【掌編小説】セレブリティ
新幹線のホームを歩きながら、薬を飲む時刻を三分過ぎているのに気がついた。列車のドアは既に開いている。発車までにはまだ十分ほどあるが、薬を飲む時間をずらしたくない。いったんいい加減になると、それが癖になる。
出がけに飲み下した精神安定剤のせいか、コンクリートの地面がやわらかく感じられる。早くしなければ。定刻に服用しなければならないカプセルのことだけが頭を占める。指定席のある車両へと急いだ。
左前方の車内で誰かが大きく手を振っているのが目に入った。そちらには視線を向けずそのまま通り過ぎようとすると、コツコツというくぐもった音がした。窓に目をやると、知った顔の男がガラスを叩いている。目と目とが合った。今度は、さかんに手招きをする。立ち止まって軽く会釈をし、早足で前方に進んだ。
飲み忘れは厳禁だが、十五分前後のずれなら構わない。ただし、なるべく定時での服用を習慣化するように――。担当の医師は、繰り返しそう言う。席に腰を下ろして、すぐに薬を飲みたかった。
次の車両との継ぎ目まで来たとき、さきほどの男がドアから飛び出すような勢いで姿をあらわした。
「あなた何号車?」
尋ねられるままに、手に持った指定券の番号を読み上げた。
「少し離れているけど、乗ってしまえば大丈夫。まあ、とにかく、お上がりなさいよ」
まるで自宅に招くような口ぶりだった。ためらいもあったが、男の勢いに負けてそのまま乗車した。車両のほぼ中央にある二人掛けシートの窓側が、男の席だった。結局は、男の隣の席で薬を飲むはめになってしまった。水筒をデイパックにしまったところで、男は口を開いた。
「ご苦労さま」
平然とした口調でそう言った男の顔に、すべてを了解しているという表情を読んだ。定期検査の結果、医師から薬を飲み始めるように指示されて二週間が過ぎようとしている。人前で薬を飲むことには抵抗はないが、服用の時刻を守るのには、かなり神経をとがらせている。自分でも度が過ぎている気もする。
「わたし、実家に帰るんですよ。いえ、休暇でじゃなく、もう東京にはいなくなるという意味――」
男は一方的に話し始めた。内容は、共通の知り合いや飲屋の近況が主だった。よくしゃべる男だということは知っている。次第に早口になってきたが、場所をわきまえて声の大きさを調節するだけの繊細さを備えている。薬を飲んだ安堵感に浸りながら話を聞いていた。
「名古屋まで一緒の人がいてよかった」
こちらの指定券を覗き見て、行き先を知ったのだろう。男はそう言って、自分の座席を後ろに少し倒した。
「一緒って言ったって、ここは私の席じゃない」
「大丈夫、何とかするから、ご一緒しましょう。それとも、誰かお連れさんでも?」
「いや」
「よかった」
男は次々と共通の知人の噂や世間話をした。男の早口に閉口し始めた。車内に入った以上、あとは席を移動するだけだ。少しの間、その男の話の聞き役になることにした。デイパックに入れてある読みさしの本の内容が、頭に浮かんでくる。車内での二時間があれば、読み終えることができるだろう。
発車三分前になり席が八割ほど埋まったところで、腰を据えている座席の乗客が来た。ヘッドホンをした十七、八に見える男で、顔をしかめている。この席に私を勝手に座らせた男は、その若い男にヘッドホンを外すように身ぶりで示し、いきなり千円札を握らせた。二枚に見えた。
「お弁当でも買ってちょうだい。足りないかしら?」
相手は首を振って千円札をズボンのポケットにねじ込んだ。
指定券を取り上げられたままなので、こっちは二人のやりとりを黙って見ているしかない。交渉が成立し、若い男は去った。
状況判断が素早く、機転が利き、頭の回転が速そうな隣席の男に感心した。確か、服の店で働いていたはずだ。名前は知らない。通称も知らない。男のほうも、たぶん私の名前を知らないだろう。その男と知り合った界隈では、こういう薄い関係の人間がたくさんいる。
たとえば、あるバーによく来るスポーツジムでインストラクターをやっているという男。民放のアナウンサーのGに似た、マークと呼ばれている男。ある飲屋で大乱闘になり、公務執行妨害で逮捕された酒癖の悪いタチバナとかいう名の男。そうした、あだ名や通称だけで知っている男たち。それに加えて、飲屋のマスターや従業員たち。
列車が動き始めた。ぎりぎりで車内に乗り込んだ客たちが、せわしく通路を行き来する。男は相変わらず、世間話を続けている。私は車内での読書をあきらめた。
突然、「あっ」と、男が叫んだ。テレビでよく見る女性の芸能人と、そのマネージャーか付き人らしき男と女が、通路を通り過ぎていく。この三人も、発車間際に乗り込んだらしい。
男はブランド物の小型のバッグから手帳を取り出し、何やら書き付けている。 私は遠慮して前方に目を向けていた。
「ねえ、見て」
男が差し出した手帳を、私は言われるままに手に取った。意外にずっしりしているのに驚いた。皮で装丁してある、やや大きめの高価そうな手帳だった。
「開いていいよ。中を読んでも構わないから」
手帳全体が異様に膨らんでいる。モスグリーンの皮で包まれているせいか、手に持つと小型の爬虫類を連想させる。一ページ目からじっくり読むわけにもいかず、私は全体をぱらぱらとめくった。
分厚い手帳の前半のページには、たくさんの紙が貼られていた。その手帳の二分の一ほどのサイズの手帳を解体し、ばらばらになったページを、大きな手帳に糊できれいに貼り付けたもののようだ。機械的にめくっていくうちに、貼られているのは解体された手帳ではないのに気づいた。
よく見ると小型の手帳を左右見開きでコピーしたものらしい。縮小コピーされたものにも見える。それが上下二段、左右二ページにわたってピッタリ収められている。念を入れて丁寧に貼り付けられたものだという印象を受けた。後半には紙は貼られていない。文字が書かれているだけだ。
「わたしの宝物なの――」
男は、十八年前の十五歳の時に上京したという。生まれも育ちも、三重県の北部。高校に進学したが、ゴールデンウィークを利用して上京したのをきっかけに家出状態になり、以後東京で暮らしてきた。寝る場所や食べることには、全然困らなかった。
「わたしって、かわいかったでしょ。お金の心配をしたことはなかったなあ。ある時期まではね」
若くてかわいかった少年時代のその男は、驚くべき数の男性遍歴を経てきたという。つい数か月前まで、私はカウンセラーとして他人の話に耳を傾ける仕事に就いていた。聞くことには慣れているつもりだったが、少し苦痛を覚え始めた。癒やす側だったのが、癒やされる側に変わったせいかもしれない。
知らぬ間に私は男の話に感情移入していた。私に手帳を預けたまま、男は語り続けている。さまざまな男性との出会いや付き合い、そして別れ――。その間に挿入されるのが、東京で見かけた有名人の話だった。手帳には、そうした有名人たちの名前と、見た場所、日付、時間帯、その人物がどんな格好で何をしていたかが、メモされている。
タレント、歌手、俳優、政治家、スポーツ選手、キャスター、アナウンサー、コメンテーター、評論家、モデルといった人物を見かけた時の様子を男は、驚くべき簡潔さで描写する。当初覚えていた辟易した気持ちと苦痛は消え去り、いつの間にか私は話に聞き入っていた。話を聞きながら、ときおり思い出したように相手の心理を推し量ろうと努めた。以前は職業柄そんな日々を送っていたが、そうしたさいに働かせる勘をもう忘れかけている。私はただ無心に男の話に耳を傾けていた。
「ねえ、原宿駅に専用の駅があるって、知ってた? あ、そうだ、もうないんだ」と、皇室の人たちの話までが出てくる。途中から、男は急にしんみりとした声になり、今新幹線に乗っているわけを話し出した。この一年間に、親しい友人が二人、同じ病気から来る日和見感染が悪化して亡くなった。最近、体調がよくない。悪い兆候もあるが、まだ検査は受けていない。加えて、カードローンの返済がかなり切迫した問題になっている。
私たちは、名古屋駅で下車した。私には市内の専門学校を訪ねる用があった。男は私鉄に乗り換えて、三重県にある実家へと向かう予定だった。駅構内の連絡路での別れ際に、「あっ」と男が声を漏らした。
女性歌手とすれ違った。十代でアイドルとして一世を風靡したのち、結婚を機に芸能界を引退。十年ほどの空白を経て、最近歌手として再出発。そんな話を思い出した。
さっそく、手帳を取り出してメモし終わった男が、顔を上げた。真剣な表情をしている。
「あの人、わたしが最初に東京で見た有名人なの」
男は手帳の一ページ目を見せた。細かい稚拙な字がおどっている。
「わたし、やっぱり、東京に戻る。引越しセンターに電話しなくちゃ。今、荷物が移動中なんだ――」
立ちつくす私を残して、男は携帯電話を手に精算所の窓口のほうへと急いだ。男が振り返って手を振った。手をあげてそれに応えながら、東京駅のホームで呼び止められてから初めて、男が笑みを浮かべているのに気づいた。