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2/3『仮往生伝試文』そして/あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』【中篇】

星野廉 2021/01/07 08:20      ◆  さて、『批評 あるいは仮死の祭典』と『仮往生伝試文』でしたね。  共通する「仮」という文字が気になります。わくわくして気持ちがいいのです。暗示にかかりやすいだけでなく、符合や偶然に過剰に反応する人間なので、共通してある「仮」にこだわるのかもしれません。性格とか気質の問題でしょうか。それならそれでいいと思っています。「気持ちがいい」は大切です。  ふたつの作品に共通する「ねえ、まだなの?」がずっとつづくような文章が、気持ちよさの一因だと思います。「どこにつれていってくれるのだろう?」という不安をともなう心地よさもあります。きちんと文章を読むことがきわめて苦手なので、文字を追いながらとりとめのないことを考えるのが常です。具体的には、前篇で紹介したの言葉と文字の羅列やそれらをめぐっての思い(「だ・である調」で書いた部分です)があたまのなかを駆けるのですが、読む対象はどんな本や文章でもいいわけではありません。今のところ、『批評 あるいは仮死の祭典』と『仮往生伝試文』が上のようなことを考えながら読むのに最も適した「乗り物」だと言えそうです。  それでは、二冊の本を個別に見ていきましょう。<『仮往生伝試文』論>とか、<『批評 あるいは仮死の祭典』を読む>なんていう肩に力の入ったものではありません。そんなたいそうなものを書く柄ではないことはよくわかっているつもりです。かつて流行った言い回しを借りると、「〇〇の余白に」書くという感じかもしれません。      ◆  まず、『仮往生伝試文』なのですけど、とにもかくにも死にそうなのです。 「私、もう駄目かも」の永遠化です。持続する死にかけ状態は、ここでは幸福の絶頂に似ています。異質のテキストがパッチワークになっているさまは、末期を控えた人のあたまに浮かぶだろう夢想・断片のようです。繰り返される仮往生と往生の記録・伝。仮往生と本往生をめぐる物語の変奏と反復。  仮往生本往生仮往生本往生仮往生本往生仮往生……。  なかなかいかせてくれません。「私、もう駄目かも」が延々と続きます。試文はあくまでも試文(序文・注解・付録)であり続け、本文(ほんぶん・ほんもん・正文・原典)へとはたどりつない。ひょっとすると試文は死文なのかもしれません。作品全体に漂うなかなか死なない死にかけぶりのしぶとさは...

文字を目で追いながら別のことを考える

星野廉 2020/12/18 12:13  今、古井由吉の『仮往生伝試文』を読んでいます。単行本を持っているのですが、分厚くて重いので文庫版を最近手に入れました。やはりこっちのほうが読みやすいです。一日の大半を過ごす居間のテーブルに置いています。今もPCの脇にあるのですが、好きな本だからでしょうか、こちらに目くばせを送っているように感じられることがあります。 『聖耳』、『魂の日』、『木犀の日』。 このところ古井由吉の本ばかり読んでいて、他の作家の本を手に取る気になりません。そういうふうに融通のきかないところが私の欠点なのです。それは分かっているつもりです。  私にはもう一つ欠点があります。きちんと本が読めないのです。文字を目で追いながら別のことを考えるなんてざらにあります(たまにですが、書きながら別のこと、とくに次に書くつもりの文章のことを考えている時がありますが、その際には書いている時間がもどかしくてなりません)。それがとても楽しいのでやめられません。だから、意味を正確に読み取るのは至難の業です。自分で勝手に読みかえている節があるのですが、こういうのを世間では誤読とか曲解とか呼んでいますね。  長年にわたってこんないい加減な読み方をしているのは、社会とは切り離された生活をしているからにちがいありません。わけあって無職ですし、交際がきょくたんに薄いのです。引きこもっていると言ってもかまわないと思います。このまま一生を終えるだろうという予感があります。      *  うわの空で本を読んでいる私の感想なのできっと的外れな意見なのでしょうが、『仮往生伝試文』はブログみたいにも読める気がします。各章に日記体の部分があるのがいちばんの理由なのですけど、いかにも安易な考えですね。今言葉にしてみて、そう思いました。とはいえ、私にとってあの作品がブログであることに変わりはありません。  日記体の部分の前後にいろいろな種類の文章があるのですが、各文章間に内容はもちろん文体や雰囲気の揺らぎと変化が見られ(たとえて言うと突然の変調とか転調です)、そのがくんとした落差というか踏み外しがとても心地よく感じられます。一貫性を欠いた異なるテキストを織りまぜたつくりの作品が、私は好きみたいです。  以前には村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』が好きで、この小説ばかり読んでいた時期がありました。...

用言体 <動詞について・003>

星野廉 2020/11/22 07:48         〇  用言体と勝手に呼んでいるものについてお話しします。あくまでも個人的な呼び名なので分かっていただけるか心もとないのですが、説明させてください。イメージとしては古井由吉の小説やエッセイに見られる文章のつづり方で、主語が省かれていたり、抽象度の高い名詞や人称代名詞や固有名詞の放つ強い光を避けながら書いていく方法なのです。 「主語を省く」というのは分かりやすいですね。ああ、確かにこのセンテンスでは主語が書かれていない、というふうに誰が読んでも確認できます。お断りしますが、「主語が省かれている」とは「主語が隠れている」とか、あるいは「主語は書かれてはいないが誰の動作や状態なのかは読んでいて分かる」という状態を指します。  古文と呼ばれる日本語の文章では主語が省かれている場合があるが、隠れた主語がちゃんと分かるように書かれている。そんなことを中学と高校時代に習ったにもかかわらず、古典が並外れて苦手なのでずっと逃げてきました。いまも古文は読めません。  用言体は古文ではありませんが、主語が省かれている(隠れている)場合には、ある行為や状態が誰のものなのかに注意しながら読む必要があります。ただし、主語が省かれていたり隠れていることが用言体の必須条件かと言えば、そうでもありません。  大切なことは、主語があろうとなかろうと、抽象度の高い名詞や人称代名詞や固有名詞による目くらまし的な光(読む人を分かった気分にさせる虎の威みたいなものです)よりも動詞の身ぶりが目につくように書かれているかどうか、なのです。どう書いてあるか、どう書かれているか、これがもっとも重要な点です。いまお話ししているのは、あくまでも書き方の問題なのです。内容ではありません。         〇  用言体で書かれた文章においては、読む人は自分が言葉(作中人物ではありません)になったと感じたりあるいはなりきったり、主語ではなく述語や述部になったような気分に陥ったりそうした印象をいだくことがおおいに考えられます。ストーリーは気にならなくなるかもしれません。  ややこしいことを書いて申し訳ありません。この種の話は、心当たりがあるかどうかにかかわってきます。保険の勧誘ではありませんので、納得していただくとか、同意を求めたりはしません。宗教の勧誘でもありませんので、...

いやだ、ズルしちゃ駄目よという感じでしょうか。

星野廉 2020/12/28 08:24  ああ、そこそこ。そうなのね。なるほど、お上手お上手。ほう、そう来ましたか、不意を突かれてちょっと戸惑いましたよ。あ、これはいったいどういうことなのか。あら、いやだ。またまたそういう手をおつかいになる。それはズルだって言ったでしょ。それにしても……。  かなり前のことです。井上究一郎訳『失われた時を求めて』と Folio 版の Du côté de chez Swann (「第一篇 スワン家のほうへ」)と辞書を照らし合わせながら読んだことがあります。もちろん、ところどころです。対訳でのお勉強というわけですが、気持ちが良かったので、勉強をしているという気はしませんでした。若かったし、体力があったからでしょう。それに当時はいろいろな夢がありました。夢があると、人は強いです。  プルーストのあの長い長い作品には複数の邦訳がありますね。選り取り見取りですから、興味と体力のある方はお好きな訳でお読みになったり、途中でおやめになったり、ときどきぱらぱらめくったりなさっているにちがいありません。      *  今思い出しましたが、ジェイムズ・M・ケイン作の『郵便配達はいつもベルを二度鳴らす』(または『郵便配達はベルを二度鳴らす』)という邦訳が、田中西二郎訳、田中小実昌訳、中田耕治訳、小鷹信光訳の四種類も楽しめた(つまり本屋に並んでいた)時期がありました。こっちは原著なしで、日本語訳だけを四種類読み比べましたが、わくわくするような体験でした。若くなければできない冒険だと今になって思います。そう言えば、J・D・サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』(または『九つの物語』)もいくつかの訳本がありましたね。私は野崎孝による邦訳しか読んだことはありませんが。 『失われた時を求めて』の井上究一郎訳を私が好きなのは、律儀に訳してあるからです。つまり、センテンスが長くてとても読みにくいのです。ああいうのを難しいとは私は言いません。とにかく読みにくいのです。でも、あれよあれよという感じで気持ち良く読み進めることができました(難しいものはあれよあれよとは読めません、私の場合には)。「できました」と過去形なのが残念です。寂しいです。今は無理ですね。  井上訳を原文に忠実な訳とは言いません。フランス語がろくにできないのに、偉そうな言い方をしてごめんなさい。あれ...

言葉を誘い出すもの <言葉は魔法・023>

星野廉 2021/01/22 07:59  書く時のルーティーンみたいなものが、誰にもある気がします。まず、これがないと文章を書く気になれないという物、つまり書く時の必需品ついての話から始めましょう。  文房具にこだわる人は多いですね。愛用している筆記具はいとおしいもので、他のものを使う気にはなれないと言う作家やライターさんの意見を見聞きします。  このペンだとよく文章が書けるとか、原稿用紙じゃないと人に見せる文章は書けないとか、パソコンでしか書けなくなっているとか、スマホで書くのが習慣化している、あと愛用と言うか、つねにそばに置いておく三角定規や文鎮やパワーストーンがある、なんて言う人も多いです。  いま挙げたのは物ですが、事や状況もありますね。たとえば、書く前には散歩を欠かさない、シャワーを浴びてインスピレーション(霊感)を受けやすくする、音楽が聞こえないと書けない、逆に音がする環境では書けない、音楽はぜったいにロックそれも60年代のブリティッシュロック、わたしは何てったって演歌、ぼくはあのカフェのあのテーブルに就かないと駄目、愛猫がそばにいないと乗らない、なんて感じでしょうか。  分かる気がします。書くためにはある特殊な精神状態が必要であったり、脳のある部分が活性化されていないと書けない、というのはおおいにあると思います。それを誘い出す物や事や状況がある、それは個人差があり、人ぞれぞれだというわけです。  こうした行動は験を担ぐとも言いますが、典型的なルーティーンであるとも言えますね。もう引退なさいましたが、五郎丸歩さんのあのチャーミングなポーズみたいに、あの儀式を執り行わないと「何ものか」が助けてくれないのです。物だと、羽生結弦選手のプーさんもそうでしょう。  スポーツ選手やアーティストは、自分しか頼る人がいない超孤独な極限状態に身を置くわけですから、私たち書き手もまた自分をそうした厳しい状況に我が身を置く覚悟があってもいいのではないでしょうか。書くことは真剣勝負なのです。  書く行為は、非日常であったり特殊な精神状態下でおこなわれる。  言葉を誘い出す事物や儀式がある。    言葉は魔法なのだから。         *  言葉が降りてくるとか、言葉が降ってくるとか言う人がいますが、その気持ちも分かる気がします。天や空を意識した言い方ですね。  言葉が出てく...

3/3『仮往生伝試文』そして/あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』【後篇】

星野廉 2021/01/08 08:18      ◆  次に『批評 あるいは仮死の祭典』を見てみましょう。  この本は徹底して死んだふりをしています(じつは生きているふりをしているものの死んだふりなのですけど)。横たわって死に顔をつくり、えへへとこころで笑っているかのようです。ある意味とても面倒くさいです。真性のかまってちゃんなのです。想像してみてください。生きているのに死にまねをしているのですよ。本当は生きているのをみんながわかってくれないから、ひっくり返って、ねえねえ死んでいるんだよとからだ全体で訴えているかまってちゃんなんです。相手をするのは疲れますよね。何が生きているのかというと、言葉なのですけど。  じつはこういうかまってちゃんって、Mなんです。 『マゾッホとサド』(ジル・ドゥルーズによるこの著作を蓮實重彦が訳したのが希有な符合つまり必然に思えてなりません)で指摘された、ずる賢くしたたかなMの資質を具現しているとも言えそうです。とてもじゃないですが、持久力も戦略も狡知も持ち合わせていないSには太刀打ちできません。そもそもSとMのあいだには相性など成立しないほど、両者は隔たっているし異質な存在同士なのです。「ねえねえ、死んでいるんだよ(じつは生きていることを主張しています、面倒くさいこときわまりありません)」と相手を根気よく飼い慣らしあやつり翻弄するM。その相手ができるのは、たとえMでなくてもMの世界の住人でなければなりません。  それにしても、ややこしいですね。大儀ですね。こういう話は図式化という横着をするのがいちばんだと思います。         * *Mの世界:  基本は、教育と演技(演劇・振りをすること)と遊戯。要するに、プレイ。  Mはどんな人?:  教育者(自分が気持ち良くなるためのストーリーと方法を相手に教える教師)。しつこい、根気強い。かまってちゃん。自己中だけど、快感を得るためなら少々のことは我慢する。言っていることと望むことがしばしば真逆(たとえば、「駄目」は「OK」、「やめて」は「続けて」、「死にそう」は「めっちゃ気持ちいい」)。主導権は自分が握る。要するに、めんどくさい。最も重要なポイントは、Mはじつは「ご主人」であること。  Mの相手には、どんな人物が適するのか?:  従順。元気で健康体であることが望まれる。Mのお願いや注文(実は...

ねえまだなの?の永遠化という感じなのです。

星野廉 2020/12/22 11:37  安心して身をまかせられるのが、夢の魅力です。夢は何でも肯定してくれます。夢には矛盾はありません。あると感じたら、それはむしろ覚醒ではないでしょうか。夢の後の記憶としては、いくらでも矛盾を指摘できます。一笑に付すこともできるでしょう。覚醒は、その意味で退屈きわまりない体験です。夢では退屈はあり得ません。あれよあれよが夢です。  あれよあれよという感覚が好きです。夢はもちろんというか、夢が最高のあれよあれよですが、歌や映画や文章や生理現象や運動でも、あれよあれよを体験することがあります。いちばん分かりやすいのはテレビのCMでしょうか。音楽も映像も含まれていて、そして何よりも短い点が、あれよあれよ感を助長するみたいです。あっけにとられて見てしまうCMがあります。心地よいです。文章では野坂昭如の小説と蓮實重彦の批評の文体が、私にはあれよあれよです。難しくてもかまいません。理解なんてする必要がないのがあれよあれよですから。  テレビのCMはあっと言う間に終りますが、野坂昭如や蓮實重彦の文章はセンテンスが長く、しかも改行が少なくて、決して読みやすいものではありません。でも、私にとってはあれよあれよなんです。考えるいとまがないのに読み進んでしまう。あたまのどこかで音読している自分の声と活字の字面、つまり聴覚と視覚の両面で酩酊している。そんな感じです。視覚はともないますが音楽や旋律を楽しむのに似ています。どこに連れていってくれるのだろうという、運ばれる心地よさがあります。なかなか逆らえないのです。徹底した無抵抗状態というか万事お任せ気分なのです。お腹を天に向けて寝っ転がる「へそ天」という格好をする犬や猫がいますが、それを思い出します。もーどーにでもして頂戴。  古井由吉の文章も、私にはあれよあれよなのですけど、野坂や蓮實の場合とはちょっと違います。野坂や蓮實の文章が――顰蹙を買うのを覚悟で申しますと――快便や下痢であるなら、古井の文章は便秘に似ている感じなんです。古井の『水』という短編集の解説で「停滞」という言葉が使われていますが、停滞とは比喩的に言えば便秘ですよね。よどみ、とどこおるわけです。これを毎日体験する人がいます。私もそのひとりです。ああ、まだまだ。出ないよー。うーん、うーん。宙ぶらりんの忘我状態というか、要するにまだまだ感です...

内容とか筋はどうでもいいです。

星野廉 2020/12/30 08:10  長いセンテンスから成る作品だけが、あれよあれよと読めるというわけではありません。ただ、短文で畳みかけるような文章は、年を取るにつれて、読むのも書くのもだんだん苦しくなる。息継ぎに苦労する。そんな感じです。私の場合にはですけど。  短いセンテンスの魅力と言えば、若いころに盛んに読んだ作家に中上健次がいます。いましたと言うべきなのかもしれません。四十六歳で亡くなったのですから夭逝ですよね。 『岬』は何度も読みました。小説を書きながら集中的にあちこち読んでいたことがあります。小説であれ哲学書であれ批評であれ、私は好きな箇所だけを順不同で読みます。こういうのは拾い読みと言うのでしょうか。この読み方がいちばん快いからです。内容とか筋はどうでもいいです。まして意図なんて考えたことがありません。気持よくあれよあれよと読むときに、そんな余裕はないです。  極端なことを言うと、辞書はもちろんのこと、電話帳や電気製品のマニュアルでも場合によってはあれよあれよと読めるのです。これについては、いつか書きたいと思います。      *  書棚から、中上健次の本を持ってきました。小学館文庫版です。短文、短文と意識しながらぱらぱらめくってみて、いいなあと感じたのは、『岬』のほかに、『浄徳寺ツアー』――冒頭の三番目の文が句点を入れて五文字の「安堵した。」ですが、ぶっきらぼうでなかなかいい――と『蛇淫』でした。短文が適しているのはやはり短編ですね。短いセンテンスが力強くて気持ち良くからだに入ってきます。きょうは体調がいいようです。  私には体調で読むようなところがあって、病状が思わしくない現在は、短くて勢いのある作品はからだが受け付けません。息の長い文章のほうがすっと入ってきます。  中上の短編では比較的短文が多いにもかかわらず(長いセンテンスも混じっています)、字面がべたーっとしています。改行が少なかったりするし、鉤括弧付きの会話が地の文に織り込んである場合もあるからです。出版社の会議室かなんかでテーブルの上に腹ばいで這いつくばり、原稿用紙ではなく罫紙に細かい字でぎっしり書いていた。中上についての、そんな逸話を読んだ覚えがありますが、記憶違いかもしれません。違ってもかまいません。中上についての、今述べたイメージが気に入っています。  段落なんかも考えずに...