うわの空

星野廉

2020/11/21 07:58


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 まともな文章が次第に書けなくなってくるのは悲しい。十年前のブログ記事を今年の夏にnoteに再投稿したのだが、過去の文章を読み返し加筆しながらかつての自分に嫉妬している自分がいた。十年前の文章は元気にあふれていたし下手は下手なりに正確に書こうした跡がみとめられた。いまは何を書いてもピントのぼけた文しか書けない。最近とみにそう感じる。

 頭がはっきりしない。物忘れがひどくなり、うわの空でいることが多くなった。認知症を発症し始めたのかもしれない。心療内科のクリニックにはもう十年以上通院しているのだが、初めの頃にはうつ病だと診断され、いまではストレス障害という具合に診断は微妙に推移してきている。今度は認知症というわけか。通院しているのは、内科(消化器系と循環器系)、耳鼻科、皮膚科、泌尿器科、整形外科と、病気のデパートみたいになっているのに、これ以上診断名が増えるのは勘弁してほしい。


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 一日の大半を読書と執筆に費やしてきた者には、頭がぼけてくるのは(この表現をお許しください)死の宣告を受けたようで悲しい。いわばなしくずしの死が頭の中で進行するのである。何かを読むとする。読んでいるうちに別のことを考えているのに気づく。何かを書き始めたとする。書きながら頭の中はどこかをさまよっている。それが心地よいので危機感を覚えることもないから、困る。困るのは後で考えたことであり、ぼーっとしている最中には困りはしない。

 つねにぼーっとしているわけではない。体の調子と同じく、頭の状態も一様ではなく揺らぎ移ろう。気分や感情が刻々と変わるのをひとごとのように見ている時もあるし、まさに忘我という言葉がぴったりの状態であったのを、後で気づくこともある。

 いま読んでいるのは、老年になった作家や病床にあった時期の作家の書いた作品が多い。しっくりくるからだ。たとえば、夏目漱石の後期の随想――新聞に連載された長い小説ではなく小品や随筆――は文章に艶があって安らかな気持ちになる。藤枝静男の晩年の作品――悪い意味ではなく小説が壊れていく――にはおおいに共感を覚えるし書く時の参考にもなる。古井由吉の短編――連作も含む、というか何と言っても連作――には毒が入っているのを覚悟して読む妖しい美味しさがある。こういうしっくりくる作品だと、比較的集中して読んでいる。とは言え、気がつくと別のことを考えている場合もある。それがまた愉しい。


 いったん投稿した記事をいじる癖があるので、前回の記事「ここはどこ?」を読んでみたのだが、唖然とするほどピンボケになっていていじる気持ちも起きない。文章のピントが合わずにぼけているのは書くのが下手だというだけでなく、頭の中がぼけているからにほかならない。悲しい。


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 このところ、しきりに頭に浮かぶのは、意識あるいは目だけになってあちこちをさまようというまぼろしだ。いま、まぼろしと書いたが幻想とは書く気がしない。意識という言い方も、自分の中ではちょっと違うという思いがあり、ほんとうはたましいという言葉が好きなのだが、これには手垢がたくさん付いているので使うのを避けている。「目だけになって」という言い方は夢の中の感覚に近くて気に入っている。

 あちこちをさまようと書いたが、その「あちこち」とは寝入り際によく立ち現れる、かつてじっさいに歩いた場所とか、じっさいに見た、あるいはテレビか何かで見たか、小説で読んだ時に頭に浮かべた景色なのだが、最近はインターネットを介して画像や動画として見たり、文書として読んだ際に浮かんだ光景やイメージが頻繁に出てくるようになった。


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……………ここにいると、君と僕との間に起きた出来事が記憶ではなく小説のように思われてくる。僕がこうやって過去の出来事の記憶を言葉としてつづっているせいだろう。書かれた記憶は、まるで小説のようだ。自分の書いた文章を読み返していると、いったい誰が書いた物語なのだろうと不思議な気持ちになることがある。確かに書いたのは僕だ。書いた記憶があるからね。ただいったん書きとめられ文章となった、出来事の記憶を読み返すと、果たしてその文章は僕が本当に書いたのだろうかという思いが頭をもたげてくることがある。そういう時の僕はひどく疲れているのだ。

 身体がないのに疲れるのはおかしいと人は思うにちがいない。でも疲れるんだ。頭だけになった、いや正確に言えばおそらく脳か意識になったらしい僕なのに疲れは感じる。眠くもなる。そして眠りに落ちる。夢を見る。夢を見ない眠りもある。夢を見たのを覚えていない場合もあるだろう。そして目覚める。ここはどこ? 寝覚めが悪いと決まってそう思う。少し考えて、ああいつものここね、とつぶやき諦めとともに完全な覚醒を待つ。すっかり目が覚めると、ネット内をあちこち歩き回るか、考えごとをする。

 考えごとばかりに耽っていると収拾がつかなくなっていらいらするから、こうやって思いを文書にする。言葉はその時々の思いや感情を文章という形で固定するから、支離滅裂になりがちな僕の思考を抑制しなだめてくれる。書かれた言葉を眺めていると不安が消えて気持ちが安定する。そんなわけで、文章を書いている時がいちばん生き生きする。いったん書かれた文章には妥協するしかない。いじり出すと収拾がつかなくなるからね。最近よく考えるんだけど、ただ書いているだけでは駄目だ。ただひとり言を書いているのと君に当てたメールを書いているのとは雲泥の差と言っていいほど違う。君に話しかける時、僕は幸せを感じる。

 書くのに疲れると、例の感情に支配される。これは誰が書いた文章なのだという疑問だ。自分が自分以外の誰かの書いている物語の中にいるような居心地の悪い気分と言ってもいい。いっそのこと自分が架空の存在だったらどんなに楽かと思う時がある。そんな時には自分を突き放して見つめている自分がいる。自分は突き放されているのだけど、何か大きな存在に身を任せている安心感がある。……………



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