見ることによって加担しているのではないか
星野廉
2020/12/20 13:05
ストリートビューの利用は撮影する行為なのか――。
相変わらず、見る行為と撮影する行為について考えています。ジョニーさんの投げかけた上の問いは、予想を超えて私を揺さぶり続けています。その揺れを楽しんでいる自分がいます。有り難いことです。こういう経験こそが、noteの醍醐味のひとつではないでしょうか。
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ジョニーさんの記事によって揺さぶられた私が思い当たったのは、次の問いというか自問です。
RTはTすることなのか。つまり、リツイートはツイートすることなのか――。
たぶん、そうなのでしょう。リツイートすることよって、人はツイートするという行為、つまりTwitterという仕組みに組み入れられてしまうからです。さらに言うなら、ツイートしなくても、他人のツイートやリツイートを読むことで、人はTwitterという仕組み、ひいてはインターネットという巨大な蜘蛛の巣にとらわれてしまうのではないでしょうか。
話はちょっと飛びます。
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ネットではなく身の回りに目を転じてみましょう。
たとえば、あなたが路上で誰かが誰かによって暴力を振るわれる様を目にしたとします。その時、あなたは見るという行為で、その出来事、あるいは事件の目撃者になるわけですが、目撃者には通報するなり、間に割って入るなり、声を上げて他の人の注意を喚起するなり、その場から立ち去るなり、さまざまな選択肢が与えられます。目撃者から傍観者にもなれるわけですね。
万が一のケースですが、あなたがその暴力行為に加わるとすれば、それは加担に他ならず、あなたは共犯者にもなり得るわけです。
いろいろな展開が考えられますが、どうするかという選択肢が与えられると言うより、そうした複数の選択肢のある状況に投げ込まれると言うほうが正確かもしれません。
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ネットに話を戻します。
ある種のサイトを閲覧する行為が、差別や人権侵害に加担することにつながる。これは多いにあり得ることです。たとえば、性的虐待や誹謗中傷が含まれる文書・写真・動画へのアクセスです。見ることが加担につながる、あるいは即加担になり得ますね。
これは私自身の経験から言っています。つい、見てしまうのです。知らない間に加担しているかと問われると、イエスとは言えません。分かってやっている場合がありましたし、いまもあります。不祥事を起こした芸能人への過度の取材も、ここに含めていいと思います。いじめの構造と言うか、弱い立場の人間をよってたかって攻撃するという、どんな人間にも見られる行動の仕組みにからめとられれている自分に気づき愕然とすることがありました。関係するマスコミ宛てに抗議のメールを出すという選択肢もあったのではないか。いまになって思います。
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人は知らぬ間に何らかの仕組みや状況に投げ込まれているという気がします。薄々分かっているという、うっかりやちゃっかりもあれば、まったく意識していない場合もあるでしょうし、逆に分かっているのだけど為す術がないとか、何かをするのを諦めているケースもあるにちがいありません。分かっていて自らあえて何もしない、さらには煽る、極端な場合には加担するというスタンスもあるはずです。
いずれの場合であっても、誰もが何らかの仕組みや状況に投げ込まれている事態は変わらないと思われます。仕組みや制度や体系というものは、人の意思に関係なく存在する(すでに存在している)のが特徴なのです。
仕組みにとらわれた人間は加担するしかない――。
こうした事態または状況は、いま述べた「加担」という、使うのにいささかためらいを覚える言葉でしか語ることができないのでしょうか。共犯といったさらに語弊のある言葉も浮かびます。ネガティブな意味合いを打ち消すしてくれる類語はないのでしょうか。
助ける、促す、かかわる、参加する、与(くみ)する、支える……。
どれもが使うのに抵抗を覚える言葉なのは、その事態と状況が良くないことであり、それに組み込まれることに後ろめたさを感じるからではないでしょうか。
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大きな問題、大きいどころか人類にとって最大の問題と言える地球温暖化を考えてみましょう。これは、誰もが組み込まれている大問題であり、問題というよりも危機、それも絶滅危惧という意味での危惧に相当する事態だと思います。「誰も」の中にホモ・サピエンス以外のすべての生き物が含まれるという意味では、危機も危惧もその恐ろしさと罪深さを伝える言葉だとは思えないほどです。
たとえば、ここで偉そうなことを言っている私は、自分は地球温暖化の目撃者であり傍観者であり加担者であり共犯者であると強く感じています。ひょっとすると近いうちに自分が犠牲者や被害者になるかもしれないとも思っています。私にはいませんが、子どもや孫がいる同年代の人を思うと、心が痛みます。
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話を戻します。
RTすることはTすることに他ならず、TすることはTwitterという仕組みにとらわれることであり、Twitterを使用できる環境を整える、あるいは手にれるとで誰もがインターネットという巨大な網に自動的に放りこまれる。言い換えると、パソコンやスマホを手に入れることで、インターネットという仕組みに「加担」している状況に投げ込まれる。
あなたはこれを持っているのだから、あれを閲覧・視聴できるわけですね、だからあなたから受信料を徴収します――。だから、あなたも頑張って。
例のあの論理とそっくりじゃありませんか!
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知らず知らずのうちに自分が組み込まれてしまっている何らかの仕組みは、案外多いのではないでしょうか。上で挙げた例はほんの一部だという気がしてなりません。
では、どうしたらいいのでしょうか。
「知らず知らず」というところが味噌です。そこが大切な点です。つまり、普段は思いつかない、気づかない、知らないという点が恐ろしいと言えば、お分かりになると思います。
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本日のあるnoteの記事を読み、はっとしました。
見ることは加担することだけじゃない! 参加や支持にもなる。
この記事を書いていらっしゃるchiakiさんは、連日アウトサイダーアートを紹介しています。アウトサイダーアートはあまり知られていないアートでありパフォーマンスなのですが、どんなものを指すのでしょうか。
私が言葉を重ねるよりも、chiakiさんの記事をお読みいただくのが「百聞は一見にしかず」で、いちばんいいでしょう。これまでに、chiakiさんは何人ものアーティストとその作品を取り上げていらっしゃいます。ご覧のように、スキの数が多い人気のある記事なのですが、まだまだ知られていいし、みなさんに知っていただきたいと私は思っています。
アウトサイダーアートに目を向けることで、アートというジャンル(これも広義の仕組みであり制度なのです)に参加できるのです。目を向ける、つまり見ることが、加担ではなく、参加になるのです。
私はchiakiさんの記事に、次のコメントをしました。
>こうして、chiakiさんの文章によっても、宮間英次郎氏の存在は広まっていくのですね。
見る人や知る人がいてこそ、パフォーマンスというアートは生きるのですから、chiakiさんも、そのアートにある意味で参加しているのだと私は考えます。
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chiakiさんの眼差しは優しい。見る行為が、他者を思いやる(他者に対する想像力を働かせる)、そして理解しようとする行為へとつながり、さらには自分が対象の行為に参加することへとつながっている。見る人、つまり傍観者から、参加者、さらには支持者へと立ち位置が変化している点が感動的なのだ――。
そう思ったので、私は上のコメントをしました。ぜひ、chiakiさんの記事をお読みください。
あなたが見る、そして知るだけでも、新しい形のアートに参加できるのです。あなたも新しいアートとパフォーマンスの担い手になれるのです。なぜなら、アートとは見る人がいて初めて成立する仕組みなのです。
(もちろん、これは見ることが参加や支持につながるというほんの一例です。他にもさまざまな方法があるはずです。それは各自が考えることだとも思います。)
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まとめます。
誰もが知らず知らずのうちに加担してしまっているものやことがある。それも、たくさんあるようだ。なかなか気づかないが、知ったとたんにその重要性を痛感するものが多い。そうしたものをとりあえず「仕組み」と呼んでみよう。
そうした仕組みの存在に気づいた時に、自分がその仕組みに加担していることを悟り、自分に何ができるかを考えることが大切なのではないか。もちろん、大きな問題、大きすぎる問題もある。無理をせず、まずいまここで自分に何ができるか、から考えてみよう。
何ができるかは、人それぞれだろう。
たとえば、いま、あなたはスマホやパソコンの画面を見ているはずだ。自分が見ていることが傍観にならないために、さらには意識的な加担にならないために、何かをしてみよう。敵は、無視であり無関心であり無為である。
たとえば、引用やRTでもいい、発信することでその問題の解決の一助になる気がしたら、ためらわずにやってみよう。助ける。支える。微力でいいから、力を貸してみる。どうせ組み込まれるのなら、巻き込まれるのなら、自分から組み込まれ、巻き込まれることで、プラスの方向に持っていこうではないか。
あなたは、きっとひとりではないはず。
まずは、小さな一歩から。
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偉そうに上から目線的な言い方をしてごめんなさい。私も口だけにならないように、自分のいまできることからやっていきます。
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