言葉は外から来るもの
星野廉 2021/05/19 07:53 目次 こういうことはよくあります 言葉は外から来るもの 言葉は後押ししてくれる 言葉はわける 曖昧放置プレイの名手たち 外から来るものとの出会い 言葉は外へと帰って行く こういうことはよくあります 自分の言ったことや書いたことについて、後になってよくあれこれ思いをめぐらします。ああでもない、こうでもない、ああでもある、こうでもある、という具合につっこみを入れるわけです。ひとさまの文章や発言にそうする習慣はありません。 要するに、往生際の悪い、うじうじした性格なのでしょうね。 世界は似たものに満ちている。 世界は顔で満ちあふれている。 似ているはいたるところにある。 同じや同一はない。 似ているは印象。 同じと同一は検証しなければならない。それも機材を用いて科学的に精密に。 似ているが人にとっての体感できる現実。 同じと同一は人にとっては抽象でしかない。 (拙文「剽窃から遠く離れて あるいは引用の織物」より引用) 繰り返してばかりで恐縮ですが、「似ている」は個人の印象であり感想であり意見です。「違う」もそうじゃないでしょうか。あるものとそれとは別のものが本当に違うかどうかは、かなりマジにそれこそ機械とか器機を使って検証しないと判断できないのではないでしょうか。 見ただけでは分からない気がします。「違うんじゃないの」としか言えないという意味です。もちろん、さきほど上で述べたように、明らかに違うと思うもの同士を人は比較しないという前提があっての話ですよ。そう、話なんです。論とか説なんてものじゃありません。 その意味で「違う」は、「同じ」とか「同一」と同じです。検証しないと判断できないという意味で似ています。そっくりです。そっくりなところがそっくりなのです。 (拙文「世界は顔で満ちている ――人は夜になると洗濯をする――」より引用 上で書いたことについて、さっきから考えています。 人にも感知できる「同じ」と「同一」があるのではないか。それだけでなく「違う」や「異なる」もです。今はそんな気がします。こういうことはよくあります。ですから、また前言を撤回する可能性が高いと言えます。 これは、たぶん、私が正解とか正答(あるいは悟り)を求めていないからだと思います。だからこそ、フランスの現代思想と呼ばれ...