存在の連鎖・Tomoyuki Negami さんの note

星野廉

2020/12/25 08:04


 存在の大いなる連鎖。


 Tomoyuki Negami さんの記事を初めて読んだ時、浮かんだ言葉がこれです。本の名前でもあります。この邦訳の解説は、物事をつなぐ名人である高山宏氏によるものです(私が大学生時代に、未訳だったこの本 "The Great Chain of Being: A Study of the History of an Idea" by  A. O. Lovejoy を「名著だから手に入れなさい」と教えてくださったのが高山先生でした)。この解説だけでも読む価値があるとは言いすぎでしょうか。


無意識が織りなす観念の歴史

記念碑的著作、待望の文庫化!

西洋人が無意識裡に抱き続けてきた「存在の大いなる連鎖」という観念。その痕跡をあらゆる学問分野に探り「観念史」研究を確立した名著。


【内容】

至高の存在である神から、非存在すれすれの被造物へ。この宇宙はあらゆる階層の存在で充満した、連続する鎖の環である―。「存在の大いなる連鎖」とは、プラトンに淵源するこのような観念のことをいう。「充満」と「連続」という、この二つの原理がいわば無意識のうちに人々に作用し続け、西洋において一つの世界観を作ってきたのだった。古代ギリシャから18世紀におよぶ約2000年の観念の歴史を学際的方法で描き出し、学問分野としての「観念史」(history of ideas)の確立を宣言した記念碑的著作。


【目次】

第1講 序論 観念の歴史の研究

第2講 ギリシャ哲学におけるその観念の創始―三つの原理

第3講 存在の連鎖と中世思想における内的対立

第4講 充満の原理と新しい宇宙観

第5講 ライプニッツとスピノーザにおける充満と充分理由について

第6講 十八世紀における存在の連鎖および自然における人間の地位と役割

第7講 充満の原理と十八世紀楽天主義

第8講 存在の連鎖と十八世紀生物学の或る側面

第9講 存在の連鎖の時間化

第10講 ローマン主義と充満の原理

第11講 歴史の結果とその教訓


(『存在の大いなる連鎖』アーサー・O・ラヴジョイ 著 / 内藤 健二 翻訳)

※筑摩書房のウェブサイトから引用 ↓ 

筑摩書房 存在の大いなる連鎖 / アーサー・O・ラヴジョイ 著, 内藤 健二 著

筑摩書房のウェブサイト。新刊案内、書籍検索、各種の連載エッセイ、主催イベントや文学賞の案内。

www.chikumashobo.co.jp

 以下の「コトバンク」の解説も参考になります。


<存在の大いなる連鎖>


<A. ラブジョイ(英語表記)Arthur Oncken Lovejoy>


 松岡正剛氏(この方は、物事をつなぐ魔術師です)の俊抜なラブジョイ論・書評です。読んでいてぞくぞくしてきます。↓


 存在の大いなる連鎖


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 Tomoyuki さんの記事は「〇〇の日」が定番なのですが、その主な出典がフランス語で書かれた資料である点が特徴です。これは目立ちますね。同種のnoteの記事で他に見た記憶がありません。しかも原文が引用されていることが多いのでとても勉強になります。


 Tomoyukiさんの「〇〇の日」のもう一つの特徴は、事物のつながりに重点を置いた作りになっていることです。しかも、思いがけない固有名詞同士あるいは事物同士がつながることがあり、とてもスリリングな展開になることが多々あります。この魅力にはまると抜けられません。


 最近の記事である「漢字の日」に、概念と言葉の両方のレベルでの連想を楽しんでいるような箇所があります。さまざまな固有名詞(人名・著作名)と用語がタペストリーのように縦横に糸が走る形で織りなされているのです。私がとやかく言葉を重ねるよりも、実際にお読みいただくのがよいと思います。「俳句の日」に見られる連想も刺激的です。





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 Tomoyuki さんの記事のルーツを探ってみましょう。


 以下の文章は、Tomoyuki さんがnoteで最初に投稿した記事です。51という数字をめぐっての直観と洞察に支えられた洒脱な文章になっています。



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 以下は、5月5日の記事で、noteで投稿するようになった経緯について触れられています。



 ↓ ここから定番の「今日は〇〇の日」が始まります。食べ物であることが興味深いですね。Tomoyuki さんにとって、食べ物は重要なテーマです。人間存在の基本に「食べる」という行為があるのは言うまでもありません。



 ↓ このあたりから、その後の Tomoyuki さんが書き続けていく記事の形式が確立します。



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 私が Tomoyuki さんに親近感を覚えるのは、ともに共通してフランス語とフランスの文物を学んだという点に加えて(Tomoyuki さんはフランス語の達人であり、私のフランス語の知識はスカスカで隙間だらけです、謙遜ではなく)、これまでに読んだり見たりしてきたものが共通するように感じられるからです。同じ風景を見て生きてきた仲間か同志のように思えてならないのです。


 もう一つは、Tomoyukiさんと私には、ものをつなげたいという願望というか欲求があるからではないかと思います。ただし、やり方が異なるようです。Tomoyukiさんは博識に裏づけられた直観と洞察があります。だからこそ、物、事、現象を深いところでつなげるという方法を選択なさっているのです。まさに、上述の存在の大いなる連鎖を指向するスタンスです。


 一方、私は表面や表層にこだわります。深くには行けないのです。その結果として、言葉遊びに走ります。この言い方では我ながら身も蓋もないので、もう少し格好をつけた表現をすると、言葉の表層のレベルで物、事、現象をつなごうとあがく、というわけです(※表層批評宣言にかぶれたりします)。「あがく」がキーワードです。何か大きなものを指向しないスタンスとも言えるでしょう。


 このように自分とは対照的な資質を持った方なので、私は Tomoyuki さんのお書きになるものに強く惹かれるのかもしれません。


 ものごとの深層にまで視線を注ぐ Tomoyuki さんなのですが、その眼差しは遙か遠くを見ている気がしてなりません。つまり、長期的視点に立ち、遠くを目指していらっしゃるように思えるのです。たとえば、記事には毎回、<来年の宿題>という項があるのですが、こういう長期的な発想は私には皆無であり、いわば「その日暮らし的」な発想しかないようです。


 Tomoyuki さんは大きなものを頭の中に描いていらっしゃるはずです。それが大いなる存在の連鎖だと私には思えてなりません。毎日の記事はその彼方に向けての布石であるはずだ。そう信じています。


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 私が好きな記事を挙げます。たくさんありすぎて困ります。






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 最後に、これを紹介します。これまでにお書きになった記事へのリンクがあります。



 Tomoyuki さん、勝手な思い込みだらけの文章を書いて申し訳ありません。どうしても書きたかったのです。noteで Tomoyuki さんに出会えたことに感謝しています。



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