S、M、そしてM寄りのH(言葉は魔法・第11回)

星野廉

2021/05/14 08:06


 突然不躾な質問をしますがお許しください。


 あなたはSですか、それともMですか?


 この質問を例のSMの意味でとってくださって、けっこうです。どうでしょう? 


 あなたはサディスト( or サディスティック)ですか、それとも、マゾヒスト( or マゾヒスティック)ですか? どちらでも、ないですか? 両方の要素とか素養がおありですか? 時と場合によりますか? TPO次第で変わるから一定していない、ですか? 


 ジル・ドゥルーズという人の書いた本の邦訳である『マゾッホとサド』の訳者が蓮實重彦氏なのですけど、内容や詳細はすっかり忘れました。で、要約すると、


*いわゆるSとMとは反意語でない


ということが書かれていたと記憶しています。比喩的に言えば、反意語というより、両者のベクトルが違うという意味だったような気もします。


 どういうことかと申しますと、Mはかまってちゃんであり、めちゃくちゃめんどくさい、これに尽きるようなのです。


晶文社クラシックス マゾッホとサド

マゾヒズムはサディズムの裏返しではない—。不当に歪められた作家マゾッホの独創性とすぐれた現代性を証すフランス思想の巨星ドゥ

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河出文庫 ザッヘル=マゾッホ紹介—冷淡なものと残酷なもの

マゾッホをサドの陰から救い出し、その独自の新しさ=特異性を発見するとともに、差異と反復の希求というドゥルーズ哲学の核心をあ

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『マゾッホとサド』には『ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの』という邦訳もありますが、著者であるドゥルーズという人は、やたら「AとB」みたいな本を書きました。


 ウィキペディアの解説から、ジル・ドゥルーズの著作とその邦訳に見られる et と「と」を並べてみましょう。


Empirisme et subjectivité、経験論と主体性、Nietzsche et la philosophie、ニーチェと哲学、Proust et les signes、プルーストとシーニュ、 le froid et le cruel、マゾッホとサド、冷淡なものと残酷なもの;原子と分身;Différence et différenciation;Différence et répétition、差異と反復、Spinoza et le problème de l'expression、スピノザと表現の問題、Leibnitz et le Baroque、ライプニッツとバロック;記号と事件;Critique et clinique、批評と臨床;L'Île déserte et autres textes: Textes et entretiens;Capitalisme et schizophrénie、資本主義と分裂症、Politique et psychanalyse、政治と精神分析

 壮観ですね。これを目の当たりにして、et と「と」に注目しないほうが変だという気がします。この「と」について、万が一気になる方がいらっしゃいましたら、以下の記事をお読みください。




ジル・ドゥルーズ - Wikipedia

ja.wikipedia.org

        *


 Aの振りをして実はBだったり、Cを求めながらDをほしい振りをしたり、それを相手が察してくれなかったり忖度してくれないと、大変なことになります。ひっくり返って駄々をこねる。切れてすごむ。すねまくる――。


 めんどくさいですよね。あなたはそんな人の相手ができますか? 普通はご免ですよね。


 大切な点は、そういう性格であるMの「お願い」が、縛ってくれだの、叩いてくれだの、罵倒してくれだのなのです。それでいて、そのお願いにうまく、つまりMの望むがままに応えるものでないと、切れるんです。「お願い」に見えて、実は「指示」であり「命令」なのです。めんどくせーっと思っているあなた、正解です。


 こうしたMの資質はずる賢くしたたかとも言えそうです。相手が下手くそだと根気よく教育するのです。しつこいですね。ねちっこいですね。とてもじゃないですが、持久力も戦略も狡知も持ち合わせていないSには太刀打ちできません。


 そもそもSとMのあいだには相性など成立しないほど、両者は隔たっているし異質な存在同士なのです。「ねえねえ、こうやってくれる?」と相手を根気よく飼い慣らし操り翻弄するM。その相手ができるのは、たとえMでなくてもMの世界の住人でなければなりません。


 Mの相手をするのは疲れるということですね。え? いやに詳しいじゃないか、ですか? いえいえ、何となく知っているだけです。これまでにいろいろな小説を読んできたので……。谷崎潤一郎とか、川端康成とか、江戸川乱歩とか……。


 それにしても、ややこしいですね。大儀ですね。こういう話は図式化という横着をするのがいちばんだと思います。


        *


*Mの世界:


 基本は、教育と演技(演劇・振りをすること)と遊戯。要するに、プレイ。


 Mはどんな人?:


 教育者(自分が気持ち良くなるためのストーリーと方法を相手に教える教師)。しつこい、根気強い。かまってちゃん。自己中だけど、快感を得るためなら少々のことは我慢する。言っていることと望むことがしばしば真逆(たとえば、「駄目」は「OK」、「やめて」は「続けて」、「死にそう」は「めっちゃ気持ちいい」)。主導権は自分が握る。要するに、めんどくさい。最も重要なポイントは、Mはじつは「ご主人」であること。


 Mの相手には、どんな人物が適するのか?:


 従順。元気で健康体であることが望まれる。Mのお願いや注文(実は命令と指示)に根気よく従う良き生徒。要するに、Mの奴隷。必然的にMの協力者や「共犯者」に仕立てあげられてしまう。なお、Mの相手をMがするという状況は珍しくない。


 Mの相手に最も向かないのは?:


 S。


        *


*Sの世界:


 基本は暴力。しかも一方向(一方的)。要するに、攻撃。


 Sはどんな人?:


 自己中で相手に有無を言わせない。忍耐強くない。快感を得るためのストーリーはなく、計画性は希薄で衝動的。ある意味、単純。主導権という観念すらない。とは言え、もちろん、知性や知力とは必ずしも関係があるわけではない。


 Sの相手には、どんな人物が適するのか?:


 従順。元気で健康である必要はない。相手が人間であることは言うまでもないが、極端な場合には相手は物(比喩)でもいい(たとえば、相手は比喩的な意味での切断された四肢であったり、比喩的な意味での死体であったりしてもいい)。なお、被害者や犠牲者になる可能性が高い。したがって、Sの行為は犯罪との親和性が高いと言えよう。


 Sの相手に最も向かないのは?:


 M。


        *


 お分かりになったでしょうか。SとMは別の世界の住人なのです。世界観が異なるとも言えるかもしれません。


 ここで一息入れましょう。





        *


 さらに図式化してみます。


*通念:サディストとマゾヒスト、主人と下僕が相反するペアだと考える。


 Sadist           Masochist


 Master(主人)        Servant(下僕)


 上の図式を見ると、SMではなくむしろMSどす。


 SMというよりもMSではないか。マスターとサーバントです。そんなふうに思えてきます。


*Mから見た関係=Mの世界


 Masochist=Master=自分    Servant(下僕)=相手


*Sから見た関係=Sの世界


 Sadist=Master=自分      Servant(下僕)=相手


 ご覧のように、Mの世界には Servant(下僕)はいても、Sadist の入る余地はないのです。一方、Sの世界にはServant(下僕)はいても、Masochist の入る余地はないのです。


 実は、この分野で実地経験の豊かな、あるお方にかつて以上の図式を話してみたところ、「その通りだけど、なんで、あんたがそんなこと知ってるの?」と不思議な顔をされました。お墨付きを得たと理解した次第です。そのお方はいま思うと、「器官なき身体」を具現したような人で、その世界ではレジェンド的存在でした。存命ならかなり高齢のはずです。どうしていらっしゃるのかとても気になります。


器官なき身体 - Wikipedia

ja.wikipedia.org

器官なき身体とは - コトバンク

日本大百科全書(ニッポニカ) - 器官なき身体の用語解説 - フランスの哲学者ジル・ドルーズが提起した概念。国家・資本主義

kotobank.jp


 なお、器官なき身体については、以下の記事でも触れました。交響曲なんて入ったタイトルですが、内容はエロいです。




        *


 以上の説明から、「SとM」とか「SM」と一般に呼ばれている言葉やそれにまつわるイメージや思い込みの粗雑さがお分かりになったと思います。なお、以上の図式が図式である以上粗雑で杜撰なイメージと思い込みであることは言うまでもありません。正しい視点などでは毛頭ないという意味です。そもそもメタな視座などあり得ないのです。


 いずれにせよ、おそらく『マゾッホとサド』という本には、以上の意味のようなことが書かれているのではないかと想像します。ま、そうである必然はぜんぜんないのですけど。間違っていたら、ごめんなさい。あくまでも、個人の意見および感想ということで、お許し願います。


 何しろ、私は論理的思考がきわめて苦手なのです。上のような図式化も苦手で苦労しました。


 言葉はS/M。

 言葉はM/S。

 言葉はめんどう。

 言葉の奴隷にはなりたくない。けど、なるのが人間。


 主導権は人間の側にはない。※以下の過去記事には、ややこしいことを長々と書いているので、興味のある方だけ、ご笑覧ください(私にとっては愛着のある記事なのです)。


何もないところから

げんすけ 2020/08/09 07:50  何もないところから、何かが生まれるなんてあり得ない。そんな意味のことを、これ

renssokoaaa.blogspot.com

めちゃくちゃこじつけて

げんすけ 2020/08/09 08:54  めちゃくちゃこじつけて、こじつけまくるというのが、このブログのやり方なのです

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銃が悪いのではなく

げんすけ 2020/08/09 09:58  銃が悪いのではなく、悪用するヒトが悪いのだ、みたいな意味の意見を見聞きしたこ

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どうにもならないときには

げんすけ 2020/08/10 08:49  どうにもならないときには、どうにかなるとか、なんとかやってみせると考えたり信

renssokoaaa.blogspot.com


 言葉を前にして、人間は奴隷と下僕になるしかない。

 言葉はS/M。

 言語活動はSMプレイ。

 ※「プレイ」、ここが大切です。遊戯であり競技であり演劇なのです。


 言葉は魔法。


        *


 ところで、みなさんもお感じになるでしょうが、谷崎はMですね。健康かつ元気でかまってちゃんな女性に振り回されるのを喜んでいます。たとえば『痴人の愛』、『鍵』、『瘋癲老人日記』を読むとよく分かります。


谷崎潤一郎 『痴人の愛』 | 新潮社

きまじめなサラリーマンの河合譲治は、カフェでみそめて育てあげた美少女ナオミを妻にした。河合が独占していたナオミの周辺に、い

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谷崎潤一郎 『鍵・瘋癲老人日記』 | 新潮社

老夫婦の閨房日記を交互に示す手法で性の深奥を描く「鍵」。老残の身でなおも息子の妻の媚態に惑う「瘋癲老人日記」。晩年の二傑作

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 一方、川端はSだという気がします。かなり自己中で強引で有無を言わせないところがありますよね(『みずうみ(みづうみ)』ではストーカーまでします)。しかも、『禽獣』のように相手が「か弱すぎ」たり(相手が人間とは限りません)、『片腕』のように相手は切断された腕と手であって、いわば物ですが、これは幻想であり暗喩または換喩と解すべきでしょう、あるいは『眠れる美女』のように眠っている(ある意味死体や物と同じです)場合もあるのですから、怖い、怖すぎです。


川端康成 『みずうみ』 | 新潮社

美しい少女を見ると、憑かれたように後をつけてしまう男、桃井銀平。教え子と恋愛事件を起こして教職の座を失ってもなお、異常な執

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川端康成 『伊豆の踊子』 | 新潮社

旧制高校生である主人公が孤独に悩み、伊豆へのひとり旅に出かける。途中、旅芸人の一団と出会い、そのなかの踊子に、心をひかれて

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川端康成 『眠れる美女』 | 新潮社

波の音高い海辺の宿は、すでに男ではなくなった老人たちのための逸楽の館であった。真紅のビロードのカーテンをめぐらせた一室に、

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※新潮社文庫版の『伊豆の踊子』には『禽獣』、『眠れる美女』には『片腕』が入っています。


       *


 乱歩はたぶんかなり偏ったMでしょう。Mというだけでは済まされないという意味です。乱歩は変化球をばんばん投げましたよね。奇想とも言います。これでもかこれでもかという具合に。あれはすごいです。Mというより、M寄りのH(辞書に載っているHという意味です)と言うべきかもしれません。


 私がすごいと思って何度も読み返したのは、短編では『人間椅子』と『鏡地獄』と『芋虫』、長編では何と言っても『孤島の鬼』(とりわけ秀ちゃんと吉ちゃんが出てくる部分の妖しさと悲しさ)です。


 乱歩の作品は、谷崎と同様にその主要なものが青空文庫に入っているので、まずはネットで目を通してから本を読むのもいいかもしれません。「いやだ、こんなの無理みたい」とお感じになれば、バイバイということですね。


 なお、谷崎も川端も乱歩も、MだのSだのHだのも、その作品の傾向がですよ。ご本人については知りませんので、誤解なきようにお願いいたします。作品だけを前にして、その作品を書いた人について語れるわけがありません。騙るなら別ですけど。


 つまり、「谷崎潤一郎」も「川端康成」も「江戸川乱歩」も、「言葉」であり「記号」なのです。それでしかあり得ないのです。あなたも私もそうだと言えます。noteという場にいる限りにおいては、生身の人間ではないわけです。私はあなたに触れることはできません。でも、あなたの言葉になら「触れる」ことができます。それ以上でもそれ以下でもありません。


        *


 以上のように「SとM」にまつわるイメージは杜撰(ずさん)で、かなりいい加減なものですが、こうした例は他にも多々あるはずです。


 別に否定はしませんし、否定などできるわけがないのです。いろいろな解――正解ではなく解釈や解答――がある社会のほうが健全ですし、だいいち生きやすいのではないでしょうか。蛇足ですけど、ドゥルーズさんはそう言っていたような気がします。


 SでもMでもHでもXでもZでも、何でもいいです。気持よければ何でもいいとは言いませんが、言葉のもたらす多様な快と解に触れ、それを楽しみたいと思っています。








【※この記事は「言葉は魔法」というマガジンに収めます。】

 *ヘッダーにはメザニンさんのイラストをお借りしました。




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