文字を目で追いながら別のことを考える
星野廉
2020/12/18 12:13
今、古井由吉の『仮往生伝試文』を読んでいます。単行本を持っているのですが、分厚くて重いので文庫版を最近手に入れました。やはりこっちのほうが読みやすいです。一日の大半を過ごす居間のテーブルに置いています。今もPCの脇にあるのですが、好きな本だからでしょうか、こちらに目くばせを送っているように感じられることがあります。
『聖耳』、『魂の日』、『木犀の日』。 このところ古井由吉の本ばかり読んでいて、他の作家の本を手に取る気になりません。そういうふうに融通のきかないところが私の欠点なのです。それは分かっているつもりです。
私にはもう一つ欠点があります。きちんと本が読めないのです。文字を目で追いながら別のことを考えるなんてざらにあります(たまにですが、書きながら別のこと、とくに次に書くつもりの文章のことを考えている時がありますが、その際には書いている時間がもどかしくてなりません)。それがとても楽しいのでやめられません。だから、意味を正確に読み取るのは至難の業です。自分で勝手に読みかえている節があるのですが、こういうのを世間では誤読とか曲解とか呼んでいますね。
長年にわたってこんないい加減な読み方をしているのは、社会とは切り離された生活をしているからにちがいありません。わけあって無職ですし、交際がきょくたんに薄いのです。引きこもっていると言ってもかまわないと思います。このまま一生を終えるだろうという予感があります。
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うわの空で本を読んでいる私の感想なのできっと的外れな意見なのでしょうが、『仮往生伝試文』はブログみたいにも読める気がします。各章に日記体の部分があるのがいちばんの理由なのですけど、いかにも安易な考えですね。今言葉にしてみて、そう思いました。とはいえ、私にとってあの作品がブログであることに変わりはありません。
日記体の部分の前後にいろいろな種類の文章があるのですが、各文章間に内容はもちろん文体や雰囲気の揺らぎと変化が見られ(たとえて言うと突然の変調とか転調です)、そのがくんとした落差というか踏み外しがとても心地よく感じられます。一貫性を欠いた異なるテキストを織りまぜたつくりの作品が、私は好きみたいです。
以前には村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』が好きで、この小説ばかり読んでいた時期がありました。この作品もパッチワークのような構成になっています。少なくとも私にはそう読めると言うべきでしょうか。読んでいるといきなり文章の質や感じが変わって、目がくらみそうになります。もちろん、気持ちがいいという意味です。
私は筋とかストーリーを追うのが苦手です。というか筋があっても無視して読みます。これも気持ちがいいのでやっていることです。私には文学について語り合う相手が身近にいません。何かを読んでも誰かにそれについて話す機会が皆無なので、気ままに本を読む習慣がついたのかもしれません。不都合は今のところ見当たりません。その意味では、ひとりは楽です。
※文供養より。
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