同床異夢、異床同夢

2021/04/01 08:32


 寝入る時に人は一人になります。二人で抱き合って寝ていたとしても、眠りに入った瞬間に二人は別れます。どんなに愛し合っていても、二人一緒に眠りの中にいることはできません。残念ですか。悲しいですか。私は一人でいる時が一番安心します。さらに言うなら、寝る時くらいは一人でいたいと思う人間です。


 同床異夢とはよく言ったものです。四字熟語として使われる比喩的な意味ではなく文字通りに意味を取りましょう。同じ寝床で寝て違う夢を見る、ですね。


 同床同夢とか異床同夢という具合に、漢字を入れ替えて遊んでみたくなります。「同床同夢」と「異床同夢」をネットで検索してみると、同じような遊びをした例がヒットし、その中で「藤枝静男」という名前を見つけてはっとしました。


 あまりよく知られた名前ではありませんが「藤枝静男」という作家がいて、その人の書いた『異床同夢』というタイトルの作品および作品集があるのです。


異床同夢 (1975年)

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藤枝静男とは - コトバンク

デジタル大辞泉 - 藤枝静男の用語解説 - [1907~1993]小説家。静岡の生まれ。本名、勝見次郎。戦後、眼科医のかた

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 同床異夢は当然のことですが異床同夢となると、これは摩訶不思議な話になります。魅力的な作品名でもあります。残念ながら藤枝の『異床同夢』は読んだことがありません。どんなことが書いてあるのでしょう。その文字を見たとたんにイメージが湧きたちまちそれが膨らんできます。


 未読の書名を見て、その内容をあれこれ想像するのが好きです。タイトルだけ、あるいはその本の宣伝文句や簡単な解説を読むとぞくぞくします。書評は長すぎて興ざめします。説明が詳しいほど興が殺がれるのです。


 長年購読している朝日新聞は中小の出版社の広告が多くて、起床後に第一面の一番下を見るのが楽しみでなりません。二面、三面の下のほうだと大手の出版社の広告が掲載されていますね。推しは第一面ですが、読書面のある土曜の朝刊には零細な出版社の広告がたくさん載っていてわくわくします。


        *


 異床同夢――。


……昨日の夢の中で私と一緒に、K神社の境内でバドミントンをしたあなた、どうか連絡をください。どうしても、あなたに会いたいのです。私には誰もが目を見張る特徴があるのですが、それを確認のための合い言葉にしましょう。あなたと私が同じ夢を見た、つまり夢の中で会ったという証拠になりますから。……

(未完成の小説より)


 これは以前書きかけて放置したままになっている小説の一節で、SNSに載せたメッセージという設定です。遠く離れた所に住む誰かと同じ夢を見るというのはいかにもありがちで陳腐とも言えるストーリーですが、私にとっては心惹かれるテーマなので、いつか書き上げたいと思っています。


 この作品では語り手の言う「誰もが目を見張る特徴」というのが、「異床同夢」よりも大切なテーマなのですけど、ネタバレになるのでここでは詳しくお話しできないのが残念です。


        *


 藤枝静男については私小説を次第に崩していった果敢な作家というイメージがあります。自他と時空が錯綜した世界を描く『田紳有楽』を読み、それ以前の藤枝の諸作品に出て来る事物や風景のコラージュのような作りに「なるほど」と得心した記憶があります。藤枝静男という作家の必然を感じたのです。


『田紳有楽』では、「私」という一人称の語り手――池の底に住むグイ呑みであったり、弥勒菩薩の化身であったり、柿の蔕と呼ばれている抹茶茶碗であったり、本名は滓見白という丼鉢であったりします――が、あたかも目だけ、あるいは意識だけになって、懐かしい藤枝的風土を漂いさまいます。


 さまよいながら、藤枝ワールドに出てきたさまざまな物や生き物や想像物と交流を重ねるのですが、そもそも藤枝の諸作品では常に語り手や登場人物がさまよい歩きます。さまようことこそが藤枝静男における「私」の身振りなのです。


 荒唐無稽だと言われることの多い『田紳有楽』ですが、むしろ藤枝静男の「私小説」群にしっくり収まっていると言えるでしょう。生と死、彼我(自他)、物と心、世界と自分、空想と現実、こことかなた、現在と過去の境を取り払った上での、「私」の小説という意味での私小説であり心境小説なのです。


 短編集『欣求浄土』の最後の掌編である『一家団欒』には、登場人物が意識だけの存在になってふわふわと漂いながら一族の墓場に赴く記述があるのですが、『田紳有楽』の前奏だったように思えてなりません。また、藤枝が『空気頭』で試みた飛躍は、私小説作家を自認し自称していた藤枝にとっては内的必然であったと私は理解しています。


「私はこれから私の「私小説」を書いてみたいと思う。」と藤枝は『空気頭』の冒頭で述べ、続けて次のように書いています。


 私は、ひとりで考えて、私小説にはふたとおりあると思っている。そのひとつは、瀧井氏が云われたとおり、自分の考えや生活を一分一厘も歪めることなく写して行って、(中略) もうひとつの私小説というのは、材料としては自分の生活を用いるが、それに一応の決着をつけ、気持ちのうえでも区切りをつけたうえで、わかりいいように嘘を加えて組み立てて、(中略)

 私自身は、今までこの後者の方を書いてきた、しかし無論ほんとうは前のようなものを書きたい慾望のほうが強いから、これからそれを試みてみたいと思うのである。(後略)

(藤枝静男『田紳有楽 空気頭』講談社学芸文庫 pp.143-144)

 そう書きながら、藤枝は『空気頭』において従来の私小説から逸脱し、その型を壊していくでのです。この引用部分で、藤枝が逆説を述べているとか、まして冗談を言っているのだとは思いません。藤枝は小説に対して律儀なのです。内的必然を言葉にしただけです。



藤枝静男 - Wikipedia

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講談社文芸文庫 田紳有楽;空気頭

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