【掌編小説】コロニー
「行ってきまーす」
しょうちゃんは、いつも元気がいい。
「行ってらっしゃい」
わたしは、そのつど声を掛ける。
「行ってきました」
「お帰りなさい」
これが何度も繰り返される。別に、苦にはならない。元気がいいにも、いくつか種類がある。
エネルギーのかたまりみたいな人がいる。わたしが苦手なタイプだ。他人を押しのけるからだ。要するに強引なのである。一方で、なぜかよく分からないが疲れを知らなくて、いつもにこにこしている人がいる。エネルギーを発散するというのではない。むしろ、無気力と無縁だという印象を与える。しょうちゃんは、後者にあたる。しょうちゃんが淡々と仕事をこなすさまを見ていると勇気付けられる。
わたしは、しょうちゃんと組んで仕事をするのが好きだ。わたしは運転手役だ。車は新型のムーヴ。旧型に比べて車内が広いので、物を運ぶのに適している。わたしは、もともと狭い空間が苦手だった。でも、今はほぼ大丈夫だ。それよりも大きな問題をかかえているからだ。
しょうちゃんの役目は、車に積まれたお弁当と連絡メモを配ることだ。お弁当とメモは週に二回、午前中に運ぶ。区域が決まっていて、それほど広くはない。拠点病院を取り巻くようにして住んでいる人たちの住まいに届ける。午前九時半から十一時半の二時間の作業だ。
お弁当の届け先はだいたいがアパートで、通りから入った路地に面している。道路によっては、車が入れない込み入った場所もある。そんな所では、走って路地へと入っていくしょうちゃんを見送り、車の中で待つ代わりに外に出て気を休める。
「しょうちゃん、車、好き?」
「ぶっぶー、大好き。でも、運転できない。しょうちゃん、頭、悪いから」
「わたしは、車、嫌いだよ。狭いから、怖いんだ」
「ふーん。でも、運転できる」
「うん」
「すごい」
「そうかな」
「すごいよ、ぶっぶー」
「ありがとう」
何度か、こんな会話をしたことがある。しょうちゃんを見ていると、車が本当に好きなのがわかる。車の中から、車窓越しにほかの車の動きを目で追う。動くものが好きなのか。なのに運転ができないし、許されない。皮肉なものだと思う。
物を配達するという作業は路上駐車を余儀なくされるため、車を降りて放置しておくわけにはいかない。たいていは、しょうちゃんがお弁当とメモを届け、代わりに空のお弁当の容器と前回のメモを手にして戻ってくるのを運転席で待つ。
狭い空間で待つのが、わたしには今でも少しだけつらい。でも、しょうちゃんが元気で仕事をしていると思うと、そのつらさも薄れる。たまに、しょうちゃんと一緒に車まで足を運んでくる人もいる。わたしは男性が苦手なので、緊張する。
「いつも、すみませんね」
「いえ」
だいたいこんなやりとりで終わる。お弁当の届け先である相手のほとんどが、女性に興味がないという。だから、わたしはこの仕事を引き受けた。それでも、男性と向かい合うと心の奥で大きな抵抗を覚える。今のわたしの敵は、その抵抗感だ。
「これ作ったんですけど、よかったら、みなさんでお召し上がりください」
お弁当の届け先の男性で以前はパティシエだった人がいて、クッキーを差し入れてくれることがある。国からの給付金だけで家計のやりくりをしていて生活が苦しいのに、そうしたお金のかかる気遣いをしてもらうと恐縮する。でも、素直に受け取り感謝することにしている。
お弁当を配達する区域は、拠点病院を中心に広がっているため、病院を遠回りに一周する形で作業が行われる。わたしにこの仕事を任せてくれているのはNPOで、福祉関連のさまざまな業務を展開している。
わたしが知る限りでも利益は薄い。そもそも利益を追求する団体ではないから当然なのだが、時には理不尽に思うこともある。毎日長時間にわたり私生活を犠牲にして、この団体で働いている人たちがいる。そうした事実を意識し、心を動かされるようになったのは、つい最近のことだ。
それまでは、自分のことで手一杯で、他人のために自分が何かをする、あるいは何かができるという発想そのものがなかった。
「菊地さん、車の運転ができるよね。もし良ければ、週二回の午前中だけ、手を貸してくれないかな」
NPOの一員である心理カウンセラーから、そう言われたのは、三か月ほど前だった。わたしは、自分と同じような悩みをかかえている人たちと一緒に、一種のカウンセリングを受けている。
悩みというのは、男性に対する嫌悪感と恐怖感だ。原因はいろいろだが、わたしの参加しているグループの場合には、全員が男性による性的な虐待の犠牲者だ。そのグループを指導している人から、ボランティアの仕事についての意向を打診された。
わたしは無職の状態を一年以上続けている。そのわたしに、たとえボランティアと言っても、責任を伴う仕事が与えられるのだ。わたしは迷い、悩んだ。いったん引き受けたからには、簡単にやめるわけにはいかない。週二回の短時間の業務だが、自分にできるだろうか。
ボトルネックは二つあった。一つは、男性に混じり、男性に対して行う作業に耐えられるか。二つ目は、数年ぶりでする車の運転を事故を起こさずに行うことができるか。この二点が気に掛かった。わたしは今、気分は落ち着くが、副作用として眠気の出る薬を飲んでいる。
「一度、どんなふうにやっているのか、見学させてもらえますか」
そう申し出たのは、声を掛けられてから十日くらい経ってからだった。
わたしはもともと狭い場所に閉じ込められるのが好きではなかった。はっきり言うと怖かったのだ。狭い所というのは語弊があって、他人から見て広いと思われる空間でも「閉じ込められている」という気がすれば恐怖の対象になる。
たとえば、学校の体育館でも集会や式などで人がたくさんいると息が詰まり、呼吸が荒くなり、全身が汗ばみ、震え出したり、大声を上げてその場から逃れたくなる。そうした心理的な苦痛と身体的な症状の両方に耐えようと必死で我慢しているうちに、気が遠くなって倒れる。そうした経験を、物心がついたころから繰り返していた。
さらに言うと、空間という言葉にも語弊がある。物理的な空間とは限らないという意味だ。わたしにとっては、学校、職場、家族、友人関係といった集団や人間関係までが、自分が「閉じ込められている」とか「息が詰まる」感情の対象になる。これは今でも、完全に克服できたとは言えない。
ただ、こうした感情には波がある。「嫌だな」「うっとうしいなあ」くらいの気持ちで片づく場合もあれば、さきに述べたように心身ともに疲労して苦しみや痛みにまで高じる場合もある。このような心の動きは、言葉にするのが難しい。人に理解してもらうことは、もうほとんどあきらめかけている。
病院にある複数の科で、複数の診断名を与えられたが、わたしにとっては、そんな名前はどうでもいい。言葉で名付けてもらっても、事態は全然改善しない。中にはそうではない人もいる。
「わたし、双極性障害だって診断されたの。やっぱりねって感じ。インターネットなんかで検索していろいろ対策を練っているところ――」
同じような悩みを持つ人たちと交流する会に出席すると、そういう意見を述べる人が少なからずいる。診断名を与えられることで、以前よりも元気になっている。不思議だと思う。戦う目標が定まるから、勇気付けられるのかもしれない。わたしとは違う。敵は診断名ではない。
わたしが現在悩んでいるのは、そうした狭い所が苦手という問題ではない。それより大きな問題は、男性に対する嫌悪感と恐怖心だ。ある男から性的な虐待を受けた。それが心の傷になっている。そう医師は言う。分かっている、そんなことは。分かっていることを他人に確認されると、それがマイナスの駄目押しになる場合もある。
「どうでしたか、できそうですか」
仕事の見学をした後に、カウンセラーから尋ねられた。
「はい。やってみます。でも、続くかどうかは、はっきり言って自分でも分かりません」
「それでいいんですよ。無理をしてはいけません。続けられそうもないと感じたら、その時点で、すぐにわたしに言ってください。そして、話を聞かせてください。迷惑を掛けるとか、そう言ったご心配は一切無用です。決して我慢はしないように」
初めてしょうちゃんと会った時の衝撃を忘れることができない。一見すると、ただのおじさん。ひげが濃く、頭の毛は薄く、半袖から出ている腕が毛むくじゃら。ところが、口を開くと子どもみたいな喋り方をし、行動も外見とは全く異なり幼稚な印象を受ける。
前もって話を聞かされていたものの、実際に会って話をしたり、その作業を見ていて、外見と人格の落差に大きな戸惑いを覚えた。わたしは、考え込んでしまった。悪い意味で悩んでしまったわけではない。こういう人がいるという事実に感動したのだ。
子どもみたいなおじさん。子どもを装っているのではない。そういう人格というか個性が存在するのだ。違和感はある。わたしの場合には、この人にも男性としての性欲があるのだろうか、などと考えてしまう。
そうした思いは消すことができない。でも、しょうちゃんを見ていて、その違和感を超える親しみを直感した。
「やまがみさん、部屋から出てこない」
わたしがお弁当配達の仕事を始めて間もない時期に、しょうちゃんがお弁当を持ったまま車に戻って来たことがあった。
山上さんの携帯電話に掛けてみると、熱があって起き上がれないという。ちなみに、お弁当を配達しているNPOでは、携帯電話の貸し出しも行っている。わたしは、その場でただちに事務所に電話した。その甲斐があって、インフルエンザにかかった山上さんが一命をとりとめた。そんなこともあった。
わたしたちがお弁当を届けている人たちは、個人差はあるが、健常者に比較して免疫機能が著しく低下しているために、感染症が命取りになる場合がある。お弁当配達には、その人たちの様子を見守るという大切な目的が含まれている。
お弁当と共に届けられる連絡メモには、健康状態をチェックする項目があり、その横が空欄で、そこにいろいろなことを自由に書き込めるようになっている。前回届けたお弁当の入っていたプラスチックの空の容器とその日の朝までの状態を記したメモを持って、しょうちゃんが車に戻ってくる。わたしは必ず目を通すように指示されているチェック項目と、空欄に書かれた文字にちらりと目をやって、次の届け先に向かう。
空欄には絵や漫画を描く人もいる。中には、どきりとするような卑猥な絵もある。誰に向けて、どういうつもりで描いているのだろう。そういうものを目にすると、わたしの気は滅入る。相手に男性とか、性的なものを感じてしまう。一方、いつも何も書かない人がいる。そういう人に興味と好意を抱く。
お弁当の届け先は、現在十五カ所。お弁当の数は二十八箱。同じアパートに別々に部屋を借りて住んでいる人たちがいる。二人で住んでいる人たちや三人で共同生活をしている人たちもいる。
現在も、車の運転は依然として苦手だ。びくびく運転という感じ。事務所のほかの人に比べれば、しょうちゃんと口を利くことも少ない。時折、車までしょうちゃんを送ってくる男性たちと親しい会話ができない。でも、わたしのことについては、事務所から聞いているらしく、不愉快な思いをした経験はない。
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃい」
「行ってきました」
「お帰りなさい」
お弁当の届け先に着くたびに、こんな会話が繰り返される。仕事のパートナーのしょうちゃんとは、それくらいの言葉のやり取りしかできないけれど、わたしは週二回の仕事の時間が来るのを楽しみにしている。
*
お弁当の配達先の人たちと、公民館で一緒になった。拠点病院を囲むようにして住んでいる人たちだ。わたしの関係しているNPOでは、公民館や福祉センターの小会議室などを借りて、同じような悩みや問題をかかえている人たちを集め、交流や一種の集団カウンセリングをしている。
わたしは、男性から性的虐待を受けたことが心の傷になり、その傷がまだ癒えていない人たちのミーティングに参加している。グループでするセラピーというような大げさなものではない。雑談をしたり、何かテーマを決めて話し合ったりする。それだけだが、同じような体験をした人たちとひと時を過ごすことで、ずいぶん気持ちが休まり勇気付けられる。会は月に一、二回行われる。
わたしがお弁当の宅配をしている相手の人たちと、たまたま集会が同じ日になった。公民館のロビーで携帯電話を使っていると、目の前を通り過ぎていく二人連れの男性たちが手を振った。男性の知り合いが極端に少ないわたしは、一瞬その人たちが誰なのか分からず、気が動転してしまった。
「どうしたの? 急に息が荒くなったけど、そっちで何かあったの?」
電話越しに篠沢理恵が尋ねた。理恵は、わたしのルームメイトだ。わたしについてのいろいろな事情を知っていて、ある程度理解してもくれている唯一の人と言っていい。
「お、男の人たちにいきなり挨拶されたから、びっくりしただけ」
「誰、男の人って?」
心配そうな口調で聞いてくる。わたしが説明すると、ようやく理恵は安心した。
「――でね、わたし、今夜は帰らないから、戸締りとかよろしく」
通話の最後に理恵はそう言った。その言葉には、文字通りの意味以外のメッセージも含まれている。わたしが今夜遅くなっても駅まで迎えに行けない、という意味だ。
わたしたち二人の間には、どちらかが夜の九時以降に帰宅する場合には最寄りの駅に迎えに行く、という暗黙の了解がある。集会のある日は、わたしはたいてい九時半ころに駅に着く電車を利用している。
その日の集会は途中で抜けることにした。ミーティングは六時半に開始で八時半に終わる。八時を少し過ぎたころに退席すれば、いつも使っている駅に九時前に着く電車に間に合いそうだ。
そんなことを考えながら、ミーティングの行われる部屋に向かっていると、わたしの参加する会の司会役を務めている心理カウンセラーの尾崎さんに声を掛けられた。尾崎さんは男性だ。
「さっき、田中君たちに会ったんだって?」
「ええ、いきなり挨拶されてんで、びっくりしました」
「田中君たちも、びっくりしてたよ。お化けにでも出くわしたような顔をされたって。まあ、あの人たちには、あなたの事情については説明済みだから、問題はないんだけどね」
「田中さんたちには、尾崎さんのほうから謝っておいてくださいませんか」
「分かりました。それと関係のあることなんだけど、きょう田中君たちのミーティングを傍聴というか見学してみませんか?」
突然の提案に、わたしは言葉が詰まった。
「自分とは違った問題をかかえている人たちのミーティングに顔を出して、ただひたすら聞いてみる。そういう経験が、自分の問題を相対化するのに役立つ場合もあります。さっき、田中君たちから、あなたに会ったという話を聞いたんで、どうかなあと思ったのですが――」
わたしは迷った。興味が湧いた。
「まるっきり知らない人たちでもないし、あなたにとっての問題と全然関係ないわけでもないから――」尾崎さんは続けて言い、手にしていたカバンの中を覗きこんで何やら探すような仕草をした。
わたしに考える時間を与えているようにも取れる。わたしは、無意識のうちに、次に尾崎さんの口にする言葉を予測していた。『悩ませちゃったかな。ごめんね。今の話は無かったことにしましょう』と、言うような気がした。それに対して、『すみません。せっかくお心遣いをしていただいたのに』と、わたしが謝る。
「じゃあ、少しだけ覗かせてもらっていいですか」
尾崎さんとのやり取りを勝手に頭の中で作り上げておきながら、わたしは全く別の選択をしていた。
*
「きょうは、オブザーバーとして菊地さんをお招きしています。菊地さんをご存じない方もいらっしゃると思いますので、ご紹介いたします。希望者の方々のお宅に弁当を届けてくださっているボランティアの方です」
わたしは何も言わず、頭を下げた。
その日のミーティングでは、特にテーマを設けず、メンバー各人の近況報告と雑談を兼ねたお喋りが行われた。最初から席に着いていた参加者は十五名だったが、遅れて来る人たちがいて徐々に増えていった。
薬の飲み忘れの防止法。就職活動の難しさ。食品や衣料の安い店についての情報交換。医師や看護師の悪口。共通の知り合いにまつわる噂話。体力を維持するための工夫。話は、さまざまな方向へと飛んだ。
わたしが参加しているグループでも、同じような雑談形式のミーティングが行われることがある。主催しているのは、同じNPOだ。わたしたちの集会では、参加者各自が飲み物やお菓子を持参する。
ここでは、二リットルのペットボトルに入ったウーロン茶とスポーツドリンクと緑茶がテーブルに置かれ、飲みたい人が飲みたい時に、席を立って自分で紙コップに注いで席に戻っていく。また、ペットボトルの横には、さまざまな種類のパンが積み上げてあった。一個一個が透明のプラスチックの袋に包装され、参加者の数を優に上回るほどある。差し入れだろう。
参加者たちは、発言者の邪魔にならないように節度を守りながら、自由気ままに会議室内を移動している。もちろんお酒は出ていないが、パーティーか宴会という趣がある。わたしは本来参加するはずだったミーティング用に持参していた、ミルクティーの缶を開けて喉を潤していた。
閉じた空間である部屋。そして、その部屋にいるのは男性ばかり。わたしにとっては、パニックを引き起こしやすい条件がそろっていたが、心配していた圧迫感や恐怖心は覚えなかった。それよりも、参加者たちの話の内容に興味を引かれた。
「地球温暖化に関するシンポジウムに、おれたちも参加してみようって話があるんだけど――」
「今の話、分からないことはないよ。でも、ぼくなんか子どもがいないから、地球温暖化なんて言われても、正直言ってこれから先のことなんて、かんけーねーって感じなんだよな――」
「ねえ、今月から始まったテレビの『かぼちゃ畑の男子たち』に出ているコウタロウ役って、なかなか、いけるよね――」
「いけるいける。わたし、カンさまのファンからリョウさまに乗り換えるつもり――」
「先週、病院の待合室で、『みんな、普通だったら女の人に持てそうな人ばっかりなのにね』って、女の看護師が言ってたけど、あれってセクハラ発言じゃないの? 『普通だったら』って、言い方は失礼じゃない? おれ、マジで傷ついた――」
「待合室って言えば、一昨日、また初対面の患者同士で、大喧嘩があったんだ。おまえがうつしたの、いや、おまえこそがおれにうつしたんだのってやつ。予約のシステム、変えたほうがいいんじゃないの――」
「わたしたちのコロニーと、西部地区にあるコロニーとで遠足をしようという計画を立てているんだけど――」
「そのコロニーって言葉、やめてくれないかな? 医学用語としてネガティブな意味があるし、教祖が収監されている拘置所の周りに住んでいる信者たちの集団を、テレビに出てくる評論家がその言葉で呼んでいたぞ――」
ミーティングが始まって一時間ほど経ったところで、「みなさん、お邪魔しました。わたしは、この辺で失礼します」とだけ言って、会議室を出た。疲れを覚え、いつも参加しているグループの集会に出るのはやめた。
ロビーを出た時刻は、七時四十分だった。いつもなら、ミーティングへの参加者と一緒に向かう駅への道を、一人で歩いた。男の人とすれ違ったり、背後に人が近付いてくる気配を感じると強い緊張と不安感に襲われる。そういう自分をどう扱ったらいいのかは、まだ分からない。
でも、きょうはいい体験をした。女性には性的な興味を持たないとはいえ、二十人ほどの男性たちと一時間も同じ部屋にいることができた。自分が考えたこともないさまざまな意見を、肉声で聞くことができた。
歩きながら、自分の精神状態について考えた。
今は、大丈夫な自分と大丈夫ではない自分の二人がいて、大丈夫な自分が大丈夫ではない自分を持て余している感じがする。以前は、大丈夫ではない自分しかいなかった。
わたしには、自分を性的に虐待した例の男を責める気持ちはない。わたしは、結局、あの男を告訴しなかった。自分にも落ち度があったと考えたうえでの判断だった。恥をさらしたくないからとか、裁判という公の場で、あの日に起きたことを再現するのが嫌だったからではない。
結果として、わたしは頭と体とがばらばらになってしまった。頭では大丈夫なつもりなのに、体が大丈夫ではない。まさか、そんな事態になるとは想像していなかった。一時は、女としての体だけが自分になってしまい、大丈夫だと言い続ける一個の人間としての自分の居場所が、わたしの中になくなってしまっていた。
薬、カウンセリング、グループでの話し合い――。いろいろなものやことを試したからなのか、時間が経過したからなのか、徐々に大丈夫なわたしが大きくなってきて、今では大丈夫ではないわたしくらいの大きさになってきたような気がする。でも、大丈夫なわたしは、大丈夫でないわたしをどうしていいのかが、まだ分からない。
週に二回とはいえ、今、しょうちゃんと一緒にお弁当の配達をしているだけでも、自分にとっては大きな進歩だと思う。薬の量を減らすのにも成功してきている。あとは、気持ちの整理をする必要があると感じている。
*
「わたし、男と女を分けることに、こだわりすぎていたのではないかって気がするんです」
「ほう」
「ある男性と付き合っているとしますね。その時に、自分は女の代表みたいな気になって、一生懸命に女を演じている。そして、相手の男性には男の代表として男を演じさせようとする。そうじゃなきゃ、恋愛じゃない、セックスじゃないみたいな」
「なるほど」
カウンセラーは身を乗り出して、わたしの言葉に耳を傾けている。
「わたしはわたしなのに、セックスがからむと、わたしじゃなくて、一人の女だという意識が前面に出て来るんです。で、セックスの間は、自分ではなくて女の代表選手という感じで振る舞ってしまう。そんなことを繰り返してきたように思えるんです」
「ほう」
「わたしのルームメイトが、近いうちに彼氏と一緒に住むことになって、今迷っているところなんです。一人暮らしをするか、それとも実家に戻るか」
「実家ですか」
「事情があって、実家には帰りたくないんです。以前みたいに、こっちでちゃんとお仕事をしながら、生活してみたいんです。近々、就職活動を始めるつもりです」
「そのつもりなのですね」
「車の運転もだいぶ慣れました。それに、最初は女性が多い職場を意識して考えていたんですけど、特にこだわる必要もないかなって気持ちになってきました」
「ほう」
「はい。男とか女なんて関係ないです」
「ほう」
「今のところは、そんなふうに自分に言い聞かせているだけなんですけど」
「言い聞かせているんですね」
「わたし、わたしになりたいんです。すみません、急に話が飛んで――。わたしの言っていること、変ですか?」
「いいえ、変ではないと思いますが、もっと説明していただけませんか」
「出会いを大切にしたいんです」
「出会いですか」
「偶然で成り行き任せの出会いじゃなくて、積極的で意識的な出会いという意味です――。これまでのわたしは、男の人の前でわたし自身ではなくて、女として魅力のある女であろうと努めてきました。だから、思ってもいないことを口にしたり、セックスの面で、ある行為をしたくもないのにしなければならないと思い込むとか、そんなことばかりを繰り返していました。それって、出会いじゃないと思うんです。すれ違いです」
「ほう」
「最近、コロニーって言葉を聞いたんです」
「コロニーですか」
「国語辞典と英和辞典を引いてみました。いろんな意味があるんです。いい意味も、悪い意味も――。でも、わたしはこの言葉が気に入っています。ある中心点があって、その周りに人が集まっている。そんなふうに、勝手にイメージしています」
「ほう」
「太陽系と似たイメージなんです。水金地火木とか何とか言いますけど、惑星って、それぞれ個性を持っているじゃありませんか、青い星、茶色い星、白い雲に包まれた星――」
「個性ですか」
「そうです。わたし、これからは個性を大切にして生きていこうと思っています。だから、同じように個性を大切にしている人と出会いたいんです。何だか、支離滅裂なことを言っていますよね」
「いいえ、全然。もっと聞かせてください」
そこで笑ってしまった。
「どうなさいました?」
「すみません。あることを思い出したんです。先生、笑わないで聞いてくださいね」
「ええ、そう努力します」
カウンセラーが笑みを浮かべた。
「子どもみたいなおじさんっているんです」
「以前にも、そんなこと、おっしゃっていましたね」
「そうでしたか? 先生にも、お話ししましたっけ?」
「ええ」
「女の人みたいな男の人もいます。でも、何とかみたいな誰々という言い方は変だと思うんです。男、女っていう区別も、意識的にしないように努めています」
「ほう」
「わたしはわたし。誰々は誰々。それでいいと思うんです」
*
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃい」
運転席でしょうちゃんを待ちながら、きょう集まった連絡メモを丹念に読んでいく。
「行ってきました」
「お帰りなさい。木下さんは元気そうだった?」
「エッチビデオ見てたよ」
「本当?」
「ほら、こういう感じ」
「まただ。木下さんて、こんな絵ばっかり描くんだから。連絡用の大事なメモなのに――」
「ぶっぶー」
「そうね、出発しましょう。きょうは、ちょっと遅れ気味だから急がなきゃ」
しょうちゃんが助手席側のドアを閉める。車という狭い空間の中で二人きりになる。エンジンを掛ける。やっぱり緊張する。でも、気持ちを変えることができるのは自分しかいない。
ダッシュボードの時計に目をやる。きょうの午後には、タクシー会社の面接がある。