スクリーン越しに
2021/04/09 08:42
ここはどこなのでしょう。
今私はPCに向かい、noteの下書きモードで記事を書いています。白を基調にした画面で、右側に「noteのヒント」という表示が出ているだけのシンプルなものです。この表示も「×」印があり消すことができるようです。今消しました。
あっ、文字数が表示されています。初めて知りました。見ているようで見ていないというものはたくさんあります。目に入るものすべてが意識下にあったら大変なことになりそうです。混乱どころか錯乱するのではないでしょうか。
日常生活でもそうですが、インターネットに接続したPCでは特にそう感じます。情報が多すぎるのです。体感や意識というものは、膨大な情報を取捨選択することで成り立っているという話を思い出しました。
ここにいてこうやって書いていると落ち着きます。思えば、ペンで紙に文章を書く習慣がなくなりました。今の私にとって「書く」とはPCに向かってキーを叩くこと以外の何ものでもありません。PCで書いている。これこそが今体感できる「現実」であり「事実」なのです。
それにしても、ここはどこなのでしょう。
*
「今」と「ここ」について考え、そして考えたことを文字にする場合に、ネットに接続した何らかの画面で書いているという事実を無視して考えるわけにはいきません。テキストエディターやワープロ文書でさえ今はネットにつながっているようなのですが、慣れたとはいえ緊張します。
誰かに見られている、知らないところにいる知らない人とつながっている、誰かのテリトリーを侵している。犯している、冒している、おかしている。逆に、侵されている、犯されている、冒されている、おかされている。そんな恐怖心が心の隅に常にあります。ネットに接続しないで使えたワープロ専用機が恋しいです。
最近のことですが、複数のブログサービスに登録して使い勝手を比較してみました。bloggerとnoteは以前から利用しています。今回登録したのは、goo、JUGEM、Seesaa、Ameba、FC2、はてな、忍者の七つです。かつて短期間利用したことのあるサイトもあれば、今回初めて登録したものもあります。
bloggerとnoteでさえ、その作りや使い方に不明な点が多々あるのに、慣れないブログを使うとなると、不器用な私はいらいらしたり頭を抱えたりの連続でした。ほどよい「ここはどこ」感に浸るどころか、迷い混乱し途方に暮れてしまうのです。
操作する際の細かい相違点はたくさんありますが、一番大きな違いはコミュニティー(他のユーザーと触れ合う場や仕組み)の有無です。コミュニティーがないと、それはそれは静かなのです。私はコミュニティーのないbloggerを使っていますが、他のユーザーを含め、まったく人の気配を感じません。時には寂しくなりますが、執筆に集中できるのは確かです。
私は小説や自分のために書く文章をbloggerで書いて、そこに下書きのまま保存しています。何しろbloggerは一つのアカウントで、新しいブログを非公開にしていくつも作れるので(上限は知りません)、テーマ別そして作品毎に文書を分けて整理ができます。
下書きの記事でも検索機能が使えて有り難いです。Evernote(エバーノート)のように使えるのです。私は過去のブログ記事の置き場所としても利用しています。
慣れないブログサイトで操作をするのはしんどい作業ですが、複数のブログサービスを並行して利用することで、たくさんの気づきと学びをもらいました。たとえば、noteの良さと便利さを改めて知ることができ、それを今後ここでの活動で生かしていこうと考えています。
*
自分は「文章(あるいは言葉)の中に住んでいる」とか「noteの住人」であるといった意味の言葉を、他のnoterさんの記事でよく目にしますが、とてもよく分かる気がします。
noteで投稿したりフォロワーさんや他のユーザーさんたちと交流していると、PCでnoteに接続している時はもちろん(私は自前のスマホを持っていないのでスマホでnoteを使うことはありませんが)、接続していなくても常に頭のどこかでnoteという場所とそこにいる人たちが意識されているのを、私は感じます。
夢の中でさえnoteとかかわっている自分がいます。夢でnoteを使っていたり、顔を知らないはずのnoterさんが――その多くの性別や年齢や境遇は不明なままです――、誰かの顔や姿を借りて現われるのです。アイコンの画像と重なる場合もあります。
そうした状態の良し悪しは脇にのけますが、そんな自分は文字通りnoteに住んでいるのだと思います。また、文章を書いている最中の自分は文章や言葉の中にいるとも感じます。
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ここはどこなのでしょう。
PCに向かって、noteの下書き画面に文字を並べている今、私はnoteという空間にいると言えそうです。頭ではそう意識していますが、果たしてここがどこなのかは依然として不明です。
自宅の居間でテーブルに着きPC画面に見入っている今、私は「日本国、〇県、〇市、〇町、〇番地にある自宅の居間にいる」というわけです。そうなんでしょう。頭では分かっています。それでもここはどこなのかは依然として分かりません。事実だといわれることを紋切り型の言葉で記述したところで、体感が納得してくれないのです。
意識と体が遊離しているのでしょうか。そう言い切れない気もします。体あっての意識というか、個人の意識は個人の身体に深くかかわっているように思えます。
目とか意識だけになって空を飛びながら地上を俯瞰したり、目の高さほどの視線でふわふわと道を進んでいく夢を見ることがあります。寝際の夢うつつでもそういうことをよく経験します。
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空を飛ぶ夢を最近見ていないなあと思っているうちに、『飛ぶ夢をしばらく見ない』というタイトルの小説を思い出し、二階に上がって書棚の脇に積んである段ボール箱からその本を取り出しました。どこにどの本があるのかは何となく覚えています。体が覚えている感じなのです。
山田太一の新潮文庫版『飛ぶ夢をしばらく見ない』を手に取りました。ぱらぱらページをめくっていて内容を思い出したのですけど、ちょっとなじめないところがあり、全体を再読する気持ちにはなりませんでした。描写が生々しいのです。ただし収穫はありました。作品中、私にとって大切なところだけを解説します。
あと二ヶ月と数十日で四十八歳になるという動きのとれない冬の日々――比喩ではなく、私は右足の大腿骨を骨折してベッドに固定されていた――私の内部の芯のようなところで現世的なものからの離脱があった。
(山田太一『飛ぶ夢をしばらく見ない』新潮文庫 p.1)
このように小説が始まります。「私」という男性の語り手の置かれた状況が簡潔に示されているので、すっと作品に入っていけそうですね。この語り手がいる入院している病院の近くで列車事故が起こり、負傷者たちがこの病院にも運ばれてきます。四十半ばの「婦長」が語り手に言います。
「一晩で、絶対なんとかするって事務長の方からはいって来てるんですけど、この階の向こうの端の個室へ移って貰えないですか?」
「いいですよ」
「ちがうの。個室たって向こうにもう入っている人がいるわけ。だから少し狭い二人部屋ってことになるんだけど、向こうの人はいいっていってくれたの。間に衝立を置くし、どうかしら、と思うんだけど」
(中略)
「だったら、衝立なんていいですよ。行きますよ」
「衝立は、実はあちらの方の希望なの。女性なの」
「――」
「両方動けないし、一晩だけだし」
(山田太一『飛ぶ夢をしばらく見ない』新潮文庫 p.14)
ご存じの方が多いと思いますが、山田太一は著名な脚本家です。この小説は会話が多く、ストーリーを展開する上での要を押えた巧みな会話でぐんぐん読者を引きこみます。
こうして語り手の男は衝立(ついたて)越しに、ある女性と声だけでつながるという一夜を過ごすことになるのです。
小学館文庫 飛ぶ夢をしばらく見ない
大腿骨を骨折して入院中の孤独な中年男・田浦は、二人だけの病室の衝立越しに出会った女性患者と不思議な一夜を過ごす。「私を犯し
www.kinokuniya.co.jp
山田太一 (脚本家) - Wikipedia
ja.wikipedia.org
*
ところで、今こうやってnoteで文章を書いている私と、noteで私の記事を読んでいるあなたはどこにいるのでしょう。文章を書いている私の「今」と、記事を読んでいるあなたの「今」は当然のことながらずれています。リアルタイムに接しているわけではありません(ましてや対面しているわけではありません)。
別に不思議なことではありませんね。本や雑誌を読んだり、映画やテレビを見る時でも、同じことが起こっています。ライブでない限り、制作する側の時間と鑑賞する側の時間はずれているのが普通です。
話を文章に限れば、書かれている内容の時間、書き手が書いている時間、読み手が読んでいる時間、読み手がその文章を想起する時間は、それぞれずれています。「時間」を「場所」に置き換えても同じです。ずれています。
とはいえ、普段はそうしたずれを意識することはありません。興ざめするからです。それが人情だからです。
そんなずれ――時間のずれであると同時に場所のずれ――を意識し続ける人生なんて楽しいわけがありません。今ここで、ある出来事をあたかも「今ここ」で起きているように頭の中に浮かべるのが普通だからです。その方がずっと気持ちがいいと体と意識が知っているからかもしれません。
でも、ずれているのです。屁理屈だと言われるのは覚悟で言っています。
あなたの見つめている画面の文字が実は画素の集まりだとか、太陽が東から昇って西に沈むように見えるのは錯覚なのだとか、あなたの聞いているアーティストの声は実はデジタル化された信号をスピーカーが再生しているのだ、といった聞けばがっかりするような戯言は屁理屈だと非難されるのが人の世界なのです。それでいいのです。
*
すると、かすかに尿の匂いがした。
俺も溲瓶でやるのだが、やはりテレビをつけなければならないのであるか? 夜中は、どうしたらいいのかであるか?
(同書 pp.27-28)
想像してみてください。お互いに容易に身動きできない体だといっても、「スチールパイプの枠にライトブルーの布を張った」衝立を隔てて、異性の二人が同じ病室で夜を過ごすのです。
十時をすぎても遠く作業をする人々の音と声が聞こえた。
女が何かをいった。いった気がした。
「は?」
答えがない。
すでに灯りは消していた。寝言かもしれない。
(中略)
三十代だろうか? もしくは四十代そこそこ。声の印象はそのようなものだった。細く小さい声なので、小柄で痩せた人を想像してしまう。あてがはずれることも多いので、美人かどうかは保留しておく。
「ししゅうに――」と女がいった。
刺繍に? 詞集に? 死臭に?
「ええ――」
「よろしいかしら?」
「どうぞ。今日は、すぐには眠れそうもありません」
(同書 pp.28-29)
衝立で仕切られた部屋で、声だけを頼りに「誰か」が「誰か」と話す。その時の、二人は何でつながっているのでしょう。
頼りが肉声であっても、電話越しの「音声」であっても、ネットを通した「画像と音声」であっても、ネット上のブログの「テキスト(文書)」であっても、事態は変わらないのではないでしょうか。
【病室】
私
――衝立(スクリーン)―― 声、音、匂い、気配
女性
【ブログ】
私
――スクリーン(画面)―― 文章(言葉・文字)、写真、絵、動画、音声
あなた
「今」と「ここ」は具体的かつ自明であるように見えて、抽象的かつ不明なものではないでしょうか。こう書きながらも「今」と「ここ」については、さっぱり分かりません。
*
身動きできない状態で、音と気配を頼りに「向こう」を想像するという身振りは、古井由吉が諸作品で繰り返し描いてきた病室の仕草を想起させます。感化されやすい私は、そのイメージを夢うつつや夢の中で繰り返し思い起こしてきました。
「私」を省く
小学生になっても自分のことを「僕」とは言えない子でした。母親はそうとう心配したようですが、それを薄々感じながらも——いや
norenwake.blogspot.com
*
病室で衝立越しに聞こえる声や漂ってくる匂いや伝わってくる気配は、それを発する人そのものではありません。その声や匂いや気配は、その人ではなく――知覚の対象となるという意味で――、置き換えられたものに他なりません。
スクリーン(画面)で読む文字(言葉)は、その人の思いそのものではありません。ましてやその人自身でもありません。文字も音声も、置き換えられたものに他なりません。要するに知覚されたものなのです。
何かをその何かではないもので置き換える。たとえば、「画素の集まり」を「文字という点と線の集まり」や「言葉という手で触れることができないもの」や「意味というこれまた抽象的なもの」、つまり「画素の集まり」ではないもので置き換える。
そうした錯覚の上に人とその営みは成立している気がします。
*
声や匂いで人を感じる。文字や音声で人を感じる。
「今」と「ここ」は「あの時」と「向こう」。
声に恋して悪いでしょうか。言葉に恋することなど、古今東西で行われてきた人の営みではないでしょうか。
*
眠いです。
私は今あなたのことを考えています。そう、記事を読んでくれている、あなたです。
あなたにとっての私は何なのでしょう。文章なのでしょうか。言葉なのでしょうか。もしそうなら嬉しいです。百歩譲って、文字でもいいです。せめて、そうであってほしいです。
ただ画素の集まりだとは思ってほしくないです。贅沢でしょうか。
*
眠いです。疲れてもいます。体調もよくありません。
このPCの画面の右下には「14:17 2021/04/08」という表示が出ています。ここは「日本国、〇県、〇市、〇町、〇番地」にある自宅の居間です。この文章は明日の朝に読み返した後で投稿しようと考えています。
あなたが、この文章を読むのはいつなのでしょう。あなたは、どこでこの文章を読むのでしょう。私はあなたとつながりたくてたまりません。現身の貴方に、空蝉の貴方に、現身の彼方に、空蝉の彼方に、うつせみのあなたに。
言葉はあなた <言葉は魔法・015>
言葉はガラス。 言葉は硝子。 言葉はビードロ。 言葉はぎやまん。 言葉は魔法。 ガラスという言葉で、ビードロと
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現身とは - コトバンク
デジタル大辞泉 - 現身の用語解説 - 1 現在生をうけているからだ。現在の身。うつしみ。2 「現身仏」に同じ。
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空蝉とは - コトバンク
デジタル大辞泉 - 空蝉の用語解説 - 《「うつしおみ」が「うつそみ」を経て音変化したもの》1 この世に現に生きている人。
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空蝉・虚蝉とは - コトバンク
精選版 日本国語大辞典 - 空蝉・虚蝉の用語解説 - [1] 〘名〙[一]① この世に生きている人。うつしおみ。うつそみ。
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デジタル大辞泉 - 彼方の用語解説 - [代]遠称の指示代名詞。あっち。あちら。「畠主、—へまはり、こちへまはりして」〈虎
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貴方とは - コトバンク
デジタル大辞泉 - 貴方の用語解説 - [代]《「彼方(あなた)」から》二人称の人代名詞。1 対等または目下の者に対して、
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眠いです。頭もひどく疲れているので、少し横になります。
では、失礼いたします。
追記:今夜、飛ぶ夢が見たいと思っています。このところ見ていないのです。
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