内容とか筋はどうでもいいです。

星野廉

2020/12/30 08:10


 長いセンテンスから成る作品だけが、あれよあれよと読めるというわけではありません。ただ、短文で畳みかけるような文章は、年を取るにつれて、読むのも書くのもだんだん苦しくなる。息継ぎに苦労する。そんな感じです。私の場合にはですけど。


 短いセンテンスの魅力と言えば、若いころに盛んに読んだ作家に中上健次がいます。いましたと言うべきなのかもしれません。四十六歳で亡くなったのですから夭逝ですよね。


『岬』は何度も読みました。小説を書きながら集中的にあちこち読んでいたことがあります。小説であれ哲学書であれ批評であれ、私は好きな箇所だけを順不同で読みます。こういうのは拾い読みと言うのでしょうか。この読み方がいちばん快いからです。内容とか筋はどうでもいいです。まして意図なんて考えたことがありません。気持よくあれよあれよと読むときに、そんな余裕はないです。


 極端なことを言うと、辞書はもちろんのこと、電話帳や電気製品のマニュアルでも場合によってはあれよあれよと読めるのです。これについては、いつか書きたいと思います。


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 書棚から、中上健次の本を持ってきました。小学館文庫版です。短文、短文と意識しながらぱらぱらめくってみて、いいなあと感じたのは、『岬』のほかに、『浄徳寺ツアー』――冒頭の三番目の文が句点を入れて五文字の「安堵した。」ですが、ぶっきらぼうでなかなかいい――と『蛇淫』でした。短文が適しているのはやはり短編ですね。短いセンテンスが力強くて気持ち良くからだに入ってきます。きょうは体調がいいようです。


 私には体調で読むようなところがあって、病状が思わしくない現在は、短くて勢いのある作品はからだが受け付けません。息の長い文章のほうがすっと入ってきます。


 中上の短編では比較的短文が多いにもかかわらず(長いセンテンスも混じっています)、字面がべたーっとしています。改行が少なかったりするし、鉤括弧付きの会話が地の文に織り込んである場合もあるからです。出版社の会議室かなんかでテーブルの上に腹ばいで這いつくばり、原稿用紙ではなく罫紙に細かい字でぎっしり書いていた。中上についての、そんな逸話を読んだ覚えがありますが、記憶違いかもしれません。違ってもかまいません。中上についての、今述べたイメージが気に入っています。


 段落なんかも考えずに、ばあーっと自動書記みたいに書いていたなんて噂もあたまに浮かびました。そもそも古文はそんなふうに書かれたのではないでしょうか。段落なんかも考えずにという意味です。ばあーっとは書かれなかったと思いますけど。中上のべたーっとした字面の文章を読んでいると、即興とかジャズといった言葉も浮かびます。中上とジャズ、自動書記、罫紙を埋め尽くしている昆虫のような細かい文字、改行なし、段落なし、改行は編集者が後で考えた――。伝説を見聞きし、それが自分のお気に入りのイメージになっていくのは心地よいです。真偽が曖昧なほど心地よい。私は暗示にかかりやすい人間なのです。暗示が原因で体調を崩すことなんかざらにあります。


 中上の短編は、短文だけから成るわけではなく、ときどき長めの文があったり、地の文と、語りと、話し言葉(鉤括弧でくくられるときも、括弧なしではめ込まれているときもあります、まさに象嵌という感じ)がいい感じで混じりあって、ああどうなっているのだろうと思いながらもあれよあれよと読み進めることができます。とりわけ、短いセンテンスと長いセンテンスが――まるで読者の呼吸を読んでいるかのように――リズム良く配置されている部分が心地よいです。そのリズムは、強弱、強弱、強強弱、弱弱強、みたいに感じられることがあります。文字や言葉であることを忘れます。


 久しぶりに中上の複数の短編に目を通してみましたが、さまざまな文体で書き分けられているのに驚きます。古井由吉の短編や谷崎潤一郎の長編のように書き方や字面が多様なのです。古井と谷崎は長いスパンで書き方を変えていったのですが、中上は短期間につぎつぎと変えていったのです。いや、変わったのです。表現の実験をしていたにちがいありません。文体に注目しながら読むと興味がわいてあれよあれよと引き込まれます。日本語の可能性をさぐったなどという陳腐で抽象的な評価がむなしく感じられます。


 中上は文章のなかにしかいないと改めて思いました。文章は言葉から成るリアルなモノに他なりません。具体的には、字面と音(おん)です。あたまのなかで声を聞きながら音読していることもあれば、文字のかたちと連なりだけを追っている場合もあります。どんどん読み進むこともあるし、ある部分の周辺でとどこおっているときもあります。読むとはリアルなモノをめぐっての、あくまでも具体的な体験です。基本的には目の前の細部しかありません。目の前に注目するとストーリーが消えます。感想も印象も分析も批評もモノの前ではむなしい。本当は語るべきコトなどないのです。騙ってでっちあげるしかない。語るに落ちるとはこのことですね。


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 破れ。敗れ。やぶれ。それにしても『浄徳寺ツアー』の字面に漂う、この不気味さは何なのだろう。中上については定型と型破りの間で揺れた書き手だという印象がある。中上にまといついていた決まり文句をつかうなら、「内なる暴力」を外にある定型で鎮めようとしたのではないか。だから、破れている。破るのではない。破れている。この文章は破れるしかないのだ。この人もやぶれるしかなかった。瞑目合掌。


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 短編と言えば、ヘミングウェイですね。恥ずかしいほどの決まり文句です。高見浩訳の新潮文庫版を持ってきました。めくってみましたが、読む気になれないのが残念です。短編集だと大久保康雄の旧訳や、『老人と海』の福田恆存のぽきぽきごつごつした訳文が恋しいような気がします。こういうのは慣れ親しんだものへの郷愁なのかもしれません。高見訳だとすべすべつるつるして、ハードボイルドという言葉とイメージからはほど遠い印象です。イメージはいい加減なものですね。イメージとはそういういい加減なところがいいのですけど。『エリオット夫妻』だけ読み終えましたが、これはなかなかいい感じ。


 高見浩さんの訳では、ピート・ハミル作の『ニューヨーク・スケッチブック』が好きです。これは何度も読みました。文庫版は付せんだらけです。単行本には――私としては珍しく――傍線が引かれ書き込みがあります。あと、高見浩訳では、マイ・シューヴァルとペール・ヴァールによるマルティン・ベックシリーズと呼ばれる作品群がいい味を出していた記憶があります。警察小説なのですけど、舞台となるスウェーデンのストックホルムの街や住人の描写が異世界のように面白くて、集中的に読んでいた時期がありました。『バルコニーの男』が特に気に入っていたのですが、確か押し入れに突っ込んである段ボール箱のなかに今もあるはずです。


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 アゴタ・クリストフの『悪童日記』があったのを思い出して、二階から持ってきました。何年ぶりかに目にするこの短いセンテンスの連続は見た目が気持ちいいです。こんなにいい文章だったのか――。すっかり忘れていました。堀茂樹さんの訳文は良質の日本語で書かれています。翻訳特有の人工的な日本語感があまりしません。


 ルナールの『にんじん』があたまに浮かんだので、青空文庫を覗いてみました。岸田国士訳ですね。これも違和を覚えない日本語で書かれていて、心地よいです。


 このところ小説は古井由吉のものばかり読んでいるのですが、こういう翻訳物の短文もいいものですね。久しぶりにまとめて味わいましたが、あれよあれよでした。きょうの収穫です。感謝。


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 志賀直哉とレイモンド・カーヴァー(私のなかでは短編集『頼むから静かにしてくれ』(村上春樹訳)のカーヴァーと『異邦人』(窪田啓作訳)のカミュがハードボイルドなのです)を思い出しましたが、疲れてきたので欲張るのはやめておきます。



※「文供養」より。

 この文章は、「文供養/文手箱」というマガジンに収めます。






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