マスクをしたままの五月になってしまいました
星野廉
2021/05/01 08:08
目次
沈黙の春
マスクをしていた、あの夏
ふつうの冬が恋しい
マスクをしたままの五月になってしまいました
沈黙の春
春。テレビで見た数々の映像を見て、はっとしました。何かに似ているのです。しかもからだが震え始めました。記憶をたどっているうちに気づきました。小学生時代に学校の授業で教師がした中性子爆弾の話を聞いていて、あたまに浮かんだ風景にそっくりなのです。教室内のしーんとした異様な雰囲気も思い出しました。
大都市の何気ない風景。ロンドン、パリ、ニューヨーク、ヴェネツィア、東京、モスクワ、北京……。大通りにも路地裏にも広場にも、人だけがいないのです。車も電車も見えません。鳥や猫の姿もありません。音がまったく感じられない大きな都市のけしき。ひとけがないことだけがきわだつごく日常的な都市の姿と言えばいいのでしょうか。その後悪夢として何度も思い浮かべた映像というか心像です。
後に大学生になって当時ベストセラーだったレイチェル・カーソンの『沈黙の春』を読んださいに、あの不気味な都市の姿がよみがえりました。本に出てくるのは都市ではなく森と湖の風景なのですが、鳥のさえずりはもちろん、川や湖の水面で魚が跳ねる音も、虫や小動物が若芽を食むかすかな音さえも聞こえない、圧倒的な静寂の支配する春。生き物の気配のしない春。
*
春よ、来い。早く、来い。
今の状況では、忌まわしい疫病の終息した春が来年に来るのは無理かもしれません。せめてワクチンが開発されて人びとに行き渡る春でいてほしいと願っています。祈っています。
日本に住んでいる人たちにとって春は特にさまざまな出発を意味しますね。それがああなってしまったのです。いわば失われた春ではないでしょうか。
失われたあの春をリセットしたい。やり直したい。もう一度、あの春を新たな春として迎えたい。そして、あのときにできたはずのことを実現する機会を誰もが得てほしい。春を迎えることなく亡くなった人たちのためにも――。そう思っています。(2020/07/04の記事より引用)
〇
マスクをしていた、あの夏
夏ですね。この国では、春、梅雨、そして夏というふうに季節が推移します。私の住んでいる地方でも梅雨が明けて、ようやく夏が訪れた感じがします。
どうやら今年の夏は「沈黙の夏」にはなっていないもようです。唯一沈黙の夏を感じるのは、五輪の競技施設です。
特に新国立競技場は無観客なのに観客がいっぱいいるようなデザイン。二十四時間、つまり施設が閉門している夜間にも、ああなんですよね。夜中のショーウィンドーに並ぶマネキンのように物悲しい。不在の存在感と存在の不在感が同時に物として立ち現れているようで、とても落ち着かない気分になります。
他の施設ですが、テレビの映像で見ると、雑草がぼうぼうとはえていたり、プールには藻が発生していました。管理できないのでしょうか。これも別の意味で、いたたまれない気分になります。もったいないし悲しいです。
いったい、これはどういうことなのか。理由はあたまでは分かりますが、からだが分かってくれないのです。
沈黙の夏というより、狂った夏を感じます。というか、今年は春以来、季節感に狂いが生じたように思えてなりません。狂った季節、いや狂った季節感なのでしょうけど。
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でも、夏ですね。そう、夏なんです。
さまざまな規制が緩和されてきて、この国の、そして海外の大都市の風景は、以前ほどではないにせよ、活気とにぎわいを見せています。
目立つのはマスクです。いろいろなかたちやデザインのマスクが見られ、興味を惹かれたり感心します。これまで日常的にマスクをする習慣がなかった国や地域の人たちも、暑そうな表情で――といっても表情にとって重要な鼻や口は隠れていますが――マスクを着けています。高温では本当に息苦しいですね。私なんかあまりにも苦しくて気が遠くなることさえあります。そういえば、ある国では、マスクをしない自由を叫んでいる人たちがいるという報道を見聞きしていますが……。うーむ。この話題は、考えるとストレスが高じて体調が悪くなりそうなので控えますね。
「昔の話なんだけどね。みんながマスクをしていた夏があったんだよ。そりゃあ、もう暑くて暑くて」
「どゆこと?」
「あの年は春ころから疫病が流行っていてね……」
こうした会話が、未来のおとなと子どものあいだで交わされる。そんな空想が最近しきりにあたまを占めます。
マスクをしていた、あの夏――。さようなら。
早く未来よ、来い。早く、未来になあれ。なんて言いそうになりましたが、この種の現実逃避はいけませんね。過去として清算するわけにはいかないのです。まだまだマスクをする日々を生きなければならないもようです。ちゃんと現実と向き合い、自分に今できることをしようと思いなおしました。
それにしても、こんな夏は一回きりにしてほしい。切にそう願っています。(2020/08/01の記事より引用)
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ふつうの冬が恋しい
一年でいちばん寒い時期ですね。この冬の寒さはとくに身に染みます。
今朝もひとけのない道を散歩してきました。ふつうの冬が恋しいです。ふつうの春が来てほしいです。(2021/01/19の記事より引用)
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マスクをしたままの五月になってしまいました
春、夏、秋、冬、春――
去年ほど不気味な静けさではなかったものの、「沈黙の春」が再び巡ってきて過ぎていきました。
春よ、さようなら。
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マスクをしたままの五月になってしまいました。暑い日が多くなるとマスクが苦しくてなりません。マスクに慣れたくなんかありません。
これが五月ですか?
朝の散歩道には相変わらず人の姿はまばらです。朝だからというわけではなく、以前とは違うのです。ふつうじゃないのです。
*
世界全体が非日常の中にある。そんな気がします。日常が日常ではない。お日さまが照っているのに暗いのです。なんだか、ネガとポジみたいに、そっくりなのにそっくりじゃないのです。
大規模、しかも国境をまたいでの非日常といえば、戦争でしょう。いち早く、それを口にしたリーダーはフランスのマクロン大統領でした。2020年の3月16日のことです。ただし、この発言というか比喩には賛否両論があります。
とはいえ、この国の前リーダーから「人類が感染症に打ち勝った証しとして」という発言があったわけですから、少なくとも「戦い」だという認識はあったと考えられます。
仏大統領、外出制限発表 新型コロナで「戦争状態」
フランスのマクロン大統領は16日、新型コロナウイルスの感染拡大を遅らせるため、買い物や通勤を除き外出を厳しく制限すると発表
jp.reuters.com
(社説)対コロナ 「戦争」の例えは適切か:朝日新聞デジタル
国民の生命を脅かし、経済にも大きな打撃をもたらす。その危機の深刻さを訴える狙いがあるにしても、新型コロナウイルスへの対応
www.asahi.com
安倍首相「人類が感染症に打ち勝った証しとして、完全な形で開催を」
安倍晋三首相は24日、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長と電話で会談した。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、夏
www.nishinippon.co.jp
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これだけ大きな規模の非日常だと、私たちの感覚が麻痺してしまい、これが異常な事態であることを忘れてしまうようです。人は慣れることで恐怖や不安をやわらげるのかもしれませんが、それこそが怖い気がします。
異常が当たり前になっている。異常が異常として感じられなくなっている。これが異常だという感覚が崩壊している。怖いが怖いじゃなくなってしまった。人の無意識の知恵でしょうか。
あるいは、沈黙の春が聞こえない異常だったように(今もこの異常は続いている気がします)、この戦争は戦う相手が見えないので差し迫ってリアルに感知されにくいのかもしれません。
温暖化もそうです。見えないし聞こえない危機だから、人は容易に感知しないのかもしれません。
ややこしい話はやめます。
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まわりを見ましょう。足元を見つめましょう。今確実にあるのは恋しいという気持ちです。ふつうが恋しいです。ふつうの今が恋しいのです。
何にもまして、ふつうの四季が恋しいです。ふつうの有り難みをこれほど感じたことはありません。
この国がこの国であるためには、四季が必要だと思います。目に見え、耳で聞こえ、匂いがして、その時々の美味しいものが食べられて、肌で感じられる四季です。
夏よ、来い。秋よ、来い。冬よ、来い。春よ、めぐって来ておくれ。「ふつうの」なんてつけなくてもいい、春、夏、秋、冬がまた来てほしいです。生きて、生き延びて、それを感じたいです。
私は高齢者で複数の基礎疾患があります。
頑張れ、この体。
*ヘッダーにはメザニンさんのイラストをお借りしました。
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