【掌編小説】バット・スキン・ディープ
【注意:この作品には残虐な描写があります。】
――Beauty is but skin deep.(美は皮膜にあるのみ)
目白通りから鬼子母神の参道へと曲がったところで、子どもたちの声がした。声の高さや、ところどころ聞こえてくる回らない口での喋り方からすると、保育園か幼稚園くらいの子どもたちらしい。そのまま進めば、その子どもたちと正面から向かい合うことになる。
馬鹿……。橋田玲子はとっさに道を引き返し、目白駅の方向へと早足で進んだ。右に折れ、暗く細い路地に入る。そのまま行けば、参道の途中へと出られる。たまに玲子は、この抜け道を利用することがあった。
午後三時を過ぎたばかりの時間帯なら問題はない。七時以降は、この道は絶対に使わない。昼間でも気味が悪い。玲子はうつむいた姿勢を正し、耳を澄まして、あたりに警戒の視線を向けた。最近、この近辺でひったくりや変質者が増えた。よく利用する果物店の主人が言っていた。
大ぶりの眼鏡フレームの眉間にかかる部分を、右手の人差し指で押さえる。左腕全体でショルダーバッグを押さえ体に引き寄せる。路地を通り抜ける風が、甘たるい沈丁花の匂いを運んでくる。
玲子は参道へと出た。子どもたちの声は、もう聞こえなかった。
アパートに戻るとすぐに、パソコンを起動させた。二時間前に訪ねた出版社からメールが届いていた。ワープロ文書が添付されている。こんなふうに済むのなら、別に呼び出さなくてもいいのに。原書も宅配便で送れば事足りるのに――。そんな愚痴が頭に浮かぶ。
玲子は、ワープロ文書をモニターでスクロールし始めた。自分が訳した文章の最終チェックから片付けるか、出版社で渡されたばかりの原書の要約作りを先にするかで迷った。最終チェックは、一時間以内で終わりそうだった。その訳稿のある個所について、編集者がクレームをつけてきた。
「ここにも説明をつけてよ。訳注じゃなくて、訳文に織り込む形でさあ。先生が、そうしろって言ってんの。先生のやり方ぐらい、もう覚えてくれなきゃ――。ねえ、聞いてる? 返事くらいしたらあ」
先生というのは売れっ子の翻訳家で、玲子はその人の名前で上梓されるビジネス書の下訳をしている。指摘された部分は、玲子にとってはどうでもいい、ささいな問題に思えた。読者は、それほど馬鹿じゃありません――。言い返したい言葉を飲み込んだ。編集者の居丈高な態度を思い出し、鼓動が激しくなるのを感じる。玲子は、原書から手をつけることにした。
出版社の名と住所が印刷された封筒から原書を取り出し、封筒にヘンケルス社製のはさみを入れる。庖丁もナイフも料理バサミも爪切りも、ヘンケルスのものを愛用している。そのはさみで、玲子は細かく封筒を刻んでいく。
馬鹿、馬鹿……。何度もつぶやく。文字が印刷された部分を切り刻むさいには、いったん神経がとがり、それが引いていくのを感じる。馬鹿、馬鹿、馬鹿……。乾いた音と指先に伝わる細かな震えが快い。高ぶった神経が収まっていく。
原書の三分の一ほどを読み終えたところで、夕食の準備に取り掛かることにした。バッグから携帯電話を取り出すと、留守電機能が設定されたままになっていた。実家からのメッセージが二つ入っている。普段から玲子は、携帯電話を留守電状態にして外出する。
人前で通話をしたり、メールを入力するのには抵抗がある。人目に立ちたくない。できれば、外では透明人間でいたい。そう思っている。他人の視線にさらされるのが、身を切られるようで怖かった。
「坂下奈美さんって知っているわね。あの人から、ケータイの番号を教えてくれって、午前から三十分置きくらいに電話があって――」
実家に電話をすると、母親が言った。誰にも携帯電話の番号を教えてはいけない。これは母親にきつく言ってある。自分が母親から恐れられていることを、玲子は知っている。自分に対して卑屈と言っていいほど母親が下手に出るのを、玲子は当然のこととして受け入れている。
翌日、坂下奈美が、玲子のアパートにハンドバッグとスーツケースだけを持ってあらわれた。アパートの住所は、別の知り合いを通じて調べてあったようだ。携帯電話の番号について玲子の母親に何度も問い合わせの通話をしていた時には、既に東京にいたらしいことが話の断片からうかがわれた。
玲子と奈美は愛知県出身で、中学高校と同じ学校に通っていた。高校卒業後、玲子は上京して大学に進み、奈美は地元の企業に就職した。卒業式の日に最後に顔を合わせて以来、九年が経っている。奈美は消費者金融だけでなく闇金融を利用して多額の負債を抱え込み、借金の取立てを逃れて玲子を頼ってきたのだった。玲子は、約半日かけて奈美の語る話に耳を傾けた。
母一人子一人の家庭で育った奈美の母親は、三年前に病死したとのことだった。母親が残した保険金と預金を使っているうちに、過剰なまでの浪費癖がついたらしい。玲子には、奈美についての悪い思い出はなかった。良くしてもらった記憶のほうが多かった。玲子は、いつも心の奥にしまいこんでいる故郷での出来事を振り返った。
中学二年生の時に、玲子の実家で火事が起きた。母親の不注意が原因だった。逃げ遅れた玲子は、顔面から右乳房にかけて火傷を負った。それはかなり目立つ跡となって残った。皮膚の移植手術の話を父親が持ってきたが、玲子は拒んだ。
傷跡をカバーする化粧法を覚えた。傷跡は首から下が最も目立つが、顔の皮膚に負った傷は、そのメイクで何とか隠せる。現在は、髪を肩にかかるくらいまで伸ばし、やや大ぶりの眼鏡をかけている。外出の際には、うつむいて歩く癖が身についている。
火事に遭って以降、学校を休みがちになり、引きこもり状態でいたころの生活が思い出された。自室で本を読んで過ごし、その時の「今」を忘れようと懸命に努めた。死にたいとは思わなかった。不慮の災難のために死を選ぶのは理不尽だという思いがあった。好きな本を読みながらひっそりと生きたい。そうした願いのほうが強かった。
坂下奈美については、家がひどく貧しく、表情の乏しい少女だったという記憶がある。特に親しかったわけではない。奈美の家庭にまつわるいろいろな噂を耳にしたが、玲子には興味がなかった。クラスや学校の中で孤立していた点で、二人は似ていた。中学三年生の時に行われた修学旅行に参加しなかったのも、二人だった。
「――ねえ、覚えていない? 一緒にバレーボールして遊んだよね」奈美が言う。
それほど親しい間柄ではなかったのに、いやになれなれしい――。玲子は思う。これから世話になろうとする魂胆が見え見えだ。
「バレーボール?」
「修学旅行で三年生はいないし、一、二年生は遠足っだった日が一日あったじゃん。誰もいない校庭で、二人バレーやったり、鬼ごっこみたいな感じで駆けっこしたり、楽しかったなあ。あの日は、先生も三人くらいしかいなかったんじゃない? 人生で一番楽しかった日だった気がする」
そういえば、そんなことがあった。玲子は思い出した。昔のことなど忘れてしまいたい。あのころなんかに、絶対に戻りたくない――。
*
玲子と奈美との共同生活はうまくいかなかった。性格が全然合わない。玲子は奈美に生活費だけを渡すが、すぐに使ってしまい、頻繁に催促をする。奈美は、借金の取立て業者から追われているために派手な動きはできなかったが、そのうち水商売の世界に入った。学校時代はおとなしかった奈美が、奔放で軽はずみともいえる性格の人間になっていることに、玲子は驚いた。酒癖も悪い。
玲子の生活のリズムは狂った。奈美に合わせて夜間に翻訳の仕事をし、昼間に眠るようになった。筆が荒くなった。誤訳が増えた――。仕事をもらっている複数の編集者から、そう言われた。
奈美に振り回される日常がストレスとなり、奈美がそばにいることで、過去の記憶が次々とよみがえる。いつもクラスで取り残されるのは、自分と奈美だった。遠足や野外での学習のとき、仲間同士が集まる中で、相手のいない二人が仕方なく行動を共にしていた。
「またかい? どこか具合が悪いんじゃないの? ここんとこ、顔色も良くないし――」
次第に翻訳の納期が守れなくなった。体調が良くないのでしばらく仕事を休ませてほしいと、玲子は自ら翻訳会社に伝えた。食品包装用のラップが脳に張り付いたような、もどかしい気分を覚えるようになった。本も読む気になれない。読もうとしても内容が頭に入らない――。玲子の苛立ちは募った。
不眠が続き、ちょっとしたことで腹を立てるようになった。玲子は自分の怒りを奈美に知られたくなかった。努めて平静を装った。奈美の眠っている姿を眺めるたびに、玲子は奈美が犬に似ていると感じた。無心な洋犬のように見える。犬は猫と違って、こちらがいちいち気を使ってやらなければならない。うっとうしい。
そうだ、犬にそっくり――。玲子は思い出す。中学二年生の時に起きた、実家での火事。
火事が起きて数か月後のことだった。父親が玲子に犬を与えた。
「悪いな。子犬じゃなくて」
「別に……。犬は犬よ」
父親の会社の同僚が飼っていた犬だった。その同僚が海外勤務となり、一家で引っ越すことになったために、父親が犬を引き取ると申し出たらしい。レトリバーの血が混じった、性格の穏やかな成犬で、深夜に散歩に連れていくことが、玲子にとって自室外での唯一の楽しみと癒やしになった。
ある夜、公園で、自分の顔をぺろぺろ舐めはじめた犬の相手をしていたとき、ぽろぽろと涙がこぼれてきたことがあった。犬には傷跡が分からない。犬の目には、美しさや醜さが分からない。ただ、新しい飼い主だというだけで、自分の傷跡を舐めてくれている。そうした理屈は承知しているつもりだったが、自分が同情されているという、道理に合わない思いは去らなかった。
暑い夜だった。顔に厚めのメイクを施すようになってから、とりわけ暑さが身にこたえる。玲子は犬と共に国道に向かった。輸送トラックの往来が激しい道路だった。歩道橋の上まで来た玲子は、犬を抱きかかえた。喜んだ犬は再び玲子の顔を舐める。玲子は犬を道路に落とした。けたたましい鳴き声がした。トラックが急ブレーキをかける音も聞こえた。
いったん走りかけた玲子は歩を緩めた。暑さで体中が火照る。首から胸に流れる汗が不快だった。ただただ汗で濡れた下着を替えたい。玲子は近道を思い出し、そのまま家に帰った――。
久しぶりに見る夢だった。仕事中に寝入っていたらしい。奈美が部屋に戻って来た。奈美は、美人とは言えないまでも、化粧栄えのする顔立ちで、特に肌のきめが細かい。ふざけて奈美の頬に指で触った。
「嫌だ、何よ急に」
「おいしそう」
「ばっかみたい。あんたさあ、何だか目つきが変だけど、熱でもあるんじゃない?」
和菓子のようにふわりとした感触の肌だった。ふいに、かつて飼っていた犬の腹の柔らかさを思い出した。さっきまで見ていた夢が、頭から離れない。
眠い――。
それなのに神経だけが目を覚ましている。
なぜだろう。
旁らで奈美が寝入っている。玲子は奈美の布団に近づいた。カーテンを閉めたほの暗い部屋の光の中で、化粧を落とした奈美の肌の美しさに見とれた。再び、柔らかい頬に触れてみたい衝動を覚えた。室内の気温が徐々に上がっていくのが感じられる。
暑い、暑い。眠い、眠い――。
首から胸にかけて流れる汗がいまいましい。
馬鹿、馬鹿……。玲子は風呂場で、奈美の死体を解体していた。それにしても、暑い。気だるく、自分の体が妙に重い。動作が次第に鈍くなるのを感じる。
肉と血の臭いが、吐き気をさそう。それでいて無性に眠い。玲子は手を休め、奈美の肌の美しさに見とれた。つるつるした犬の腹の感触を思い出す。
風呂場には、ペンチや金槌をはじめ、ありたけの刃物が置かれている。その中から果物ナイフを選び、玲子は奈美の頬の皮を剥いでいく。濡れた指と手のひらの間でナイフの柄が滑る。馬鹿、馬鹿、馬鹿……。
暑い。眠い。気だるい。ただただ汗に濡れた下着を替えたい――。さきほどの夢の続きとしか思えなかった。