところがあったもんね」

「お母さんは、縁起よりも勘を信じる人」

 いいえ、あなたはわたしの性格をちゃんと受け継いでいる――。朋子は、心の中で言う。この子は感づいている。わたしもこの子の幸せと、その幸せから来るわたしへの心遣いを感じ取っている。いつもの電話での会話なら、「あの人、元気?」とか、「うまくいってる?」と必ず口にする時雄の話題に、きょうは全然触れてこない。

「気に入ったんだったら、あげようか」と、達郎は香水をつけているらしい襟のあたりを手のひらで煽ってみせた。送られてくるかすかな空気に溶け込んだ香りを吸い込む。その中に、幼かったころの息子の甘い体臭が混じっているような気がした。

「うん、ちょうだい」


 家には三時間いただけで、達郎は帰った。帰り際に、達郎はバッグから濃いブルーの小瓶を取り出し、朋子に手渡した。

「お母さん――」

「何?」

「幸せになってね」

「わたしは、このままで十分幸せよ」と、朋子は答えた。息子が言う「幸せ」とは意味をずらせて言ったつもりだった。そのことは、息子も分かっているはずだ。

「なら、いいけど」

 そういう達郎の声は、沈んで聞こえた。

「そんなに、わたしって、不幸そう?」と精一杯明るい声を作って朋子は言った。

「ううん」

 達郎の首の振り方は幼いころと変わらない。首を少し斜めに構えて大きく二回振る。一瞬、昔に返ったような気がした。頬が火照る。

「泊まっていけばいいのに」と、再度朋子は勧めた。「部屋だって、そのままにしてあったでしょ」

「そうしたいけど、あの人が待ってるから」

 玄関で、達郎を送り出すさいに、一緒に暮らしているパートナーだという相手の名前を聞いていないのに気づいた。あえて尋ねようとはしなかった。達郎も進んでその人の名や今の暮らしには触れなかった。こっちに気兼ねして、パートナーの話題を避けている――。朋子は思う。

 外資系の企業に勤務している、ごく普通の女性。セクシュアリティには全くこだわらない人。相手のセクシュアリティには関係なく、自分が好きになった人が好きな人という点で、ぼくたち意見が一致しているんだ――。以前電話越しに、達郎はそうした言葉で、その女性と自分の生き方を語っていた。

「あの人によろしく」朋子は言った。

「うん。伝えておく」

 そう言いながら、朋子は息子の口から時雄を指す「あの人」という言葉が一度も出なかったことに、優しさと寂しさを感じた。あの人は、もうこの家に来ない――。でも、わたしにはこの子がいる。そう思うと寂しさが消えた。


 一人玄関にたたずんでいる朋子は、達郎からもらった小瓶を頬に押しつけた。堅く閉めてある蓋の境目からかすかに匂いが漏れる。

 ようやく玄関先から奥に戻る気持ちになった。一つひとつ明かりを消しながら、朋子は寝室へと向かった。ベッドの脇には、五日前に慌てて買った料理の本がある。

 明日は何を作ろう?

 心もち早足になるのを感じた。