RTはTすることなのか

星野廉

2020/12/17 11:41


 ストリートビューの利用は撮影する行為なのか――。


 ジョニーさんの投げかけた問いは私にとって衝撃でした。ストリービューだけにとどまらない、射程の長い、また幅広い、問題提起だと感じたからです。




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 私たちがテレビやインターネットや印刷物やラジオやDVDなどを通じて見ている、聞いているものは、撮られたもの、作られたもの、編集されたもの、加工されたものではないか。


 すべては仕組まれているのではないか。


 たぶん、そうなのでしょうね。「そうよ、だから何?」「当たり前じゃん」「いま気がついたわけじゃあるまいし、何か言いたいんでしょ」という状況あるいは事態なのでしょうね。だから、私はこの記事を書いているのです。分かっているはずのことをじっくり考えたい、考え直したいのです。unlearn したいのです。


 同じことを別の日に考えると違った文章になっていることがよくあります。似たり寄ったりのことを書いている場合もあります。やってみないことには分かりません。おそらく、それが私にとっては生きていることなのです。それくらいしか楽しみはないとも言えます。サイコロを振るのと同じです。私がサイコロです。振るのは誰なのでしょう。




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 今回は、しんはくさんの記事をご紹介します。以下の記事以外にも、刺激的な論考があります。ぜひ、アカウントをお訪ねになってください。






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 私の記事では、言葉を広く取っています。いわゆる書き言葉と話し言葉だけでなく、文字言語と音声言語に加えて、視覚言語、手話、指文字、手文字、ホームサイン、点字、指点字、身ぶり言語(ボディーランゲージ)、さらには非言語コミュニケーションと呼ばれているものも、広い意味での言葉であり言語に含めていい。いや含めない限り、ヒトの言語活動および表象を用いた行動の実相と実態には迫れないと感じているからです。


 そんなわけで、「撮るとは何か?」というジョニーさんの言葉を広く取りたいと思います。


 発信するとは何か? 投稿するとは何か? 創作するとは何か? 書くとは何か? 読むとは何か? 詠むとは何か? 描くとは何か? 作るとは何か? 作曲するとは何か? 歌うとは何か? 演奏するとは何か? 演じるとは何か? 引用するとは何か? 複製するとは何か? パロディとは何か? 変奏とは何か? アレンジとは何か? オマージュとは何か。 翻訳とは何か? 翻案とは何か?


 話を広げすぎましたね。私のような素人の手に負えない話ばかりです。それに私は論理的思考が半端じゃなく苦手なのです。私の書き方を見れば、一目瞭然でしょう。しかもお勉強嫌いと来ているのです。


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 簡単な例を取りましょう。


 RTはTすることなのか。リツイートはツイートすることなのか。


 誰かが既に発信した文書なり画像なり音声としてのデータを、その誰かではない人が、あるいはその誰かが再び、発信することもまた発信であるという前提で話を進めます。一度発信したデータは、発信者を離れると考えるからです。


 RTが飛躍的に多くなる場合がありますね。いわゆる炎上を招くこともあるでしょう。その場合に責任は誰にあるのでしょう。元のTが削除されても、RTが増加というか増殖しつづける例が多々あります。


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 作られたものを「見る」は、「撮る」と重なっているのではないか。


 カメラと人の目の作りが似ているだけの話ではない気がする。それだけではないだろう。


「読む」と「書く」は重なっているのではないか。「読む」と「詠む」については重なっていると言っていい。


 人は話しながら、あるいは歌いながら、自分の声を聞いているのではないか。いや、聞こえているのは自分の声だけではない気がしてならない。同時に他者の声を聞いている。おそらく、それは複数の他者の声だ。


「見る」と「聞く」において「する」と「される」が重なっているのは、人が作るものは人を真似ているからだ。人は人を真似て作る。人が作るものは、人に似ている(思い出した、そんなことを考えたことがある)。「見る」「聞く」だけでなく、「触れる」「嗅ぐ」「味わう」「感じる」でも事情は同じなのではないか。


「作る」は人の中に備わった仕組みではないか。なぜか自転車に乗れるように、なぜか泳げるように(私は泳げないけど)、なぜか言葉を真似て話せるように(もちろん、できない人もいます、その人も人間です)、なぜか物語を語られて理解するように、また自分が語れるように、人には「作る」が織り込まれている。


 本能やDNAという決まり文句で思考停止したくない。そんな借り物の言葉や物の見方を持ってきて、それでこの不思議を置き換えて、いったい何が分かったというのだ(判断停止ではないか)。いや、たぶん、分からない。きっと、分からない。大切なことは、分かろうと努力すること。それが考えること。結果ではなくてプロセスが大切。プロセスがすべてと言っていい。


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 たぶん、本能ではない。


 おそらく関係あるのは、言葉、言語という仕組みだ。


 うだつの上がらない尻尾のないサルが、なぜかホモサピエンスになった。ズレたからだという説明を見聞きしたことがある。何だっけ、あれは? 脳内でズレが起きたとかなんとか……。そもそも、あれは比喩なのか? それと同時に言語の発生あるいは獲得が起きたとかいううさんくさい話。どんないかがわしい話=フィクションにも一理はあるものだ。


 言葉は、言語は、たぶん、自立している。人から離れている。人の監視や管理の及ばない存在としてある。なぜかは知らないし、分からないだろう。仕組みとはそういうものだ。すでに敷かれている線路なのだ。それとは知らずにその上を走っている。突っ走っている。


 何でもかんでも分かればいいものではない。人は「分かる」と「知る」に取り憑かれている。だからこそ、ここまで来たのだが……。「分かる」と「知る」が自分の首を絞める結果につながることくらい、そろそろ分かったほうがいいのではないか。知るべきではないか。いや、分かっていても、薄々知っていても、人は止まれない。止まらない。それが人が人たるゆえん。


 分かってはいるのだけど、やめられない。

 何だか、そっちへ行ってしまう。行ってしまいたくなる。

 やっちゃ駄目だと、何となく分かるんだけど、やってしまう。

 どうにもとまらない。

 何となく、そうなっちゃった。


「これを買ったら、今月は大赤字になるに決まっているって分かっていたんだけど、〇〇を買っちゃったのよね」、「おかあちゃんに叱られるに決まっている、いや叱られるかも、いや叱られてもいいや――、あ、買っちゃった」、「寂しかったのよ~、なんか、こう切なくて、何かで気を紛らせたかったの、いま思えばね」、「いいえ、世間に負けた」、「あれを買ったのは、別の私です」、「あのさー、もうそのことは言わないでくれる?(かなり不機嫌)」


「結果として、あの人の話術に負けたと言うことでしょうか」、「魔が差したとしか申せません」、「これはぜったいに必要だ、これがあれば幸せになる、これがあれば天国に行ける、本気であの時にはそう信じていたの」、「〇〇が家に十個あることは、ちゃんと分かっていたのですけどね、どういうわけか……」、「こう見えても、わたしは頭脳明晰で冷静な人間なんですよ」、「俺、後悔はしてない、うん絶対にしてないよ(泣きそうな顔)」


(「語り得ないものについては、錯覚しなければならない。」より)



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 引用に満ちたブログ記事がありますね。動画や音声データやテキストの引用そのものであったり、ちょっと加工・編集したものであったり、発信者の作ったデータが含まれていたり、他のデータを混ぜたコラージュや引用の織物であったり剽窃であったりします。私もそうした記事を書いています(私の場合には自己引用が多いのですけど)。誰もが書いているのではないでしょうか。


 オリジナリティが存在するのか、あるいは成立するのかという議論は、古今東西繰り返されてきています。答えの出ない問いであると個人的には思います。そもそも、上で述べた広義の言葉自体が、誰もが生まれた時に既に存在しているものだからです。そこからお借りするしかないわけです。


 言葉は借り物である。言語活動は必然的に引用行為である。


 そう言う人もいるでしょうね。ここにも一匹います。上のフレーズも、借り物であり、引用行為の産物であることは言うまでもありません。


 ブーメラン、ブーメラン。


 誰もがブーメランから逃れられません。


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 語弊のある言葉で恐縮ですが、共犯関係という比喩でも説明できそうです。


 ヒトは語る、つまり言葉を話すことによって、必然的に騙る、つまり仕組むという仕組みにとらわれる。語るに落ちるわけです(ちゃうか?)。


 RTすることにより、Tという仕組みにとらわれる。つまり共犯関係に組み込まれる。


【※ちなみに、共犯には、共同正犯、教唆犯、従犯、そして広義には集団犯罪も含まれるとのことです。こういうややこしいことは私にはさっぱり分かりません。ただ言葉の圧の強さがひしひしと伝わってきます。】


 要するに、共犯関係に組み込まれるのです。誰もがです。例外はありません。いいか悪いかの問題ではありません。もうそうなっているのです。


「妄想ですか?」

「いえいえ、もう、そうです」


 起こっていることは正しいのです。引き返せないのです。たぶん(小声)。


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 いや、オリジナリティは存在するという人もいるでしょうね。たしかに、そう考えないことには著作権は成立しません。分かります。私だって、自分の書いたもので印税がもらえるのなら、飛んで喜びます。著作権保護、万歳! ビバ、オリジナリティ! なんて具合に豹変するに決まっています。現金な人なんですよ。長い付き合いなのでよーく知っています。


 ブーメラン、ブーメラン。


 誰もがブーメランから逃れられません。


 結局は利害関係の問題だとまとめられそうです。誰だってお金がほしい。誰もがご飯を食べずには生きられません。


 いや、パンがある。ケーキがある。


 そうおっしゃる方もいるみたいですね。お上手ですね。おロが達者ですね。座布団、三枚。返してください。


 お後がよろしいようで。



※ちなみに、上の「おロが達者ですね。」の「ロ」はラリルレロの「ロ」をお借りしてきた、つまり引用してきました。引用、複製では、こういうことがあるので、気をつけたいと常に思っています。でも、騙されるんですよね。私は嘘は申しません=私は嘘つきです。←


 ブーメラン、ブーメラン。


 引用、恐るべし。

 複製、恐るべし。

 オリジナリティ、恐るべし。

 著作権、恐るべし。


 言葉、恐るべし。

 かたり、恐るべし。

 共犯、恐るべし。

 ホモサピエンス、恐るべし。


※ウィキペディアによると、ホモ・サピエンスは絶滅危惧種のリストで「経度懸念」らしいです。どういうデータなのかは分かりませんが、心配になります。






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