哲学/批評 風味・Feel This Moment 2013 Pitbull ft. Christina Aguilera
星野廉
2020/12/26 08:08
Feel this moment.
この瞬間の手触りや肌触り、つまり皮膚感を楽しむ。
いまここしかないのが、あれよあれよ。
ある意味、刹那主義。
難聴が進行してから出会った曲なので、私にはよく聞き取れないのですが、テレビのCMや映画のトレーラーのような疾走感。頻繁かつ小刻みに切り替わるショットの連続。激しい動き。
Feel This Moment 2013 Pitbull ft. Christina Aguilera
あれよあれよ感の強い動画。かっこいいですね。
ピットブル(すごい名前ですね、わんちゃんみたい)を見るとミシェル・フーコーを思い出すのは私だけでしょうか。よく見ると顔つきだけでなく体格がだいぶ違うのに、頭の感じだけで勝手に連想しているみたいです。フーコーをマッチョにしたようなおじさん。
一方のクリスティーナ・マリア・アギレラですが、その表情に見とれます。視点が定まらないというか、カメラ目線でこっちを向いているショットが少ない気がします。マイペースで一心不乱なノリが欧陽菲菲(オーヤン・フィーフィー)を彷彿させなくもない感じ。きょろきょろしているところが恥ずかしげにも見えます。以外とシャイなのかも。
フーコー似のピットプルおじさんとうわの空目のアギレラお姉さんのコラボというか絡み。好きです。二人ともパワフルで見ていて清々しい。
音楽にも洋楽にもぜんぜん詳しくないので、自分が見て楽しい点ばかり、だらだらと書いて申し訳ありません。私には音楽についての蘊蓄は似合わないしできっこないので諦めております。せいぜい、ウィキペディアへのリンクを張ることでお茶を濁させていただきます。
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フーコーで思い出しましたが、昔おもにその著作の邦訳を読んだり、ただその邦訳の字面を見ている存在だった、懐かしいフランス人たちの動画を最近になって漁っています。以外とあるもんなんですね。YouTubeが登場した時代まで生きていて良かったとつくづく思います。難聴のために新しい音楽を聴いても聞き取れないのが残念ですが、贅沢な悩みというべきでしょう。
根がミーハーな私は、懐かしいフランス人たちの動画を見て老後を楽しんでいるというわけです。
このフーコーですが、なんとノーム・チョムスキーと対談しています。なかなか興味深い話をしています。
この動画を見ると、かつて来日したフーコーが吉本隆明と対談したという話を思い出します。その時に両者の間で通訳をしたのが蓮實重彦なのです。
ね、フーコーとピットブルって似てますよね? ヘンリー・ポールソン元米国財務長官を見た時にも、あ、フーコーに激似なんて思いました。髪型(?)から来る印象って決定的です。
学生時代にフーコーがNHKテレビに出ていたのを見たことがあるのですが、それは「言葉は言葉 【言葉は魔法・006】」という記事に書いてありますので、私みたいにミーハーな心をお持ちの方はぜひお読みください。動画が何本も貼り付けてあります。
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フーコーはちょっと強面なので会ってみたいとは思わなかったのですが、ロラン・バルトには会ってみたかったというか、この目で見たかったです。バルトも来日したことがありますよね。
大学進学を機に上京した年の思い出なのですが、生まれて初めて入った飲み屋で、びっくりしたことがありました。
「いらっしゃいませ~。あら、お若いのね、学生さん? 何を勉強なさってるのかしら? まあ、フランス文学ですって? ほら、あなたのいる席の隣に、ロラン・バルトが座ったことがあるの。バルトは知ってるでしょ? こんなになって、座ってたわ」
その店のママ(男性です)が、わざわざしなを作ったり、身ぶりと手振りを交えてその時の模様を教えてくれたのです。もちろん、感激しました。思わず居住まいを正し、空席だったその椅子に見入ったものでした。興奮のあまりに鳥肌が立ったのを覚えています。
バルトの日本旅行記というか独創性に富んだ日本論である『表徴の帝国』に、バルトが自分で手描きした新宿の地図が収録されていて、そこにお店の場所と名前が出ていることも、ママが教えてくれました。後にその本を手に入れて、またまた鳥肌が立ったのを覚えています。あと、その地図にはバルトが来日した当時に、ある種の人たちによく知られていた都内のある映画館の場所も明記されていました。これなどは、ある種の分野の研究において貴重な資料となるのではないでしょうか。(※以上は、言うまでもなく、バルトのしたお仕事とは直接的には関係のないことです。)
「記、号、の、帝、国、」(「、」はルビ)としての日本は、ロラン・バルトにとっては、ありうべからざる楽園の、不意の、しかも束の間の幻影としてあるのであり、だからその言葉たちは、いささかも「日本論」を構成したりはしえないのだ。
(蓮實重彦著『批評 あるいは仮死の祭典』p.208 太文字と丸括弧内は引用者による。)
こうお書きになるのが、蓮實先生なのです。↑ かつて先生の授業を受けたにもかかわらず、ぜんぜん学ばなかったこの私……。
筑摩書房 表徴の帝国 / ロラン・バルト 著, 宗 左近 著
筑摩書房のウェブサイト。新刊案内、書籍検索、各種の連載エッセイ、主催イベントや文学賞の案内。
www.chikumashobo.co.jp
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音楽の紹介記事なのに、話がどんどん外れてきましたね。
もうこうなったら、このまま行きます。哲学と批評風味でフィーチャーさせていただきます。あれよあれよ。この展開を素直に受け入れる。いまここを大切に。
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蓮實重彦の『批評 あるいは仮死の祭典』では、ミシェル・フーコー、アラン・ロブ=グリエ、ジル・ドゥルーズ、ロラン・バルト、ジャン=ピエール・リシャールが扱われていますが、フーコーとドゥルーズとバルトについてはインタビュー(バルトを除いて蓮實がその自宅やアパートに訪ねていく)があり、またその生の人物像が語られていて、私のミーハーな気持ちを満足させてくれます。ルポルタージュ形式の小説みたいなので、楽しく読めます。
これだけ臨場感にあふれるフランス思想のテキストは他にはないのではないでしょうか。何しろ見てきたように語られているのですから。実際、そうなんですけど。
批評あるいは仮死の祭典
1927年創業で全国主要都市や海外に店舗を展開する紀伊國屋書店のサイト。ウェブストアでは本や雑誌や電子書籍を1,000万件
www.kinokuniya.co.jp
動画から熱気が感じられます。見入ってしまいます。『批評 あるいは仮死の祭典』で描かれている人間味あふれるドゥルーズ像と、あまりにも悲しい最期を思うと感傷に流されていきます。ドゥルーズだけではありません。バルトもフーコーも、ルイ・アルチュセールも、死因こそ異なりますが非業の最期でした。合掌。
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『批評 あるいは仮死の祭典』で印象に残っている「ルポルタージュ」があります。一九七二年の一月にパリで三日間にわたってプルーストをめぐるシンポジウムが行われ、「プルーストとヌーヴェル・クリティック」という会が持たれたという。その発言者たちの顔ぶれがすごい。ロラン・バルト、ジャン・ルッセ、ジャン・リカルドゥー、ジェラール・ジュネット、セルジュ・ドゥブロウスキー、ジル・ドゥルーズ。しかも聴衆の中に小説家クロード・シモンや批評家ジャン=ピエール・リシャールがいた。
その会場にいた蓮實が耳に挟んだという隣席の男のつぶやきが当時の状況を伝えていて興味深い。
(前略)今夜の客を見ろ、あれがプルーストって顔かよ、(中略)、ほらあの女の子はバルトの本をかかえている、連中はみんなバルトを見に来たんだ、(中略)、彼等はサインでももらえればとっとと帰ってゆくんだ(後略)
(蓮實重彦著『批評 あるいは仮死の祭典』p.38、丸括弧内は引用者による。)
ミーハーな私はこのあたりの描写で、もうため息吐息でめろめろへろへろになります。その会でジル・ドゥルーズが登場して、会場の雰囲気が一変するのですが……。それはいったいどういうことなのか。これ以上引用も要約も私にはできません。この本を読んでいただくのがいちばんいいと思います。
お祭り騒ぎの雰囲気のイベント。数々の新しい手法を用いた批評のプレゼン大会。ミーハーな観客たち。そんな現場を活写した蓮實の文章はいま読んでもスリリングです。とりわけ、新しい批評がフランスという場でどのような登場の仕方をし、どのように受け入れられていったか、については歴史的な文脈に置いて考えることが不可欠だと感じます。新旧の対立とかせめぎ合いという単純な構図には収まらない「事件性」があったのです。そして蓮實はその事件に立ち会ったのです。
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『批評 あるいは仮死の祭典』が出版された時期の日本はどうだったか。「言葉は言葉 【言葉は魔法・006】」と「言葉はバレエ 【言葉は魔法・005】」でも触れた雑誌「エピステーメー」をはじめ、雑誌「パイデイア」、雑誌「海」といった雑誌におけるさまざまな書き手の活動が、当時の状況を歴史的な文脈として考えるさいの資料になると思います。いま振り返ると、フランスとは状況がかなり異なっていたのが分かります。とくにアカデミックな場での状況は日仏では大違いだったみたいです。
日本では――哲学や思想界ではなく――むしろ文芸や文芸批評の担い手たちが、フランスの新しい哲学と思想を紹介・導入する際に積極的で大きな役割を果たしたことは注目していいと思います。
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では、こうなったら、ついでにジャック・デリダの動画も行きましょうか。
バナナの叩き売りじゃあるまいし、もう自棄ですね。
では、あまり長くないので行きましょう。字幕付きで。
蓮實重彦の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』をときどき拾い読みします。通して読むことはないです。思考停止的な印象、つまり個人の意見および感想で恐縮ですが、この著作でのフーコー論は物語みたいです。何度も読み返さないと分からない物語。読み返しても分からない物語。それでいいのだと思います。あれよあれよと読み返しています。
ドゥルーズ論は現代詩という感じがします。とうてい言葉では伝えられないし説明できないような「何か」をレトリックでほのめかす。そんなポエムです。詩ですから、理解というよりも鑑賞するつもりで読むといいかもしれません。
デリダ論は、この著作ではいちばん読みやすいし分かりやすい気がします。記述が図式的なのです。チャート式ということですね。明晰という言い方もできそうです。読むとすっきりします。言語学のまとめとか整理に最適の解説だと思います。
※以上はあくまでも個人の意見および感想であり、比喩でもあります。
フーコー・ドゥルーズ・デリダ :蓮實 重彦|河出書房新社
フーコー・ドゥルーズ・デリダ 七○年代中期にあって三大思想家の代表作を、驚くべき力わざで読み解いた、先駆的であると同時にい
www.kawade.co.jp
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とりとめのない記事になりました。ごめんなさい。過去の思い出にくよくよと浸るのはやめて、あれよあれよで締めくくりましょう。
同じ曲のライブ動画をお楽しみください。
Feel this moment. いまここを楽しむ。あれよあれよ。
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