いやだ、ズルしちゃ駄目よという感じでしょうか。

星野廉

2020/12/28 08:24


 ああ、そこそこ。そうなのね。なるほど、お上手お上手。ほう、そう来ましたか、不意を突かれてちょっと戸惑いましたよ。あ、これはいったいどういうことなのか。あら、いやだ。またまたそういう手をおつかいになる。それはズルだって言ったでしょ。それにしても……。


 かなり前のことです。井上究一郎訳『失われた時を求めて』と Folio 版の Du côté de chez Swann (「第一篇 スワン家のほうへ」)と辞書を照らし合わせながら読んだことがあります。もちろん、ところどころです。対訳でのお勉強というわけですが、気持ちが良かったので、勉強をしているという気はしませんでした。若かったし、体力があったからでしょう。それに当時はいろいろな夢がありました。夢があると、人は強いです。


 プルーストのあの長い長い作品には複数の邦訳がありますね。選り取り見取りですから、興味と体力のある方はお好きな訳でお読みになったり、途中でおやめになったり、ときどきぱらぱらめくったりなさっているにちがいありません。


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 今思い出しましたが、ジェイムズ・M・ケイン作の『郵便配達はいつもベルを二度鳴らす』(または『郵便配達はベルを二度鳴らす』)という邦訳が、田中西二郎訳、田中小実昌訳、中田耕治訳、小鷹信光訳の四種類も楽しめた(つまり本屋に並んでいた)時期がありました。こっちは原著なしで、日本語訳だけを四種類読み比べましたが、わくわくするような体験でした。若くなければできない冒険だと今になって思います。そう言えば、J・D・サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』(または『九つの物語』)もいくつかの訳本がありましたね。私は野崎孝による邦訳しか読んだことはありませんが。


『失われた時を求めて』の井上究一郎訳を私が好きなのは、律儀に訳してあるからです。つまり、センテンスが長くてとても読みにくいのです。ああいうのを難しいとは私は言いません。とにかく読みにくいのです。でも、あれよあれよという感じで気持ち良く読み進めることができました(難しいものはあれよあれよとは読めません、私の場合には)。「できました」と過去形なのが残念です。寂しいです。今は無理ですね。


 井上訳を原文に忠実な訳とは言いません。フランス語がろくにできないのに、偉そうな言い方をしてごめんなさい。あれは忠実と言うよりも、律儀な訳なのです。そもそも外国語の作品を原文に忠実に訳すなんてあり得るのでしょうか。はなはだ疑問です。


 直訳という言葉を思い出しました。そればかりか、意訳、逐語訳、逐次訳、大意、抄訳、完訳、改訳、重訳、超訳、名訳、迷訳、誤訳というぐあいに、次々とあたまに浮かびます。あと、翻案というものもありますね。翻案を広義の翻訳と見なすと、パスティーシュやオマージュや文体模写まで広義の翻訳だと言いたい気分になります。


 そんなことを気にしたり、本気になって調べたり考えていたことがありました。もう昔の話で、詳しいことは忘れました。翻訳家を志していた時期があったのです。身のほど知らずにも。結果的には、翻訳業を短期間やっただけで今は休業状態です。話が昔話やネガティブな方向に流れますね。ごめんなさい。


 気持ちのいい話にもどりましょう。


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 あれよあれよ、まだまだ、ねえ、まだ、まだなの? あれーっ、ひぇーっ。そろそろやめてー。もうやめてください。


 どんどん続きます。なかなかいかせてくれません(目的地にですよ)。はらはらどきどきわくわくの連続です。でも、中途半端な着地はしない、要するに墜落も不時着もしないので延々と続くアクロバットみたいで見ていて気持ちがいい。ときに苦しくなることもあるけど、それでもいい。井上訳の『失われた時を求めて』は読んでいてとにかく心地よいのです。律儀に訳してありますから、センテンスが長くてもいちおうの辻褄は合います。てにをはの処理を含め、それは見事なくらいきちんと合うのです。その意味では偉業だと言えるのではないでしょうか。繰り返しになりますが、読んでいてじつに快いのです。井上究一郎氏は頭脳明晰で体力も抜群だったのだろうと想像します。案外、超敏感かつ病弱であられたりして……。コルク張り部屋伝説のマルセルのように――。想像は楽しいです。


 まさに、あれよあれよの最上級です。こんなの初めて。あれよあれよ感MAXというやつ。


 たぶん、あれは翻訳だからこそ可能な技だという気がします。もともと日本語で書かれた作品だったら、ああいう文章はあり得ないと思うのです。語弊のある言い方になりますが、反則に近いと言えそうです。いやだ、ズルしちゃ駄目よという感じでしょうか。それだけにすごいです。すごすぎます。翻案でない限りどの翻訳にもある種の違和や不自然さを感じるという意味での、人工的な日本語の妙味――すべての言葉は人工的なので恥ずかしいほど当たり前のことを言っていますが、翻訳という言葉につられて出たレトリックということでお許し願います――と言いましょうか。とはいえ、決して否定も非難もしません。気持ち良さの点では、この上もないからです。ただ長時間の読書には向かない気がします。あの長い長い作品が長時間の読書に向かないというのではなく、あくまでも井上訳の話です。


 ところで、フランス語を母語とする人たちはあの長編小説をどう読んでいるのでしょう。ああいう長いセンテンスをどのように感じているでしょう。興味津々ですが、知りません。きっと人それぞれでしょうね。謎は謎のままにしておいて、勝手気ままに想像を楽しむことにします。


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 欧文には、論理性をそこなうことなくかなり長いセンテンスを組み立てる力があることは、英語の例からおわかりのことと思うが、さらにドイツ語の二、三の特性は、それにさらに輪をかけて長いセンテンスを組み立てることを可能にする。(中略)たとえば第七章三二一ページの<このように夕べの息吹が>から、三二三ページの<わたしの上に降りてくるそのとき>までは、純粋なワン・センテンスとはかならずしも言い切れないが、とにかく終止符はひとつもない。これはさすがの<現代>日本語もおつきあいできない。第一に、これに合わせてセンテンスを組んだら、どんな日本語ができるだろうか。第二に、日本語の句点(マル)はあきらかにフル・ストップではない。


「ブロッホと「誘惑者」」(古井由吉著『日常の”変身”』所収)より引用

 ドイツ語で書かれたヘルマン・ブロッホ作の『誘惑者』を訳した古井由吉の言葉は参考になります。邦訳の三二一ページから三二三ページまで続くセンテンスに終止符がひとつもないとは、どんな原文だったのでしょう。それを古井はどんな日本語の文にしたのでしょう。原著も訳書も手元にないので、想像を楽しんでいます。


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 ちなみに、「あら、いやだ。またまた、そういう手をおつかいになる。それはズルだって言ったでしょ」という、この記事の冒頭の箇所ですけど、訳文における(   )とか、――をもちいての挿入的な文のつづり方についてのコメントというか突っ込みです(この文章では意識的に丸括弧とダッシュを使っていますが読みにくいでしょう、ごめんなさい)。私は引用が苦手なので例文を引用できなくて残念なのですが(「失われた時を求めて 井上究一郎訳 例文」で検索すると、どなたかが引用なさっている例文にヒットします)、こういう道具をつかうと、どんどんセンテンスを長くできて――さすがに読んでいるほうは疲れますけど――途中でトイレに行きたくなるほどです。全体を通読するのは至難の業で、何年もかかって読み終えたという話さえ見聞きします(じつに贅沢な時の使い方ではないでしょうか)。井上訳は体力と気力と暇がないと読めない、そして長時間の読書向きではなく、むしろ長期間の読書向きだと言えそうです。



※「文供養」より。

 この文章は、「文供養/文手箱」というマガジンに収めます。




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